第25話 不死身の和上
唐の首都・長安。
その片隅にある冷たく薄暗い牢獄の中で、日本の留学僧である栄叡と普照は、うずくまっていた。
「朝廷よォォ……。あんたらの無茶振りのせいで、俺たち唐の牢屋で死ぬことになったぞォ……」
栄叡のうわ言のような怨嗟が、石壁に虚しく反響する。
仏教界のトップ・鑑真大和上をスカウトするという無謀なミッション。奇跡的に鑑真本人の承諾を得たものの、国宝級の師匠を連れ去られることに激怒した弟子たちの密告により、二人は「誘拐未遂」として逮捕されてしまったのである。
(終わった。俺たちの出世街道も、人生も、この湿った土の上で終わるのだ……)
普照が静かに目を閉じ、餓死を受け入れようとした、まさにその時である。
ガチャリ。
重い鉄格子が開き、眩い松明の光とともに、一人の老僧が静かに牢の中へと足を踏み入れた。
「……迎えに来たぞ、栄叡、普照よ。さあ、大和へ向けて出発じゃ」
「が、鑑真様ァァァッ!?」
二人は飛び起きた。
そこには、牢屋の看守たちを平伏させ、後光すら背負って見える鑑真の姿があった。なんと唐仏教界の最高権威である彼が、自らの政治力とコネをフル活用し、二人を釈放させたのである。
「大和上! あ、ありがとうございます! しかし、弟子の方々が我々を誘拐犯だと……!」
「案ずるな。弟子の反対など、仏の道に進む上では些末な障害に過ぎん。すでに港へ向かう手はずは整えておる。さあ、海を渡ろうぞ」
ニコリと微笑む鑑真。
その背後で、看守の後ろからこちらを般若のような顔で睨みつけている一番弟子の祥彦の姿に、栄叡と普照は心臓が縮み上がる思いだった。
(絶対諦めてない……! あの弟子、俺たちを殺す気マンマンだぞ!)
かくして、栄叡と普照、そして唐の国宝・鑑真による、壮絶なる「密航ツアー」が幕を開けたのである。
***
しかし。
この密航計画は、開始早々から失敗のループに陥ることとなる。
【第一回脱出計画:闇船ブローカー詐欺事件】
長安を抜け出した一行は、揚州の港で商人に船の手配を依頼した。
「ヒヒヒ、任せてくだせえ。極上の船を用意しますよ」
商人は鑑真が用意した報酬を受け取ると、翌日、あっさりと役所に一行を密告した。
「お役人様! あそこに国宝を誘拐しようとしてる怪しい僧侶がいますぜ!」
「なにおぅ! 出国禁止ィィッ!」
あっけなく逮捕。商人は金を持ち逃げした。
「クソォォォッ! 騙された! あのクソ商人、絶対に許さん!」
牢屋の中で地団駄を踏む栄叡と普照。しかし、鑑真は座禅を組みながら穏やかに微笑んだ。
「怒ってはならん。あの商人もまた、仏の教えを広めるための資金を必要としていたのであろう。すべては仏の導きじゃ」
「導かれて牢屋に入ってるんですよォォ!」
【第二回脱出計画:手作りイカダ沈没事件】
数ヶ月後、再び鑑真のコネで釈放された一行は、「誰も信じられないなら自分たちで船を造るしかない」と、海岸の木を切り倒して船を造り始めた。
「よし! これなら誰にも密告されないぞ!」
しかし、素人がノコギリと縄で作った急造のイカダである。
夜闇に乗じて出航したものの、岸からわずか十メートル進んだところで、高波を食らって大破した。
「ブクブクブクッ……! 沈むゥゥゥ!」
塩水を飲んで溺れかける栄叡たちをよそに、鑑真はプカプカと浮かぶ丸太の上に結跏趺坐で座り、静かに経を唱えていた。
「海神の試練じゃ。実に心地よい波の揺れよな」
「大和上! 呑気なこと言ってないで泳いでくだせェェ!」
【第三回脱出計画:弟子の通報】
