第2話 荒波と胃酸のランデブー
難波津の港に吹き抜ける潮風は、どこか生温かかった。
小野妹子は、目の前に係留されている「それ」を、虚無の瞳で見上げていた。
遣隋使派遣のための公式外洋船。
国家の威信をかけて建造された、最新鋭の外交船である。
「……なぁ。これ、本当に浮くのか?」
妹子の呟きに、傍らにいた船長が胸を張って答えた。
「浮きますとも! 見事な装備でしょう。大きなクスノキをくり抜き、その上に頑丈な板を継ぎ足した、我が国が誇る最新の構造船にございます!」
船長は誇らしげだが、妹子の胃腑はキリキリと痛み始めていた。
要するに、ただの「デカい丸木に板を貼り付けただけの代物」である。
風を受けて進むための帆はムシロを編んだ粗末なもので、船体の底には波の揺れを抑えるための竜骨すらない。
(こんな底が平らな箱みたいな船で、東シナ海の荒波を越えろと……?)
隋の国が誇る、楼閣のように巨大で何層にも連なる巨大帆船の噂は、妹子も耳にしている。あちらがタイタニック号だとするなら、こちらはどう贔屓目に見ても「ちょっと大きな棺桶」であった。
「ああっ! 小野大使! いよいよ出港ですね!」
背後から、無駄にキラキラした声が響いた。
振り返ると、これから、隋に渡る留学生や学問僧たちが、真新しい絹の服を着て集まってきた。
先頭にいるのは、エリート候補生の若者、高向玄理と南淵請安である。
「いやあ、楽しみですねえ! 大国の進んだ仏教、律令制度、最新のファッション! 我々の手で、この国の未来を切り開くのです!」
「見てください、この美しい海! 我々の輝かしい前途を祝しているようです!」
希望に胸を膨らませ、大量の荷物(竹簡や綺麗な着替え)を抱える若者たち。
彼らは「優雅な海外留学ツアー」のテンションであった。
妹子は、彼らのピカピカの笑顔を見つめながら、心の中で静かに合掌した。
(お前ら……三日後には、その綺麗な服がドロドロになって泣き叫ぶことになるぞ……)
言っても無駄だと悟った妹子は、深くため息をつき、乗船の号令をかけた。
***
港では、盛大な見送りが行われていた。
見晴らしの良い高台には、推古天皇と厩戸皇子の姿がある。
「妹子ー! お土産よろしくねー! あ、あとあの国書、絶対に煬帝に直接手渡してねー!」
厩戸皇子が扇を振りながら、無責任極まりないエールを送ってくる。
「(あの野郎……帰ってこれたら絶対殺してやる……っ!)」
妹子は引きつった笑顔で手を振り返し、いよいよ船は難波津を出港した。
瀬戸内海を抜け、九州を経て、いざ東シナ海へ。
地獄のサバイバル航海の幕開けである。
***
出港から、わずか三日後。
船内は、早くも地獄絵図と化していた。
「オロロロロロロォォォ……ッ!!」
「ひぃぃっ! 玄理殿がまた吐いたぞ! 誰か桶を!」
「もう桶はいっぱいです! うっ……それを見ていたら私も……オェェェッ!」
波の揺れを直接受ける平底の船体は、容赦なく上下左右に揺れ続けた。
現代のフェリーのようなスタビライザーなど当然ない。波が来るたびに船は大きく持ち上げられ、次の瞬間には内臓がフワッと浮き上がるような落下を繰り返す。
慣れない外洋のうねりに、エリート留学生たちは全滅した。
美しかった絹の服は見る影もなく汚れ、彼らは船の甲板や薄暗い船艙で、ただひたすらに胃液を撒き散らす装置と化していた。
「おい! 甲板で吐くな! 足元が滑って海に落ちるぞ!」
妹子は、自らも強烈な船酔いと胃痛に耐えながら、フラフラの足取りで若者たちの介抱に奔走していた。
当時の船に、トイレなどという高度な設備はない。用を足す時は、船の縁から海に向かって直接おこなうか、桶にするしかないのだ。
しかし、揺れる船内で桶に正確に命中させるなど至難の業であり、船内には饐えた吐瀉物の臭いと、汗と、屎尿の強烈なアンモニア臭が充満していた。
「大使……もうダメです……日本に、日本に帰りたいです……」
エリートのプライドはへし折られ、涙と鼻水と吐瀉物にまみれた玄理が、妹子の足にすがりついて泣き言を漏らす。
「甘ったれるな! まだ陸地が見えなくなって三日しか経ってないぞ! お前らが望んだ最新のファッションは海の向こうにあるんだろうが!」
「あんなの……あんなの建前ですぅ! 本当は飛鳥でぬくぬく出世したかっただけなんですぅぅ!」
「本音を漏らすな! いいから水を飲んで寝てろ!」
妹子は玄理を毛布に放り込むと、持参した大量の胃薬(漢方)をガリガリと噛み砕いた。
出港前は「大使」として優雅に指揮を執るつもりだったが、蓋を開けてみれば、ゲロの処理からメンタルケアまで一人でこなすブラック労働である。
(なぜだ……なぜ私がこんな目に……)
だが、真の地獄はこれからだった。
***
出港から七日目。
空が、不気味な鉛色に染まった。
風が急激に強まり、帆柱が不吉な軋み音を上げ始める。
「大使! 嵐です! デカいのが来ます!!」
船長の悲痛な叫びとともに、船は巨大な波濤に飲み込まれた。
ドォォォォンッ!!
