第23話 開眼狂乱
天平勝宝四年(七五二年)、四月九日。
平城京の東、若草山の麓に広がる東大寺は、かつてない熱狂と喧騒の渦に包み込まれていた。
日本の歴史上、いや、当時の東アジア世界において最大規模となる超巨大イベント、「盧舎那仏開眼供養会」の当日である。
秋の空のように澄み切った青空の下、天を突く巨大な大仏殿の前に、信じられない人数の群衆がひしめき合っていた。
その数、なんと一万人以上の僧侶。そして、日本全国から動員された雅楽の音楽隊、舞踏団、さらには唐や新羅、遠くは天竺(インド)や林邑(ベトナム)から海を越えてやってきた国際的なゲストたち。
史上最大の野外仏教フェスである。
「ブォォォォォォーッ!!」
「ジャァァァァァーン!!」
法螺貝が鳴り響き、銅鑼が打ち鳴らされ、一万人の音楽隊が奏でる圧倒的な音圧が、大地をビリビリと震わせている。
その大音響の中心、蓮弁の上に鎮座する大仏は……。
太陽の光を反射し、目が潰れるほどに眩い「黄金の輝き」を放っていた。
「……終わった。本当に、本当に完成したのだな……」
熱狂する群衆の最後列。
華やかな装束に身を包む貴族たちから遠く離れた、目立たない柱の陰で。
この巨大プロジェクトの責任者である右大臣・橘諸兄と、現場総監督の国中公麻呂は、互いに肩を寄せ合い、魂の抜けたような顔で黄金の大仏を見上げていた。
「ああ。終わったぜ、右大臣様……。長かった……本当に、地獄のように長かった……」
公麻呂の声は、枯れ果てて掠れていた。
彼らの顔は、もはや生きた人間のそれではない。頬はこけ、目の下には真っ黒な隈が定着し、髪には白いものが目立っている。
無理もない。
陸奥から奇跡的に届いた黄金を使って行われた『塗金』の作業は、鋳造をも凌ぐ、真の地獄であった。
黄金を水銀に溶かして大仏の表面に塗りたくり、下から巨大な炎で炙って水銀だけを蒸発させるという、古代のメッキ工法。
当然ながら、蒸発した水銀は猛毒のガスとなって現場に充満する。
数万人の労働者たちが、濡れ布巾を口に巻き、咳き込み、歯茎から血を流し、バタバタと倒れながらも、狂信的な執念で大仏を黄金に染め上げていったのだ。
『仏様の光は、毒だァァァッ! 吸ったら死ぬぞォォ! 息を止めろォォ!』
『無理言うな公麻呂殿! 息を止めたら塗れないだろうがァァ!』
そんな、労基署が聞いたら秒で現場を封鎖するような現場を乗り越え、彼らはついに、この黄金の巨体を完成させたのである。
(※注:行基は、この過酷なプロジェクトの途中で力尽き、完成を見ることなくこの世を去っていた。彼の魂もまた、この大仏に込められている)
「見ろよ、公麻呂殿」
諸兄は、震える指で、大仏の前に特設されたステージを指差した。
「あの天竺から来たという高僧……菩提僊那様が、今まさに、大仏に『目』を描き入れようとしておられる」
ステージの上では、異国情緒あふれる豪華な袈裟をまとったインド僧・菩提僊那が、巨大な筆を掲げていた。
開眼供養。大仏の目に墨を入れ、魂を宿す神聖な儀式である。
彼が握る巨大な筆の端には、太く長い「五色の糸」が結びつけられていた。その糸はステージから伸び、大極殿の前に集まった数万人の参列者たちの手から手へと握られ、最後は特等席に座る聖武天皇(※この時は譲位して太上天皇)の御手にまで繋がっている。
「す、すげえ……」
公麻呂が口をポカンと開けた。
「筆の糸をみんなで握って、『全員で大仏に目を描き入れたことにする』ってわけか。一体誰が考えたんだ、あんなトンデモねえ演出は」
「帝のアイデアだ。……本当に、あのお方の『民衆を巻き込むイベント企画力』だけは、恐ろしいほどの天才だよ」
諸兄が呆れたように言った、その瞬間。
菩提僊那の筆が、大仏の巨大な眼球に、黒々と瞳を描き入れた。
ワァァァァァァァァァッ!!!