さらに翌年。別の港からこっそり出航しようとした一行だったが、乗船直前に、背後から無数の足音が迫ってきた。
「そこまでだ、泥棒猫どもォォォッ!!」
見れば、一番弟子の祥彦をはじめとする数百人の弟子たちが、松明を持って包囲網を敷いていた。彼らはGPSでも付いているのかというレベルの執念で、一行の動向をストーキングしていたのである。
「大和上をお返し申す! そしてそこの倭国の猿ども、今日こそ海の藻屑にしてくれるわ!」
「ひぃぃぃッ! すいませんすいません! 魔が差したんですぅ!」
またしても逮捕。
――こんな調子で、数年の間に幾度となく密航を企てては、騙され、沈み、密告され、逮捕されるという失敗ループが繰り返された。
日本から「高僧を連れてこい」と丸投げされた二人の留学生は、心身ともに削り取られ、もはや生ける屍と化していた。
「……普照。もう無理だよ。諦めよう……」
「だな、栄叡。もう無理だ。牢屋の常連になってしまった。諸兄様には『頑張りましたがダメでした』と遺書を書いて、ここで死のう……」
二人は、心が折れていた。
しかし、彼らがスカウトしたこの「唐の最高権威」は、常人のメンタルを遥かに超越した、バケモノのような精神力の持ち主であった。
「何を弱音を吐いておるのだ、二人とも」
牢屋の外で、鑑真は一切の疲労を感じさせない、ピカピカの笑顔を浮かべていた。
「これは仏が我々に与え給うた、素晴らしい試練である! 幾度失敗しようとも、必ずや海を渡る道は開ける! さあ、次の船の手配を考えようぞ!」
ニコッ! と爽やかに笑う御年六十を超える老僧。
(こ、このお爺ちゃん……無敵だ……ッ!)
栄叡と普照は、絶望とは別の意味で戦慄した。
普通の人間なら一度の投獄で心が折れるところを、この男は「失敗=仏様からの試練」くらいにしか認識していないのである。
仏の道を極めた者の狂気。圧倒的なポジティブ・シンキング。
彼らは理解した。このお爺ちゃんを止められる者は、もはやこの世に存在しないのだと。
***
天平二十年(七四八年)。
度重なる失敗の末、鑑真の強引な根回しと、買収に次ぐ買収により、ついに一行はまともな外洋船に乗り込み、唐の港を抜け出すことに成功した。
「や、やった……! ついに海に出たぞォォォ!」
甲板の上で、栄叡と普照は抱き合って男泣きに泣いた。
長かった。あまりにも長かった。これでようやく、あのブラック朝廷に言い訳の立つ成果を持ち帰ることができる。
だが、彼らは忘れていた。
この東シナ海が、飛鳥時代から数多の遣唐使たちを海の底へと引きずり込んできた「死の海」であることを。
出航から数日後。
空が墨汁をぶちまけたような漆黒に染まり、海面が山のように盛り上がった。
「た、台風だァァァッ!!」
船乗りの絶叫が轟く。
木造の平底船は、巨大な波濤に揉まれ、まるで洗濯機の中に放り込まれた木の葉のように回転し始めた。
「オロロロロロロォォォッ!!」
栄叡と普照は、甲板の柱にしがみつきながら、空の胃袋から緑色の胃液を撒き散らしていた。
「死ぬ! 今回こそガチで死ぬゥゥッ!」
波が甲板を洗い流し、帆柱がミシミシと悲鳴を上げてへし折れる。
まさに阿鼻叫喚の地獄絵図。
その嵐のど真ん中で。
「南無阿弥陀仏……南無阿弥陀仏……」
鑑真は、波が打ち付ける甲板の中心に座禅を組み、一歩も動かずに経を唱え続けていた。
船が四十五度に傾こうが、大量の海水を被ろうが、その姿勢はミリ単位でブレない。体幹がサーファー並みである。
(この人、物理法則まで無視し始めたぞ……ッ!?)
