第24話 丸投げのヘッドハンティング
時代は奈良、天平の世。
平城京の東にそびえ立つ黄金の巨大構造物――盧舎那仏の開眼供養という、国家予算を全ツッパした野外フェスが幕を閉じてから、数日が経過していた。
都はまだ、その余韻と熱狂の渦中にあった。道ゆく人々は「仏様バンザイ!」「帝バンザイ!」と浮かれ騒ぎ、酒を酌み交わしている。
だが、その熱狂の裏側で。
朝廷の最高財務責任者にして、このデスマーチを最前線で指揮させられていた右大臣・橘諸兄は、執務室の畳の上で、干からびたカエルのように突っ伏していた。
「……終わった。ようやく、終わったのだ……明日は休みを取ろう。温泉に行こう。そうだ、有馬の湯が良い。もう二度と、巨大な建造物など見たくない……」
諸兄が、ささやかな逃避行の計画を脳内で練り始めた、まさにその時である。
バタバタバタ
廊下を走る、役人の足音。
それは、平城京において「死神の足音」と同義であった。
「右大臣様ァァァッ!」
「……おらぬ。右大臣は本日、流行り病で急逝したと伝えよ」
「無茶を仰らないでください! 上皇様がお呼びにございます! 大至急、御所へ参られよと!」
上皇様。すなわち、大仏プロジェクトを立ち上げた絶対的ワンマン社長・聖武天皇(※この時は娘に位を譲り、太上天皇となっていた)である。
諸兄は、齧っていた竹筒をポロリと落とし、血の涙を流しながら立ち上がった。
***
「おお、諸兄よ! よくぞ参った!」
御簾の向こうの聖武上皇は、大仏が完成した高揚感からか、かつてないほどにキラキラとした、純度百パーセントの無邪気な笑顔を浮かべていた。
「は、ははァッ……。上皇様におかれましては、本日はどのような……」
「うむ! 大仏は実に素晴らしかった! 我が国の仏教も、これでついに盤石の形となったな!」
「御意にございます……(国庫は消滅しましたが)」
「だがな、諸兄」
上皇は、扇子をパチンと鳴らし、身を乗り出した。
「仏像や寺は完成したが、中身が伴っておらんのだ」
「……はい?」
「今の僧侶たちは、ただ経を読み、税を逃れるために勝手に出家している者が多すぎる。仏の教えを正しく守るための『戒律』を、誰も正式に受けておらぬのだ!」
上皇の指摘は、図星であった。
当時の日本には、僧侶となるための絶対的なルールである「戒律」を授けることができる、正式な資格を持った高僧が存在しなかったのである。言わば、立派な校舎は建てたが、先生が一人もいない状態だ。
「そこで私は考えた! この大和の国を真の仏教国とするためには、本場である唐の国から、最高ランクの『戒律のプロフェッショナル』を招聘するしかないと!」
「……唐から、高僧を?」
「いかにも! 唐仏教界のトップクラスの超大物を、我が国に連れてくるのだ! もちろん、大仏殿の落慶法要に間に合うようにな!」
…………。
諸兄の脳内に、けたたましいエラー音が鳴り響いた。
唐から、トップクラスの高僧を連れてくる。
言葉にするのは簡単だ。だが、ここは飛鳥時代から続く「運ゲー航海」の東シナ海を隔てた島国である。
最新鋭の遣唐使船ですら、まともに辿り着ける確率は五割。沈没、漂流、海賊の襲撃は日常茶飯事だ。そんな致死率五十パーセントのデス・クルーズに、超大国・唐の超大物高僧が、わざわざ乗ってくれるわけがない。
現代で言えば、「報酬ゼロ、渡航手段はゴムボート」という条件で、アメリカからGAFAの社長をド田舎のベンチャー企業にヘッドハンティングしてこい、と言っているに等しい。
「お、恐れながら上皇様! そのような無茶な……! そもそも、我らには唐に渡る船を新たに出す予算すら……!」
「案ずるな諸兄! すでに唐には、我が国から送り込んだ留学僧たちがいるではないか。彼らに書状を送り、現地で適当な高僧を見繕って連れてこさせればよいのだ」