天地を揺るがすような大歓声が、若草山に爆発した。
一万人の音楽が一斉に最高潮のメロディを奏で、舞踏団が狂ったように舞い踊り、空には五色の紙吹雪が舞い散る。
日本の歴史上、もっともパリピで、もっともスピリチュアルな瞬間。
大仏に、魂が宿ったのだ。
「おお……おおおおおっ……!!」
特等席に座る聖武天皇は、玉座の上でボロボロと大粒の涙を流していた。
度重なる反乱、疫病、無限の引っ越しによる大バッシング。
数々の苦難と批判を乗り越え、彼が夢見た「仏の慈悲で国を一つにする」という途方もないビジョンが、今、圧倒的な黄金の塊として目の前に現出したのである。
「見たか……! 皆の者、見たか! これが、我が祈りの結晶! 仏の力である! 大和の国は、今日この日より、永遠の安寧を約束されたのだァァァッ!」
天皇は、五色の糸を握りしめながら、子供のように泣きじゃくり、そして高らかに笑った。
絶対的ワンマン社長の自己実現の瞬間であった。
その感動的な光景を遠くから見つめながら。
諸兄と公麻呂は、ただ静かに、互いの肩を支え合って立ち尽くしていた。
「……終わった。何もかもが、終わったな、諸兄様」
「ああ。国庫は完全にスッカラカンになったし、山の木は切り尽くされてハゲ山になったし、全国の農民は過労でボロボロだが……まあ、終わった」
諸兄は、懐から年季の入った「空の竹筒」を取り出した。
中身はとうの昔に尽きているが、諸兄はそれをフタを開け、空っぽの筒を口元に当てて、グイッと飲み干す真似をした。
「ぷはぁっ……! 効くぜ。この『何もない虚無の味』が、限界を迎えた胃粘膜に一番優しく染み渡る……」
「右大臣様、あんた完全に頭イカれちまってますよ。……でも、俺も一口いいですか?」
公麻呂も、空の竹筒を受け取り、ゴクゴクと虚無を飲み干す真似をした。
バカバカしい茶番だが、そうでもしなければ、彼らの精神はとっくに崩壊していた。
「……さあ、公麻呂殿。我らの役目はこれで終わりだ」
諸兄は、憑き物が落ちたような、清々しい笑顔を浮かべた。
「明日、私は帝に辞表を提出する。右大臣の職を辞し、田舎に引っ込んで、残りの余生は静かに畑でも耕して過ごすつもりだ」
「奇遇ですね。俺も、これ以上デカいものを造るのは御免です。故郷に帰って、手のひらサイズの可愛い木彫りのウサギでも彫って、静かに暮らしますよ」
巨大な国家プロジェクトを完遂し、燃え尽きた二人の男。
彼らの目に映る未来は、静寂と平穏に満ちていた。
もう、理不尽な思いつきに振り回されることもない。溶けた銅に怯えることも、猛毒のガスを吸うこともないのだ。
「お疲れ様でした、公麻呂殿」
「あんたもな、諸兄様」
二人が、がっちりと熱い握手を交わした、まさにその時である。
「皆の者ォォォッ!! 静まれェェェッ!!」
喧騒を掻き消すような、聖武天皇の異様に通る大音声が、ステージの上から響き渡った。
ビクゥッ!
諸兄と公麻呂の肩が、同時に跳ね上がった。
(な、なんだ……? 開眼の儀式は滞りなく終わったはず。帝よ、どうかそのまま、大人しく感動の涙に暮れていてくれ……!)
諸兄の必死の祈りを打ち砕くように。
涙を拭い、顔をピカピカに輝かせた聖武天皇は、玉座から立ち上がり、一万人の群衆に向かって両手を大きく広げた。
「私は今、猛烈に感動している! 民の力が一つになれば、このような途方もない奇跡が起きるのだと、この黄金の大仏が証明してくれた!」
「「「おおおおおっ!!」」」
「だが!」
帝は、天を指差した。
「だが、よく考えてみてほしい! この大和の国は広い! 大仏様が平城京におわすだけでは、遠く離れた陸奥や九州の民にまで、仏の慈悲の光が届きにくいではないか!」
…………。
諸兄の心臓が、ドクン、と嫌な音を立てた。
(ま、まさか。……おい、嘘だろ。まさか、お前……)
「ゆえに! 私は決断した!」
聖武天皇の目は、あの「無限お引越し」や「予算ゼロの大仏造立」を宣言した時と全く同じ、狂気じみたスピリチュアルな輝きに満ち溢れていた。
「この平城京の大仏を総本山とし! これより、日本全国六十余州、すべての国に『国分寺』を建立する! そして、その各国の寺には、七重の塔を建て、立派な仏像を安置するのだ!!」
ズガーーーンッ!!!