胃液を吐きながら、普照は鑑真の恐るべきフィジカルに戦慄した。
船は暴風に流され、方向感覚を失った。
そして数週間の漂流の末、彼らが打ち上げられたのは、日本の美しい海岸――ではなく。
「……ウホッ! ウキィッ!」
「……えっと、ここ、どこですか?」
見渡す限りの熱帯雨林。木の上からは見たこともない極彩色の鳥が鳴き、巨大なトカゲが足元を這い回っている。
そこは、唐の遥か南方、未開のジャングルが広がる「海南島」であった。
「に、日本じゃないィィィッ! 完全に逆方向だァァァッ!!」
絶望のあまり、栄叡が砂浜に大の字になって泣き叫んだ。
せっかく出航したのに、振り出しよりさらに遠い場所へ飛ばされるという、最悪の事態を引いてしまったのだ。
***
海南島でのサバイバル生活は、過酷を極めた。
猛烈な湿気と、容赦なく照りつける太陽。毒虫や熱帯特有の病が、一行の体力を容赦なく削り取っていく。
ついに、悲劇が訪れた。
「……普照、よ……」
粗末な小屋の中で、栄叡が激しい高熱にうなされ、血を吐いて倒れたのである。
風土病であった。
「栄叡! しっかりしろ栄叡! 日本に帰るんだろう!?」
普照が涙ながらに手を握るが、栄叡の命の灯火は、すでに消えかかっていた。
「……悪いな、普照。俺はここまでだ……」
「何を言ってるんだ! お前がいなけりゃ、俺はどうやって橘諸兄様に報告書を出せばいいんだよ!」
「……諸兄様に、伝えてくれ……。『予算ゼロで、唐の南の島まで出張するのは、労基法違反です』……と……」
「栄叡ェェェェェェッ!!」
ガクッ、と。
日本から唐へ渡り、地獄の密航ループを共に戦い抜いた戦友・栄叡は、ついにこの未開のジャングルで、過労と病により息を引き取った。
相棒を失い、普照の精神は崩壊した。
「終わった……。もう誰も俺たちを助けてくれない。船もない。仲間も死んだ。一生、このジャングルで猿と暮らすしかないんだ……」
普照は、栄叡の墓の前で、ボロボロと泣き崩れた。
一方、当の鑑真はどうしていたか。
「ほほう、この珍しい果実はなかなかに美味じゃな! さあ皆、仏の恵みに感謝していただこうぞ!」
超絶元気であった。
ジャングルの環境に適応し、地元の原住民たちに笑顔で仏の教えを説き、彼らから食料を分けてもらいながら、悠々自適のサバイバルライフを満喫していたのである。
(なんなんだこのお爺ちゃんは……。メンタルもフィジカルも、バケモノかよ……)
普照は、その異常な生命力に恐怖すら抱き始めていた。
しかし、いかに不死身の精神を持つ鑑真といえど、御年すでに六十代後半である。熱帯の苛酷な環境と、数年に及ぶ流浪の疲労は、確実に彼の肉体を蝕んでいた。
ある日のこと。
原住民の村を歩いていた鑑真が、ふらりとバランスを崩し、切り株につまずいて倒れ込んだ。
「大和上!?」
慌てて駆け寄った普照は、息を呑んだ。
倒れ込んだ鑑真の目は、虚空を彷徨い、目の前で振った普照の手に、まったく焦点が合っていなかったのである。
「……普照か。急に、辺りが暗くなったようじゃな。今日は日食かの?」
「大和上……まさか、目が……」
南方の強い日差しと、過労による眼病。
鑑真は、ついに両目の視力を失ってしまったのである。
…………。
普照は、その場に両膝を突き、地面に額をこすりつけて号泣した。
「あああっ……! 大和上、申し訳ございませぬ! すべては……すべては、我ら日本の僧が、あなた様を無理に誘い出したせいで……ッ!」