「現地調達!?」
「そういうわけだ! 書状の手配は任せたぞ、プロジェクトマネージャー!」
タタタッ、と。
無邪気なトップは、己のひらめきに満足し、軽やかな足取りで奥へと消えていった。
残された諸兄は、大極殿の床に崩れ落ちた。
「……終わっている。この国のトップは、思いつきで人の命を削ることに関して、天才的な才能を持っている……」
諸兄は、白目を剥きながら、唐にいる留学僧へ宛てた「丸投げの木簡」をしたためるしかなかった。
***
その頃。
海を隔てた超大国・唐の首都、長安。
世界の中心とも言えるこの巨大メガロポリスの片隅にある、薄暗い寺のボロ部屋で、二人の日本人が枯れ葉のような顔をして向かい合っていた。
留学僧の栄叡と、普照である。
彼らは数年前に遣唐使船で唐へ渡り、仏教を学ぶために派遣されたエリート……のはずだった。
しかし現実は、物価の異常に高い長安において、日本からのスズメの涙ほどの仕送りで食いつなぐ、極貧のサバイバル生活を余儀なくされていた。
「……普照よ。昨日の夕飯、何食った?」
「……白湯に、草を浮かべたものだ。栄叡は?」
「……土壁を少し舐めた」
エリート僧侶の成れの果てである。
彼らは、唐の進んだ文化を学ぶどころか、その日を生き延びるだけで精一杯の「駐在社畜」と化していた。
そこへ、日本から帰国する商船に乗って、一通の木簡が届けられたのである。
差出人は、右大臣・橘諸兄。
「おおっ! ついに朝廷から、追加の活動資金が届いたか!?」
栄叡と普照は、震える手で木簡を広げた。
そこに書かれていたのは、血文字のように乱れた、諸兄の怨念のこもった筆跡であった。
『特命。唐の仏教界において、最も権威ある戒律の高僧をスカウトし、日本へ連れてくること。なお、当方からの予算・船の手配は一切なし。己の機転とハッタリのみで、何が何でも高僧をその気にさせ、海を渡らせよ。失敗すれば、帰国の船には乗せぬ。死ぬ気でやれ。以上。』
…………。
栄叡と普照は、静かに木簡を閉じ、そのまま仰向けに倒れ込んだ。
「……普照。俺たち、もう長安で餓死したほうがマシなんじゃないか?」
「ああ。予算ゼロで、唐のトップ僧侶をあのポンコツ船に乗せろだと……? 楊貴妃に『ライチ奢るんで、デートしませんか』ってナンパする方が、まだ話を聞いてくれそうだぞ……」
絶望である。
しかし、祖国からの命令は絶対。帰国という唯一の希望を絶たれるわけにはいかない。
二人はフラフラと立ち上がり、無謀すぎる「ゼロ円ヘッドハンティング」の旅へと出発した。
***
長安の著名な寺院を巡る日々が始まった。
栄叡と普照は、なけなしの衣服を洗い、可能な限り「進んだ文明国・日本からの使者」という見栄を張って、高僧たちに直談判を試みた。
「――というわけで! 我が日本は、仏の教えを渇望しております! ぜひ、大師様の素晴らしい戒律を、東の果ての島国へ!」
とある名刹の住職に対し、二人は土下座の勢いでプレゼンを行った。
しかし、恰幅の良い唐の高僧は、鼻でふんと笑った。
「倭国とな。……聞いたところによれば、お前たちの国は未だに土の道を歩き、獣の肉を食らい、地震と嵐ばかりの未開の地だそうではないか」
「そ、そんなことはッ! 今は平城京という立派な都が……」
「それにだ」
高僧は、ピシャリと扇子を閉じた。
「海を渡るというのは、死を意味する。この大唐帝国で、千人の弟子を抱え、皇帝陛下からも厚遇されている私が、なぜそのような命知らずの真似をしてまで、辺境へ行かねばならんのだ?」
「うぐっ……」
「百歩譲って、そちらが楼船を用意し、黄金を山のように積んで迎えに来るなら考えてやらんでもないが。……お前たち、その身なりからして、船代すら持っておらんのだろう?」
