第1話 開幕、殺意高めの国書
日本の歴史上、もっとも劇的な変化を遂げつつあった飛鳥時代。
この時代において、一人の男が持病の胃炎に耐えながら、飛鳥の宮都を足早に歩いていた。
彼の名は、小野妹子。
「妹子」という、現代はおろか当時であっても「なんでそんな可愛い名前つけたん?」「親の顔が見てみたいわ」と周囲からツッコミを入れられかねない字面であるが、実態はむさいヒゲ面のオッサンである。
そもそも名前に文句がある。親はどういうつもりでこの字を当てたのか。
幼少期は「えっ、女の子だと思ってたのに男なの?」と周囲の大人たちを無駄にガッカリさせ、元服してからはヒゲが濃いという身体的特徴のせいで「名前と顔のギャップがエグい」と陰口を叩かれた。
しかし、名前の可愛らしさとは裏腹に、彼の実務能力は極めて高かった。
それゆえに、朝廷という名の大企業において、誰もが嫌がる面倒な仕事を押し付けられる「都合のいい中間管理職」としての地位を確立してしまっていたのである。
彼の持病である慢性的な胃痛は、この国の無茶苦茶なトップ層に振り回され続けた名誉の負傷と言っても過言ではない。
そして今日、彼はまたしても理不尽の極みとも言える指令を受けようとしていた。
「妹子や。そなたに、特別の任務を与えます」
推古天皇。日本初の女性天皇であり、絶対的な君主である。
彼女の言葉は法であり、彼女の笑顔は時に死刑宣告よりも恐ろしい。
さらに彼女の傍らには、朝廷の最大権力者である大臣・蘇我馬子が控えている。天皇の背後でニコニコと愛想笑いを浮かべているが、過去に政敵を容赦なく物理排除してきたゴリゴリの武闘派政治家である。
このツートップの前に呼び出された時点で、妹子の胃腑はキリキリと悲鳴を上げていた。
御簾の向こうから聞こえる、鈴を転がすような、しかし一切の反論を許さない絶対的な響きに、妹子は平伏した。
「ははっ。この妹子、粉骨砕身の覚悟で挑む所存にございます」
「うふふ、頼もしいわね。では、隋に行ってきなさい」
「…………はい?」
妹子は、自分の耳を疑った。
隋。
それは、数百年ぶりに中国大陸を統一し、圧倒的な力で君臨する超巨大帝国である。
当時の日本(倭国)からすれば、経済力、軍事力、文化レベル、すべてにおいて天と地ほどの差がある。あちらが最新鋭の高層ビル群だとしたら、こちらはまだ竪穴式住居に毛が生えた程度のプレハブ小屋である。
「あの……隋、と仰いましたか? 海の向こうの、あの超大国でございますか?」
「ええ。そうよ。我が国もそろそろ国際社会にデビューする時期でしょ? だから、ご挨拶にいってらっしゃい。遣隋使の代表としてね」
「ご、ご挨拶……」
現代のように飛行機で数時間、というわけにはいかない。
当時の航海技術は、はっきり言って「運ゲー」である。
コンパスもまともな海図もなく、ただ風と星と勘だけを頼りに、荒れ狂う東シナ海を渡るのだ。
木をくり抜いただけのようなポンコツ船で海に出れば、半分は沈み、半分は海賊に襲われ、無事に辿り着ける確率は果てしなく低い。
まさに、死出の旅である。
「あ、あの……恐れながら申し上げます。遣隋使の派遣となりますと、船の建造から水夫の育成、外交団の選定など、最低でも三年は準備期間が……」
「来月」
「……はい?」
「来月には出港しなさい。できるわよね?」
ニコリ、と推古天皇が微笑んだ気がした。
傍らの蘇我馬子も「おお、妹子殿なら必ずややり遂げましょうな。できねば一族郎党、職を失うことになりましょうが、ハッハッハ」と笑えない冗談を被せてくる。
明確な恫喝である。
言うのは簡単だが、実務を担当する側からすれば狂気の沙汰である。
まず、まともに外洋を渡れる船が存在しない。今から急ピッチで木を切り出し、突貫工事で造船しなければならない。さらに水夫の確保。死ぬ確率が高い船に乗りたがる命知らずを集め、莫大な支度金を用意し、数ヶ月分の保存食を調達し……とタスクを数え上げるだけで目眩がしてきた。
「ら、来月……っ!?」
「あら? まさか、私のお願いが聞けないなんて言うんじゃないわよね? 妹子なら『余裕です、明日でもいけます!』って言ってくれると期待してたのに……残念だわ」
「い、行けますッ! 行かせていただきますッ! 来月ですね! 誠に絶好の航海日和になるかと存じます!」
「そう。ならいいのよ。期待しているわね」
こうして、来月の出港が確定した。
***
泣きながら宮を辞した妹子が向かったのは、もう一人の上司の元であった。
厩戸皇子。のちに聖徳太子と呼ばれる、この国の最高頭脳である。
推古天皇が「絶対的な権力を持つワンマン社長」だとするなら、厩戸皇子は「アイデアマンだが致命的に適当なクリエイティブ・ディレクター」であった。
斑鳩宮に到着した妹子が見たのは、十人の役人に囲まれながら、同時に指示を出している厩戸皇子の姿だった。
「あー、その稟議は通しておいて。あ、そっちの税の計算間違ってるよ、やり直し。うんうん、冠位十二階のデザインはそれでいこう、紫がトップね。オッケーオッケー」
伝説に語られる「十人の話を同時に聞く」というやつである。
一見すると超人的な聖徳に満ちた姿だが、長年彼に仕えてきた妹子は知っていた。
(この人、十人の話を同時に聞いてるフリして、自分に興味のない話や面倒な報告は右耳から左耳へスルーしてるだけだ……!)