諸兄の脳内に、清涼殿に雷が落ちたかのような衝撃が走った。
「ぜ、全国に……!?」
公麻呂が、ひゅっ、と息を呑んで硬直する。
次から次へと飛び出す、超ド級のビッグ・プロジェクト。
全国六十ヶ所への寺院と七重塔の同時建設。
さらに、決死の遣唐使プロジェクトの再稼働。
大仏一つで国家予算を使い果たし、国をすっからかんにしたばかりの男が、完成披露パーティーのノリと勢いで、さらにその数十倍の予算と人手が必要な無茶振りを、全国民に向けて嬉々として発表したのである。
「さあ! 立ち止まっている暇はないぞ! 大仏造立の責任者たる橘諸兄よ! そして国中公麻呂よ!」
帝は、一万人の群衆の中から、最後列で縮こまっている二人を、なぜか鷹のような視力で正確に見つけ出し、ビシッと指差した。
「そなたたちの見事な手腕、これからも大いに期待しておるぞ! 明日から、全国の国分寺の設計図と、遣唐使の予算案を提出せよ! 忙しくなるぞォォォッ!!」
ワァァァァァァァァァッ!!!
事情を知らないパリピな群衆たちが、「帝バンザイ!」「仏様バンザイ!」と無責任な大歓声を上げる。
その、地鳴りのような歓声の底で。
「……………………」
橘諸兄は、持っていた空の竹筒を、ポトリと地面に落とした。
そして。
「ムリだァァァァァァァァァァァァァァァァッッッ!!!」
鼓膜を破るような諸兄の絶叫が、雅楽の音を掻き消して響き渡った。
「金がないと言っているだろうがあのクソバカ上司ィィッ! 全国六十ヶ所に七重塔ォ!? 遣唐使の船ォ!? 木も銅も人も金も、もうこの国には何も残ってねええええええええッ!!」
諸兄は、髪を掻きむしり、大仏殿の柱に自分の頭をガンガンと打ち付け始めた。
「ひぃぃっ! やめてください諸兄様! 頭が割れます! ああっ、誰か、誰か胃薬を! 本物の胃薬を持ってきてくれェェ!」
公麻呂が、泣き叫びながら諸兄を羽交い締めにしようとするが、狂乱した諸兄の力は凄まじく、二人は泥まみれになって取っ組み合いを始めた。
「俺は辞める! 今すぐ辞める! 畑を耕すんだァァ!」
「無理ですよ! 帝に名指しされたら逃げられません! 俺たち、死ぬまでこのブラック朝廷で仏像を造り続けるしかないんですよォォォ!」
完成の歓喜に沸き立つ黄金の大仏と、その足元で、絶望のあまり泥の中で取っ組み合いの喧嘩をする二人の社畜。
日本の歴史は、いつだってこうして作られてきた。
高貴なるトップたちの、美しくも無責任な「思いつき」の裏には。
常に、胃に穴を開け、泥水をすすり、不可能を可能にするために血反吐を吐き続けた、名もなき(あるいは名のある)実務担当者たちの絶望が存在するのだ。
東大寺の空に、五色の紙吹雪が美しく舞い散る。
黄金の盧舎那仏は、そんな地上の騒ぎなどどこ吹く風と、ただ静かに、半眼の慈悲深い笑みを浮かべて平城京を見下ろしていた。
「奈良も……つらいよォォォ……ッ」
諸兄の虚ろな呟きは、一万人の読経の声に掻き消され、秋の空へと吸い込まれていくのであった。
(大仏づくりはつらいよ編・完)
次回、「誘拐はつらいよ」──。




