72
最初に描かれたのがアーチなら、次に描かれたのはそこを縦横に走る直線である。
次の瞬間に、アーチの内側すべてが切断面に化けた。
その時にはすでに、薫はエストに抱えられて横へ飛んでいた。
がらがらと崩れる壁、立ちこめる煙、何が起こったのかほかの一般客は一瞬理解できず、煙が自分の視界に入ってくるに当たって「何事か」が起きていると悟ってパニックになった。
「え?」
理解するいとまもなく、エストは仁王立ちになって少年に背を向けていた。
「逃げな!」
そう鋭く叫ぶ声は、いつもの女騎士・エストの声だ。
戦う女の声だ。
(……)
一瞬、薫が見とれるほどに、その姿は凜々しく、美しかった。
同時にそれまでは気づかなかった、ひどく儚い、もろいものを薫は感じ取った。
「いやだ!」
とっさに少年は叫び、エストの横に並ぶ。
「バカ、あぶないって!」
「僕だって、騎士です」
一瞬、戦士の顔だったエストに、さっきまでの乙女の顔が浮かび、すぐ、満面の笑みになった。
「そうだったね、忘れてたよ!」
やがて、一瞬で切断され、崩れたコンクリートの粉末によって起こった煙がおさまり、一人の小さな影を生み出した。
影は数歩進んで、喫茶店の照明の中に現れる。
思わず、薫が言葉を失う。
頭にはティアラ、流れるような金髪は前から見るとオールバック気味で広い知的な額を目立たせている。
目つきはきついが顔立ちそのものは高貴さを感じさせ、肩口の広がったワンピースのスカート部分はフレーム入りのフレアスカート。
しかも細い腕の先、長いスカートの裾からなおも伸びる細くて長い脚の先は鎧の部品でゴツく覆われている。
右肩に担ぐようにして持っているのは、巨大きわまる片刃の大剣。
(ゲームキャラのコスプレ?)
状況が状況でなければ、またつい最近までの経験が経験でなかったら、薫は「ひどく大掛かりなゲームか映画のプロモーション活動」と自分を納得させていたところだ。
「タイハンとソグディアナの戦神騎士とやらはどいつらだ!」
少女は鋭い声で命じた。
常に命令し慣れ、それが通ることが当然という人生を歩んできたものだけが出せる、絶対服従を要求する声だ。
「タイハンの騎士はアタシだよ、このチンチクリン」
「えーとあの……僕が、ソグディアナの騎士……です」
エストは傲然と胸を張って、薫はおずおず手を挙げる。
「さようか、では名乗ってやろう、私の名は……」
ふんぞり返って中学一年生ぐらいの少女が名乗ろうとした瞬間、黒い影がその背後から少女の頭を踏みつけた。
いい音が、少女の首で鳴るのを、薫は確かに聞いた。
「かかかかかかかかっ、薫君!」
黒い影はそう叫びながら少年の襟首をつかんでつり上げた。
「!」
一瞬、なんで怪物が自分の名前を知っているのかと薫は首をひねったが、それが髪振り乱し、服装も乱れまくって真っ白にまみれた斎京楓だと知って驚いた。
「あれ?
斎京さん、どうしたの?」
「どーしたもこーしたもないでしょ!
あなたの告白の邪魔をされないようにってあのアドネってヒトに縛られて転がされてたの!」
「ああ、そうなんだ。
どうりで今朝から姿が見えないと……」
ほけっと少年は応え、ますます楓は不審げな表情になる。
「どうしたの、薫君?」
一気呵成に現状報告をしたものの、相手の魂がここにないことを察して楓の顔が怪訝そうに曇った。
「何かあった?」
「いや、 その別に」
言った少年の顔がほんのり赤く染まる。
楓の血相が変わった。
「何があったの……いえ、違うわ、ナニがあったね!」
「ナニ『が』ってどういう意味だよ!」
「言いなさい!
何処まで行ってしまったの!
一般文庫では掲載不可能な、二次元でドリームで市民革命文庫のよーな、めくるめくブルーな体験を、個人的授業というか、肉体的居残り授業とかされてしまったというの!
さあ、先生怒んないから言いなさい、言いなさいってばこの吐けえええっ!」
薫が応える余裕すら与えず、眼鏡少女はつい十分ほど前まで拘束状態にあったというのが嘘のように元気に、その襟首をつかんでがくがくと揺さぶった。
「でもだめよだめよだめなのよ!
薫君の初めてはもっとこー理想的な殿方が出現したら微に入り細に入りあれこれ描写を行うために私の目の前でしてくれないと困るの!