「おお、妹子! 待ってたよ! いやー、聞いた? 遣隋使! ビッグプロジェクトだね!」
「皇子……ええ、拝命いたしました。それで、私は来月には死の海へ漕ぎ出さねばならないのですが、相手の皇帝に渡す肝心の『国書』は……」
「もちろん! 昨日はテンション上がっちゃってさー、徹夜で書き上げちゃったよ! めっちゃいいコピー書けたから見てよ!」
ババン、と誇らしげに差し出された木簡。
それは、日本国の運命を、そして何より小野妹子の命運を左右する最重要機密文書である。
妹子は震える手でそれを受け取り、恭しく視線を落とした。
『日出処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや』
「…………」
妹子は、二度見した。
いや、三度見した。
念のため、指で文字をなぞりながら四度見し、さらに目をこすって五度見した。
「……あの、皇子」
「ん? どうしたの? 感動して言葉も出ない? 『恙無きや(元気にしてるー?)』ってフレンドリーな感じが良くない?」
「これ、本気で提出するおつもりですか?」
「うん。バッチリ清書済み。これ持って来月ゴーして!」
「殺す気ですかアアアアアッ!?」
妹子の血を吐くような絶叫が、斑鳩宮の天井に響き渡った。
「ちょっと! どういうことですかコレ! 本気で言ってます!? 寝ぼけてます!?」
「えー? 何が? 完璧な仕上がりだと思うんだけど」
「死刑宣告書の間違いでしょうが! いいですか、順を追って説明しますよ! まず『日出処の天子』! 百歩譲って我が国が東にあるから『日出処』はよしとしましょう。問題はその次です! 『天子』!」
妹子は木簡をバンバンと叩きながら、唾を飛ばしてまくし立てた。
そもそも、当時の東アジア外交の基本は「冊封体制」である。
中国の皇帝に対して「私はあなたの家来です」と臣下の礼をとり、貢物を持っていく。代わりに皇帝から「よしよし、お前をその土地の王として認めてやろう」とハンコをもらう。これが当時の国際社会の絶対的なルールであり、常識であった。
「天子というのは、天命を受けて天下を治める唯一絶対の君主、つまり隋の皇帝陛下のみに許された称号です! それを、辺境の島国のトップが勝手に名乗るなど、中華思想への真っ向からの喧嘩の売り方ですよ! 身の程知らずにも程があります!」
「えー? でもさ、こっちも独立国家のトップじゃん? 下手に出て冊封されて、向こうの家来みたいになるの嫌じゃない? 対等な感じで『Yo!』って行った方が向こうも『おっ、こいつらイケてるな』ってなるっしょ」
「なるかァァァッ!!」
妹子は胃の激痛に顔を歪めながら、その場に膝から崩れ落ちそうになった。
「対等!? 向こうはユーラシア大陸を制覇した超巨大帝国ですよ!? こっちはついこの前まで部族同士で泥んこ遊びみたいな内戦してた極東の島国ですよ!? アリが象に向かって『俺たち対等な!』って肩組みにいくようなもんです!」
「まあまあ、気合いでカバーできるって」
「精神論で外交がやれるなら誰も苦労しませんよ! さらにこの『日没する処の天子』! 太陽が沈む国って、完全に没落フラグじゃないですか! 『お前んとこ、もうすぐオワコンだからヨロシク☆』って言ってるのと同じですよ!」
「いやいや、太陽は東から昇って西に沈むでしょ? 単なる事実じゃん。事実を言っただけで怒るほど、向こうの皇帝も器が小さくないって」
「小さいんですよ! 相手の皇帝、あの煬帝ですよ!?」
妹子の目には、確かな絶望の涙が浮かんでいた。
「先代の皇帝である実の父親を暗殺して帝位を簒奪したって噂もある、血も涙もないガチの暴君ですよ!? 高句麗なんて、ちょっと生意気だったからって数百万の大軍でボコボコにされかけてるんですよ!? 気に入らない奴は一族郎党皆殺しにするような獰猛な男です! こんな国書を手渡したら、向こうが器の大きさを示す前に、私の首が空高く舞い上がります!!」