唐の最高権威を、予算ゼロの密航に巻き込み、挙句の果てに未開のジャングルで盲目にさせてしまった。
これはもう、切腹して詫びても許されるレベルではない。
「許してください……! もう、日本になど行かなくて結構でございます! ここからなんとか長安へ戻り、私がお弟子様たちに首を差し出します! ですから、もう諦めて……ッ!」
普照は、これでようやく、この狂ったプロジェクトが終わると思った。
目が見えなくなった老人が、これ以上、海を渡るなど不可能である。
諦めてくれるはずだ。いや、諦めてくれなければ困る。
しかし、地面に突っ伏して泣く普照の頭上に、低く、しかし微塵も揺るぎのない、静かな声が降ってきた。
「……何を泣いておるのだ、普照」
「えっ……」
普照が顔を上げるとそこには、光を失ったはずの目をカッと見開き、全身から圧倒的な後光を放つ鑑真が、仁王立ちになっていた。
「眼は潰れた。……だが、それがどうしたというのだ」
鑑真は、見えないはずの東の空を、指差した。
「ワシの心の眼には、はっきりと見えておるぞ。大和の国の、美しき桜が! 今まさに黄金に輝かんとする、巨大な仏の御姿が! この程度で、ワシの歩みが止まると思うたか!」
「だ、大和上……?」
「仏の法を求める声がある限り、ワシは行く! たとえ手足をもがれようとも、這ってでも海を渡る! さあ、行くぞ普照! 次の船を探すのじゃ!!」
ドォォォォォンッ!!
普照の脳内で、絶望の銅鑼が打ち鳴らされた。
普照は、震え上がり、後ずさりした。
怖い。純粋に、怖い。
度重なる逮捕、弟子の裏切り、嵐、漂流、仲間の死、そして自らの失明。
あらゆるバッドイベントを引いても、この男の「日本へ行く」という目的意識は、一ミリたりとも揺らいでいないのだ。
もはや人間ではない。日本へ戒律を届けるためだけにプログラムされた、仏教サイボーグある。
(このお爺ちゃん……俺が死んでも、俺の骨を拾って一人で海を渡りかねない……ッ!)
普照は、諦めることを諦めた。
もう、この止まらない重戦車に最後までしがみついていくしか、自分に生きる道はないのだと。
こうして。
盲目となった不屈の老僧と、心が折れた日本人留学生は、再び唐の港へと舞い戻るべく、途方もない徒歩の旅を再開するのである。
***
それから、さらに数年の歳月が流れた。
天平勝宝四年(七五二年)。
度重なる失敗により、鑑真の密航計画はすでに五回連続で頓挫していた。
長安の港で、「また船が手配できなかった……」と黄昏る普照の前に。
「おい! 日本の留学生というのはお前か!」
煌びやかな装束を身に纏った、二人の日本の高官が現れたのである。
彼らは、日本から新たに派遣されてきた「第十二回遣唐使」。
大使の藤原清河と、副使の大伴古麻呂であった。
「あ、あんたたちは……日本の、遣唐使の正規の船……ッ!」
普照の目に、希望の涙が溢れ出した。
正規の外交使節団の船。これに乗せてもらえれば、ついに、ついに日本に帰れる! 鑑真様をお連れできる!
しかし、この二人の大使と副使が、日本のブラック朝廷が生み出した「事勿れ主義のエリート」と「ゴリゴリの現場叩き上げ狂犬」という、水と油のような最悪のコンビであることを、普照はまだ知らなかった。
予算ゼロの誘拐計画は、いよいよ国家間の外交を巻き込んだ、壮絶なる『密航偽装作戦』へと突入していくのである。