「……おっしゃる通りでございます」
完全なる論破。ぐうの音も出ない正論であった。
その後も、連戦連敗。
「船酔いするから嫌だ」「スケジュールが五十年先まで埋まっている」「占いで東は凶と出た」など、手酷い塩対応の連続であった。
一ヶ月が過ぎた頃、栄叡と普照は、長安の路地裏でボロ雑巾のように打ち捨てられていた。
「……無理だ。誰も行ってくれない。唐の坊主ども、みんなリスク管理が堅すぎる……」
「あいつら、仏の慈悲よりも自分の命とステータスが大事なんだ……。クソッ、エリートどもめ……」
もはや、打つ手はなかった。
だが、普照がふと、濁った目をギラリと光らせた。
「……栄叡。どうせ無理なら、最後に一番デカいところにアタックして、華々しく散ろうじゃないか」
「一番デカいところ?」
「ああ。今の唐仏教界で、戒律のトップオブトップ。皇帝陛下すら頭が上がらないという、生ける伝説……大明寺の『鑑真』大和上だ」
「ば、バカな! あんな雲の上の存在、面会すらさせてくれないぞ!」
「いいや、突撃するんだ! そして『最高の条件で口説きましたが、フラれました!』と橘諸兄様に報告して、我々の責任を回避するんだよ!」
「なるほど、完璧な言い訳作りか!」
もはや彼らの目的は「高僧を連れて帰ること」から、「本国への言い訳を作ること」にシフトしていた。
二人は最後の力を振り絞り、揚州にある大明寺へと向かった。
***
大明寺の広大な講堂。
そこには、数百人もの高弟たちがズラリと居並び、圧倒的な威厳と静寂が支配していた。
その最奥、一段高い座に静かに結跏趺坐している老僧こそが、唐の戒律の最高権威――鑑真であった。
深い皺に刻まれた顔は、まるで数百年生きている大樹のようであり、閉じられた瞼の奥からは、悟りを開いた者特有の凄まじいオーラが放たれている。
(ヤバい……オーラが違いすぎる……)
栄叡と普照は、ガクガクと震えながら、講堂の中心で平伏した。
そして、用意してきたプレゼンを、血の涙を流しながら披露したのである。
「……どうか! どうか、真の戒律を我が国へ! 日本の僧侶たちは、戒律を知らぬがゆえに迷い、苦しんでおります! 偉大なる鑑真大和上の御力で、東の果ての民をお救いくださいませェェェッ!」
床に額を擦りつけ、号泣する二人。
講堂の中は、シンと静まり返っていた。
鑑真の弟子たちは、「未開島の猿が泣き言を言いに来たぞ」「関わるだけ無駄だ」と、冷ややかな視線を送っている。
長い沈黙の後。
鑑真が、ゆっくりと目を開いた。
「……ふむ。東の海に、仏の法を求める者たちがいるというのか」
鑑真の声は、低く、しかし講堂の隅々にまで響き渡るような、不思議な力を持っていた。
鑑真は、ずらりと並ぶ高弟たちを見渡した。
「お前たち。誰か、この者たちの求めに応じ、海を渡って仏の法を伝えてやる者はおらぬか?」
…………。
講堂の空気が、ピタリと止まった。
数百人の弟子たちは、一斉に顔を伏せ、微動だにしなくなった。
「(おい、冗談だろ……誰が行くかよ、致死率五十パーセントの船で)」
「(俺、明日から長安で連続法話の仕事入ってるし……)」
「(そもそも日本ってどこだよ。地図の端っこすぎて見切れてるだろ)」
弟子たちの心の声が、無言の空間にビンビンと響き渡っていた。
誰も名乗り出ない。当然である。エリート街道をひた走る彼らにとって、日本渡航など、ただの無駄死に同然の罰ゲームなのだから。
その光景を見て、栄叡と普照は心の中でガッツポーズをした。
(よし! 誰も行かない! これで『最高権威にも断られました』という完璧な報告書が書ける! 俺たちの任務は完了だ!)
