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中間管理職はつらいよ〜飛鳥から昭和まで、日本史全部やります〜  作者: てっぺい
遣隋使はつらいよ

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第3話 起死回生の土下座外交

「……なんだ、これは。夢でも見ているのか」


 小野妹子は、口をポカンと開けたまま、目の前に広がる光景に圧倒されていた。


 地獄の航海を乗り越え、大陸に上陸した遣隋使一行。彼らが案内されたのは、隋の首都・大興城《だいこうじょう》(のちの長安)であった。


 それは、妹子たちの想像を絶する超巨大都市だった。


 碁盤の目のように整然と区画された市街地。見渡す限り続く瓦屋根の波。行き交う人々は絹の服を身に纏い、西域から来たであろう彫りの深い顔立ちの商人たちが、見たこともない香辛料や宝石を売り歩いている。


 道幅は飛鳥のメインストリートの十倍はありそうだし、そびえ立つ宮殿の城壁は、見上げすぎて首が痛くなるほどの高さだった。


「大使……我が国とは、まさに天と地ほどの差が……」


「しっ、玄理《くろまろ》。声が大きいぞ」


 エリート留学生たちも、田舎者丸出しでオドオドと周囲を見回している。


 無理もない。つい数ヶ月前まで、彼らは自分たちを「進んだ文明国の人間」だと思い込んでいたのだ。


 しかし、ここ大興城の威容を前にしては、自分たちがどんぐりの背比べをしていた辺境の猿にすぎないことを痛感させられる。


「いいか、お前ら。絶対にキョロキョロするな。堂々と歩け。舐められたら終わりだぞ」


 妹子は小声で檄を飛ばすが、彼自身の足も小刻みに震えていた。


 無理である。こんな超大国を相手に、あの「対等宣言」の国書を叩きつけるなど、正気の沙汰ではない。


 一行は、外国からの使者を接待する役所である鴻臚寺《こうろじ》の役人に連れられ、いよいよ皇帝の待つ宮殿の奥深くへと足を踏み入れていった。


 ***


 絢爛《けんらん》たる装飾が施された、広大な謁見の間。


 大理石の床は鏡のように磨き上げられ、柱には金箔で巨大な龍が彫り込まれている。


 ずらりと並ぶ百官たちは、微動だにせず、不気味な威圧感を放っていた。


 そして、その最奥。

 一段高くなった玉座の上に、その男はいた。


 隋の第2代皇帝・煬帝《ようだい》。


 歴史に悪名高い暴君である。

 父を殺して帝位を簒奪《さんだつ》したとも噂され、大運河の建設で何百万という民衆を酷使し、周辺諸国を圧倒的な武力で蹂躙してきた絶対的権力者。


 その眼光は鋭く、全身から発せられる覇気は、玉座から数十メートル離れた妹子たちの肌をビリビリと焼くようだった。


「……倭国の使者、小野妹子にございます。偉大なる隋の皇帝陛下に、拝謁《はいえつ》の栄誉を賜り、恐悦至極に存じます」


 妹子は、床に額を擦りつけるほどの完璧な平伏を見せた。


 背後に控える若者たちも、恐怖でガタガタと震えながらそれに倣う。


「ふむ……東の果ての島国から、よくぞ参った」


 煬帝の声が、広大な間に響き渡る。

 低く、重く、底知れぬ凄みを含んだ声だった。


「我が大隋の威光をしたって、わざわざ海を渡ってきたその忠誠心、褒めてやろう。して、国書を持参したと聞くが」


「は、ははっ! こちらに……」


 妹子は、懐から例の木簡を取り出した。

 手が震えて、うまく差し出せない。


(頼む……どうか、読まずにスルーしてくれ……! 『字が読めない』とか奇跡の展開起きてくれ……!)