という轟音とともに、船体が大きく傾く。
角度にして四十五度。人間が立っていられる限界を超えている。
「ひぃぃぃっ! 南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏!」
「仏様はお留守だ! 何かに掴まれ! 海に放り出されるぞ!!」
妹子は柱にしがみつきながら叫んだ。
外海の大嵐である。木を繋ぎ合わせただけのポンコツ船は、波に打たれるたびにミシミシと悲鳴を上げ、結合部からは容赦なく海水が浸水してくる。
「水が入ってきます! 船艙の吃水が下がってます! このままでは沈みます!!」
「バカ野郎、沈んでたまるか! 全員、桶を持て!!」
妹子は、恐怖で固まっている水夫や、念仏を唱えている学問僧たちに怒号を浴びせた。
「祈って水が減るか! 動ける奴は全員で水を掻き出せ! いいか、俺はこんな海のど真ん中で死ぬ気は毛頭ない! あのクソ上司どもに死ぬほどコキ使われた挙句、給料もボーナスも貰わずに魚の餌になるなんて、絶対に御免だ!!」
妹子の眼走る血走った眼光と、ブラック企業で鍛え上げられた異常な執念に、乗組員たちはビクッと肩を震わせた。
「ほら動け! さっさと水を汲み出せ! 休むな、休んだ奴から海に蹴り落とすぞ!!」
「は、はいぃぃっ!!」
そこからの数時間は、まさに阿鼻叫喚のサバイバルであった。
嵐の揺れで倒れた桶からこぼれ出た屎尿と吐瀉物が、浸水してきた海水と混ざり合い、船艙は地獄の汚水プールと化していた。
若きエリートたちも、もはや身分やプライドなどかなぐり捨てていた。
顔面を汚水まみれにしながら、玄理も請安も必死に桶で水を掬い、甲板へバケツリレーをしていく。
「休むな! 次! 次ぃ!!」
妹子は仁王立ちになり、自らもドロドロの海水を被りながら陣頭指揮を執った。
巨大な波が船を飲み込もうとするたびに、「沈むなァァァッ!!」と船底を蹴り上げ、気合いと根性だけで浮力を維持しているかのようだった。
自然の猛威に対する、人間の生存本能と、社畜の意地のぶつかり合い。
それは、丸一日と一夜続いた。
***
やがて。
激しい雨が上がり、黒い雲の切れ間から、眩しい太陽の光が差し込んできた。
波は次第に穏やかになり、猛烈な揺れは嘘のように収まっていった。
「…………」
「…………」
甲板には、力尽きて大の字に倒れ込む男たちの姿があった。
全員が汚水とゲロにまみれ、美しい絹の服は雑巾のように黒ずみ、悪臭を放っている。しかし、誰の顔にも「生き延びた」という確かな安堵の表情が浮かんでいた。
「……た、大使……」
泥だらけの玄理が、虚ろな目で妹子を見上げた。
「俺たち……生きてますね……」
「ああ……お前ら、よくやった。今日からお前らは、ただの坊ちゃんじゃない。立派な海の男だ」
妹子がそう言って笑いかけた時、マストの上の見張り台から、かすれた、しかし歓喜に満ちた声が響き渡った。
「陸だァァァーッ! 陸が見えるぞォォォ!!」
その言葉に、死体のように転がっていた乗組員たちが一斉に跳ね起きた。
船の舳先の向こう、水平線の彼方に、確かに広大な陸地のシルエットが浮かび上がっている。
「おおおおっ!!」
「着いた! ついに隋に着いたぞ!!」
若者たちが抱き合い、涙を流して歓喜の声を上げる。
荒波を乗り越え、ついに超大国・隋の大陸へと辿り着いたのだ。
船上は、感動の渦に包まれた。
だが。
その歓喜の輪の中で、ただ一人。
小野妹子だけは、陸地が近づくにつれて、みるみるうちに顔面を蒼白にしていった。
(着いて……しまった……)
彼は震える手で、懐の奥深く、油紙で厳重に包まれた一本の木簡に触れた。
聖徳太子がノリと勢いだけで書き上げ、推古天皇がハンコを押した、あの呪いのアイテム。
『日出処の天子、書を日没する処の天子に致す』
(そうだ……嵐を生き延びたところで、これはただのチュートリアルに過ぎない……)
上陸した先には、あの血も涙もない暴君・煬帝が待っている。
この手紙を渡した瞬間、今度こそ確実に自分の首が飛ぶのだ。
「あ、大使! 見てください! あれが隋の港ですかね!? いやあ、ワクワクしてきましたよ!」
無邪気に笑う若者たちの背後で。
妹子は再び強烈な胃痛に襲われ、甲板の上に静かに崩れ落ちたのだった。