誰も口を開かない講堂で、一番の高弟である祥彦が進み出て、申し訳なさそうに言った。
「……大和上。かの国はあまりに遠く、海は荒れ狂い、命を落とす危険が大きすぎます。我らも、仏の教えを広めたい気持ちは山々ですが……命を粗末にはできません」
「そうか。お前たちは、誰も行かぬというのだな」
鑑真は、静かに頷いた。
そして。
ゆっくりと立ち上がり、驚天動地の一言を放ったのである。
「誰も行かぬなら、ワシが行こう」
…………。
……え?
「だ、大和上?」
祥彦が、目を点にして聞き返した。
「仏の法のためならば、身の危険など惜しむべきではない。お前たちが行かぬというのなら、ワシ自らが海を渡り、東の国に戒律を伝えようではないか」
鑑真は、一切の迷いのない、澄み切った声でそう宣言したのである。
「はァァァァァァァァッ!?」
栄叡と普照の顎が、床にぶつかるほどの勢いで落下した。
(い、行く!? このトップオブトップの、最高権威のお爺ちゃんが!?)
「ちょ、ちょっと待ってください大和上!」
祥彦をはじめとする弟子たちが、顔面を蒼白にして鑑真にすがりついた。
「御冗談を! 大和上は唐の仏教界の至宝! もし万が一、海で何かあれば、国家の損失にございます! 皇帝陛下もお許しになりません!」
「仏の道に国境はない。ワシは行くぞ。決めた。よし、今から荷造りじゃ」
「ああっ! 大和上が風呂敷を広げ始めたぞ! 誰か止めろォォ!」
大明寺の講堂は、蜂の巣をつついたような大パニックに陥った。
一方、栄叡と普照は、震える手を取り合って歓喜の涙を流していた。
「普照……! 奇跡だ! 言い訳作りのつもりが、まさかの超特大SSRを引いちまったぞォォォ!」
「ああ! 鑑真様を日本に連れて帰れば、俺たちは歴史に名を残す英雄だ! 橘諸兄様も、狂喜乱舞してボーナスをはずんでくれるに違いない!」
二人は、黄金の未来を幻視して、抱き合って踊り狂った。
しかし。
彼らは、唐の『弟子たち』の恐ろしさを舐めていた。
「……おい。小汚い日本の坊主ども」
祥彦が、般若のような形相で、栄叡と普照を睨みつけていた。
「よくも我らの大和上を唆してくれたな。……生きて帰れると思うなよ」
その日の夕方。
栄叡と普照が「さて、どうやって船を手配しようか」とウキウキで宿舎に戻った瞬間。
バンッ!!
宿舎の扉が蹴破られ、武装した唐の役人たちが雪崩を打って突入してきたのである。
「な、なんだお前たちは!?」
「倭国の密偵どもめ! 我が国の国宝たる鑑真和上を誘拐しようと企てた罪で、即刻逮捕する!!」
「ええええええええっ!?」
ガシャン、ガシャン! と、無情にも二人の両手に重い枷がはめられた。
「な、なぜだ!? 俺たちまだ、具体的な計画なんて立ててないのに!」
「大明寺の弟子たちから、お前たちが『和上を洗脳して誘拐しようとしている』と通報があったのだ! 貴様らのような泥棒は、牢屋で一生を終えるがいい!」
「弟子のチクりかよォォォッ!!」
こうして。
栄叡と普照の「予算ゼロのヘッドハンティング」は、奇跡の大成功を収めたわずか数時間後に、国家権力による物理的拘束という最悪の形で幕を下ろしたのである。
「日本よ……朝廷よォ……! お前らの無茶振りのせいで、俺たちは唐の牢獄で死ぬ羽目になったぞォォォ!」
薄暗い牢屋の中に、二人の絶叫が響き渡る。
だが、彼らはまだ知らなかった。
この『出国失敗』が、これから十数年にわたって繰り返される「地獄の密航失敗ループ」の、ほんのプロローグに過ぎないということを。
そして、当の鑑真本人が、物理も常識も通用しない『無敵のポジティブお爺ちゃん』として、彼らの精神をさらに削り取ることになるということを。