駄目なの、不許可なのっ!」
「さ、さ、斎京さん、斎京さっ!」
「いい?
もしもそういうことをしたなら正直に言いなさい、あたしいい病院知ってるから、今から二十四時間以内の記憶をお薬でちょっと完全消去してあげるから、大丈夫、脳のシナプスの一部を解除するだけで、アルジャーノンで花束な事になったりしないから!」
「だ、だからっ、な、何もナニもしてない、してないってば!」
「いーや、嘘よ嘘!
男の子がそういう顔をしているときは恋をしているときか、チェリーの花を散らした直後だって、私の敬愛するラウニー瓜畑先生の本に書いてあったもの!」
「誰なのそのひと?」
「楓ちゃんが大好きなエログロ愛憎劇の得意かつ特異なBL作家でね、日本のジャック・ケッチャムとかBL世界の平岡夢明って言われてるヒト」
気がつくと、これもまたどこから現れたのか、楓のパトロンにして最大の愛読者である真衣が面白そうに解説を入れてくれた。
「まあいいわ、こうなったら路線変更、それをサーシャ君に微に入り細に入り報告して愛憎の炎を燃え立たせてついでにエストさんには死んでもらって君には復讐の鬼と化してもらった後一騎打ち、互いの剣が互いの肉を切り裂き骨を裂き……ぐほっ!」
遠慮斟酌一切なしの手刀が楓の首筋に振り下ろされ、少女は気を失って倒れた。
「あまりにも唐突な登場の仕方に呆然としてりゃあいい気になってまくし立てやがって……」
「まあまあ、エスト様あまりお怒りになられてもしかたがございません、サソリは刺すもの、龍は羽ばたくもの、戦神は戦うものという言葉もございます」
慌ててアドネが倒れた楓を支え、真衣に手渡す。
「だからってだねえ……」
さらにあと二、三回は倒れた楓を蹴っ飛ばしそうな顔でまくしたてようとするエストだったが、ふと周囲を見渡した。
「ところで、なんでアドネ、お前がここに?
いや、よく見ればお前の妹やらソグディアナの姫様や……シムト殿下まで!」
わなわなと震える指先で、エストは周囲の顔見知りを指さした。
「いや、あ、つ、つまりだなエスト、皆お前を心配して」
こほんと咳払いなぞしながらシムトが説明しようとするが、
「嘘だ!
みんなアタシとカオル様とのデートをおもしろおかしく見物するつもりだったんだ!
見せ物にするつもりだったんだーっ」
「いやあのそ、それはつまり」
何しろ完全に図星である。
誰も言い逃れは出来なかった。
「ひどいひどいひどいです!
いくら普段のキャラにあってないからって、面白そうだからってそうやってストーキングしてあたしがカオル様の前でデレたり可愛い女に見られたいけどそうは行かないし年上だしって思い悩んでそれでも勇気振り絞って頑張って頑張ってなんとかお食事も終えたし、お話も盛り上がったし、あわよくばこ、こ、今夜のお、思い出が……てっ」
「思い出!?」
「思い出……?」
「思い出ですか?」
「エスト、この場合の思い出というのは何だ?」
ちなみに、シャルロット、アドネ、ニファーリア、シムトの順番である。
「あの、え、エスト様」
さすがにアドネが頬を染めながらためらいつつ訊いてきた。
「その、お思い出、と申されましてもその、さすがに我らもそこまでは……」
「ななななななにを、何を誤解してるだいよっ!」
もう語尾も言葉遣いもめちゃくちゃになりながら、半泣き状態でエスト。
「思い出は思い出だからいーじゃない、いーじゃないいいじゃない!
戦ってきたんだもの頑張ってきたんだもの、思い切って告白したんだもの、どの段階の思い出作りかはアタシとカオル様の合意の下に行われてもいいじゃない!」
「いやあの、えーと、エストさん」
「か、カオル様をないがしろにしたりはしません、ですからご安心くださいっ!」
話しかけようとする薫の言葉を辿り、子虎を猟師から護ろうとする母虎もかくやの表情と迫力でエストは続ける。
「いいから、みんな帰って!