「大丈夫大丈夫! 『いやー、単なる地理的な位置関係のメタファーッスよー、他意はないッス!』って笑って誤魔化せば、煬帝も『お前、オモロイやんけ』ってなるって!」
「なるわけないでしょうがアアア! 皇帝の御前でそんな言い訳が通用するわけないでしょうが! 完全に国際問題ですよ!」
妹子は必死に食い下がった。
ここで引き下がれば、確実に自分の命はない。いや、自分一人ならまだいい。同行する留学生や水夫たち、ひいては日本という国そのものが、激怒した隋の大艦隊によって火の海にされる可能性すらあるのだ。
「皇子! お願いです! 今からでも遅くありません。もっとこう、遜った、『辺境の小国が、偉大なる大帝国にご挨拶に伺いました』的な、無難で安全で、私の生存確率が少しでも上がるような国書に書き直してください!」
土下座の勢いで懇願する妹子。
しかし、厩戸皇子はケロリとした顔で耳をほじっていた。
「あー、ごめん。それ無理」
「なぜですか! 筆と墨ならここにあります! あなたのその超絶頭脳を使えば、五分で素晴らしい名文が書けるでしょう!?」
「いや、書けるけどさー。それ、もう推古天皇の決裁おりちゃってるんだよね」
「…………は?」
妹子の思考が停止した。
「昨日、テンション上がった勢いで推古おばさん……いや、推古天皇に見せに行ったら、『あら、威勢が良くていいじゃない。これでいきなさい』って。ほら、ここに天皇の御璽もバッチリ押してあるっしょ?」
見れば確かに、木簡の端には、最高権力者の絶対的な承認を示す印が燦然と輝いていた。
官僚社会において、トップの決裁が下りた文書を覆すことは、天地がひっくり返っても不可能である。
それをやろうとすれば、推古天皇の権威に泥を塗ることになり、不敬罪で即刻斬首。蘇我馬子に物理的に処理されて終わりだ。
『え? 私がこれでいいって言ったのに、書き直したいの? 私が間違ってるって言いたいの?』と笑顔で言われながら、首に縄が巻きついている未来しか見えない。
「詰んだ……」
妹子は、その場に崩れ落ちた。
前門の虎、後門の狼。
海を渡って煬帝をブチギレさせて処刑されるか、今ここで国書の書き直しを求めて推古天皇をブチギレさせて処刑されるか。
二つに一つ。生存ルートが消滅した瞬間であった。
「よし! じゃあ国書はそれで決定ね! あとは船と、お土産の手配よろしく! 隋の進んだ文化とか仏教の経典とか、いっぱい持って帰ってきてね! 期待してるよ、プロジェクトリーダー!」
「プロジェクトリーダー……なんという響きのいい生贄の呼び名……。労災は下りますか……」
「労災? 何それ美味しいの? あ、あとさ。向こうに着いたら、一応『日没する処』ってのは悪気ないから! マジで地理的な話だから! って上手いことフォローしといてね。君、そういう忖度して立ち回るの得意っしょ?」
「丸投げかァァァッ!!」
西の空では、皮肉なほどに美しい夕陽が沈みかけていた。
(ああ……あれは、私の命の灯火だ……。いや、日本国の灯火かもしれない……)
妹子は懐から、中国産の高価な胃薬を取り出し、ボリボリと音を立てて噛み砕いた。苦い漢方の味が、口の中に広がる。しかし、これからの旅で味わう苦難に比べれば、こんなものは甘露に等しかった。
逃げ場はない。
船に乗るしかないのだ。
このヤバすぎる国書を胸に抱いて、暴君の待つ大陸へと。
「ええい! こうなったらヤケクソだ! やってやろうじゃありませんか! 海を渡って、あの暴君を丸め込んで、絶対に生きて帰ってきてやりますよ! そして帰ってきたら、絶対にお二人に特別ボーナスを請求してやる!!」
「おおー、その意気その意気! じゃあ来月出港ね! 気をつけてバイバーイ!」
軽く手を振る天才上司を背に、小野妹子は重すぎる足取りで港へと向かうのだった。
史上最悪のブラック出張。
のちに日本の歴史を大きく変え、教科書に太字で載ることになる「遣隋使」の第一歩は、一人の悲しき中間管理職の、絶望と胃痛とヤケクソから始まったのである。