 そんな妹子の切実な祈りも虚しく、鴻臚寺《こうろじ》の役人が国書を受け取り、煬帝の御前で恭《うやうや》しく広げた。


 役人が、朗々と読み上げ始める。


「『日出処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無《つつがな》きや』」


 …………。


 ……………………。


 謁見の間に、死のような沈黙が落ちた。


 広大な空間にいる数百人の人間が、一斉に呼吸を止めたのがわかった。


 役人たちは顔面を蒼白にし、護衛の兵士たちは思わず腰の剣に手をかけた。


 玉座の上の煬帝の表情から、一切の感情が消え失せた。


「……聞き間違えか? 今、なんと読んだ」


「ひっ……! 『日出処の……天子、書を……日没する処の、天子に……致す』と……」


「天子だと?」


 ピキリ、と。

 空気に亀裂が入る音がした。


「辺境の蛮夷《ばんい》が、朕《ちん》と同じ『天子』を僭称《せんしょう》したと申すか? しかも、朕を『日没する処』と侮辱したのか?」


 ゴゴゴゴゴ……と、煬帝の全身から殺気が立ち昇る。


 その怒りは、単なる不快感ではない。中華の秩序を根底から覆すような無礼に対する、絶対君主の赫怒《かくど》であった。


「蛮夷の書、無礼有らば、復《ま》た以《もっ》て聞する勿《なか》れ」


 煬帝が冷酷な声で言い放った。


(無礼な手紙だ。二度と私の耳に入れるな)という、外交関係の即時断絶、そして使者の処刑を意味する言葉である。


「斬れ。こやつらの首を落とし、塩漬けにして倭国へ送り返せ」


 護衛の兵士たちが、一斉に剣を抜いた。

 チャキン、チャキンという金属音が響き、妹子たちを取り囲む。


「ひぃぃぃっ!!」

 背後で、留学生たちが絶望の悲鳴を上げた。


 終わった。


 出港前から予想していた最悪のバッドエンドが、寸分の狂いもなく現実のものとなったのだ。


 あのクソ無責任な聖徳太子め、呪ってやる……!


 兵士の冷たい刃が、妹子の首筋に当てられた。


 その瞬間。


 中間管理職として数々の修羅場をくぐり抜けてきた妹子の脳内で、生存本能のリミッターが外れた。


「お待ちくださああああああいッ!!!」


 謁見の間に、妹子の絶叫が轟いた。

 あまりの剣幕に、斬りかかろうとした兵士が一瞬動きを止める。


 妹子は刃を恐れず、床に頭を叩きつけた。

 ドゴォォォン! という鈍い音が響くほどの、究極の土下座である。額から血が滲む。


「誤解でございます! 陛下、大いなる誤解でございます!!」


「……誤解だと? 文面に明確に刻まれているではないか」


「違います! これは決して、中華の威信を汚すような意図ではございません!」


 妹子は、顔を真っ赤にして、まくし立てた。

 ここからは、彼が船の中で何日も考え抜いた、起死回生の詭弁《きべん》タイムである。


「我が倭国は、文字を持たぬ後進国でございました。しかし、偉大なる隋の文化に触れ、見よう見まねで漢字を学びました! その結果、言葉の意味を正確に理解せぬまま、ただ『最も美しく、最も尊い言葉』を並べてしまったのです!」


「ほう?」


「『天子』という言葉! 我が国の愚かなる王は、これが『天から遣わされた素晴らしい人』という程度の、単なる褒め言葉だと勘違いしておるのでございます! 『私も天から遣わされたけど、あなたも天から遣わされてて凄いね!』という、無知ゆえの稚拙《ちせつ》な親愛の情なのです!」