アタシがいくら普段ああいう格好してるからって……」
「あの、えと、エストさん……」
「大丈夫です、カオル様、今この方たちにはちゃんと話をつけて……」
「いや、そうじゃなくてエストさん……その前にちょっと問題が」
「問題?」
まってくれ、や僕に話を、ではなく「問題」という言葉にエストは薫の方を振り冋いた。
爆弾テロか何かと勘違いした人々は店員も含め店内から遁走し、惨憺たる有様の喫茶店内である。
いや、もっと惨憺たる有様の存在が、いた。
「お……おのれ……こ、この慮外者……」
それまで床に突っ伏していた金髪の王女様がゆっくりと復活しつつあった。
顔面には、先ほど彼女を踏み台代わりにした斎京楓の靴あとがくっきりと刻印されている。
「よりにもよって、わらわの顔面を踏みつけにしたあげく、延々と無視して痴話げんかを続けおってからに」
「ですが、この場合は姫様が悪いかと」
どこからともなく……いや、正確には少女の背後から冷徹きわまりない突っ込みが、優雅で深みのある男性の声となって響いた。
「いくら初回でインパクトを与えて登場しよう、とは申せ、隣の建物を延々三軒分切り裂いて登場というのはやり過ぎです。
案の定、疲れてひと息ついた瞬間を狙って蹴り飛ばされて三十秒も気絶なさっていたわけですし」
「やかましいシュパンダウ!」
少女は文字通りかみつくような顔で背後の「誰か」にわめいた。
「姫様、何度も申し上げておりますが、私の名前はシュパンドゥール、あるいは『栄光ある緑の竜』シュパンドウールでございます。
ご自身がお名付けになられたではございませぬか」
「やかましい、わらわはそちの主じゃ、他人はいざしらず、主たるわらわはお前をどのように呼称せしともかまわぬのじゃ!」
「極論ではないかと愚考しますが」
「愚考と知るなら口に出すでない阿呆!」
「愚考というのは言葉のあやです、いつも申し上げているではございませんかお嬢様、君主たるもの言葉の裏を読むことが重要であると」
「お前のは裏だらけで表がなさ過ぎじゃ!」
「それもまた韜晦の術にございます、姫様もそろそろ覚えていただきませんと」
「やかましい、そのためのお前ではないか!」
「私は従者でございますが、姫様ご自身ではございません」
「あたりまえじゃ、お前が私だったらとっくの昔にテオラット山の火口に身を投げて死んでおるわ!」
「それはいくらなんでも言い過ぎでございます。
確かに私はお姫様よりも遙かに完成された外見と知性と人格を保有する、絶対無敵の存在でございますが……」
「どの口がいうか、どの口が」
「お見せできないのが大変残念でございます」
腹話術か、新手の一人漫才か……というにはあまりにも「本気度」がありすぎる少女と声の掛け合いに、しばらく薫たちはそれを眺めていたが、やがて真衣がそれぞれの上着の袖を次々と引っ張り始めた。
「お巡りさんが来るわ」
我に返ると、テレビでおなじみのサイレン音がリアルに近づきつつある。
おまけに外にいる客のあちこちから「お巡りさんここですーっ!」の声。
「ここはひとまず逃げましよう」
意外に速く現実的判断を下したのはニファーリアだった。
「魔法で飛ぶの?」
「仕方がありません……ちょっと荒っぽいですが……斎京さんを忘れずに」
「はいはい」
真衣は初体験の「魔法」にウキウキしながら、白目を剥いて気絶したままの楓を、お気に入りのぬいぐるみよろしくぎゅうっと抱きしめた。
「では皆さん、固まっててください」
「あ、はい……」
薫とニファーリアの間にはごく自然にシャルロットが入り、シャルロットと薫の間には、これまた自然にエストが入った。
反対側にはアドネとシムト、そして楓と真衣。
人混みの中を、銃を抜いた警官たちが飛び込んできたとき、一瞬の輝きが店内に満ちて……少なくとも薫たちはその場から消え去っていた。
「ほら、姫様、つまらぬことにこだわるから」
とどこからともなく聞こえてくる声に、少女が我に返る。
「ぶ、武器を捨てなさいっ!」
周囲はすでにニューナンブ三十八口径、およびSIGP30の九ミリ口径の銃口に囲まれていた。
「おのれ……シュパンダウ、なんとかせえ!」
「……分かりました」
ため息混じりの言葉とともに、再びの閃光が店内を照らした。
これもまた、一瞬で消え去る。
「?」
警官たちが視力を回復した時に見たものは、何事なかったかのように整然と椅子とテーブルが並ぶ喫茶店内であった。
むろん、壁に切り裂かれた跡などあるはずがない。
あとで判明したことだが、その隣で次々と切り裂かれたはずの壁も元に戻っていたという。
つまり、先ほどまでの騒動の痕跡は人々の記憶以外からは存在しなくなっていたのである。
警官たちは顔を見合わせるしかなかった。