 百官たちがザワザワとどよめいた。


「文字を覚えたての猿が、意味もわからず高級な言葉を使っただけ」というトンデモ理論である。


「ならば『日没する処』はどう言い訳するつもりだ。朕の帝国が沈むとでも言うのか」


「滅相もございません!!」

 妹子は、さらに身を乗り出した。


「むしろ逆です! 我が国は、東の果ての小さな島国。つまり、少しの間しか太陽の光を浴びることができません! しかし、偉大なる隋帝国は、西の果てまで広大な領土を持っております! つまり『太陽が昇ってから沈むまで、一日中ずっと太陽の光が降り注ぎ続ける、永遠に輝く巨大な帝国』という意味で、『日没する処まで支配している凄い国』と表現したのです!!」


 完全なこじつけであった。

 文法学者が聞いたら泡を吹いて倒れるレベルの強引な解釈である。


 しかし、妹子の目は血走り、額からは血と冷や汗が滝のように流れ、その必死すぎる姿には謎の説得力があった。


「我が国の王は、陛下の広大な帝国を賛美するあまり、このような誤解を招く文章を作ってしまいました! 無知な蛮族の不器用な恋文を、どうか、海よりも深い陛下の御心で、お許しいただきたく……ッ!」


 妹子は再び、床に顔を擦りつけた。

 もうこれ以上は言葉が出ない。やり切った。これで斬られるなら、あの世で聖徳太子を末代まで祟ってやる。


 広大な謁見の間に、重苦しい沈黙が降りた。


 数秒が、数時間にも感じられた。


 やがて。


「……くっ」


 玉座の方から、くぐもった声が聞こえた。


「くくく……はははははっ!」


 煬帝が、笑っていた。

 初めは小さく、やがて肩を震わせての、大爆笑だった。


「はははは! よい、剣を収めよ!」


 護衛の兵士たちが、戸惑いながらも剣を鞘に納める。


「いや、驚いた。東の果ての蛮族が、ここまで口が回るとはな」


 煬帝は、面白くてたまらないというように妹子を見下ろした。


 彼の傲慢な自尊心は、妹子の「無知な猿が、一生懸命に大帝国を褒めようとして失敗しただけ」という必死のヨイショによって、見事に満たされたのである。


「日没する処までを支配する、永遠に輝く帝国か。ふむ、悪くない表現だ。辺境の猿にしては、よく我が大隋の威光を理解しておるではないか」


「は、ははぁっ! もったいないお言葉!」


「よい。その者の命は助けてやろう。しかし、そのまま帰しては我が国の礼儀に関わるな」


 煬帝は、顎を撫でながらニヤリと笑った。


「おい、裴世清《はいせいせい》。お前、倭国へ行け。あの猿どもが、どれほどの国に住んでいるのか、お前の目で直接見てこい」


 百官の中から、一人のエリート文官が進み出た。いかにも神経質そうな、細身の男である。


「はっ……。微臣、裴世清《はいせいせい》。陛下の御命令とあらば、地の果てでも赴きます」


「うむ。使者よ。この裴世清《はいせいせい》を連れて帰れ。そしてお前の国の王に、本物の『大国の礼儀』というものを教えてやるがよい」


「は、ははぁーーーッ!!」

 妹子は、三度目の土下座をした。


 助かった。

 首が繋がった。


 あのクソみたいな国書を渡して、無傷で生き延びるという奇跡のミッションを完遂したのだ。


 背後では、若者たちがへたり込み、ボロボロと安堵の涙を流していた。


 しかし。

 全身の力が抜け、床に突っ伏した妹子の耳に、煬帝に指名された裴世清《はいせいせい》の舌打ちが聞こえた。


「(チッ……なんでエリートの私が、そんなド田舎の未開の島国なんぞに行かなければならないのだ……絶対に文句言ってやる……)」


 その小声を聞いた瞬間。

 妹子の胃の痛みが、再び猛烈な勢いでぶり返した。


(あ、これ……帰りの船で、この神経質そうなエリート官僚をひたすら接待&ヨイショしなきゃいけない地獄のツアーが確定したってことじゃん……)


 暴君の怒りは免れたが、中間管理職の苦難は終わらない。


 小野妹子の胃炎のタネは、大陸に来てさらに大きく育ってしまったのである。

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