63
「ずいぶんと手を入れましたね」
「ええ、おかげで正式にホテルを引き払えたのでその分、改装に費用が回せました」
薫の家のはなれにある道場は、ずいぶんと内装が変わっていた。
白壁にそれなりの調度品、絨毯を敷いたのがやはり大きい。
「しかし……重ね重ね申し上げますが、本当に良いのですか?」
「ここは非公式ではありますが、わがソグディアナの領地の一部、ということになっておりますし、あなたたちは私の客分です。
いかにタイハンの新国王が剛胆な方とはいえ、ここへいきなり攻め込むとなれば、神々が許さないでしょう」
それ以前に警察のお世話にと茶々を入れる担当であるはずの薫は、今は別の「お客」の相手をするために台所へ行っている。
だから、ここにいるのはニファーリアとシムトのふたりっきりだ。
その日の夕方帰ってきた薫の祖父母は事情を聞いて「ならしばらくは家にいるといい」と、驚いたことに道場まで明け渡してくれたのである。
最初は戸惑ったシムトだったが、現実感覚あふれるエストとアドネの説得により、とりあえず、ちゃんとした落ち着き先が見つかるまで、という限定でこれを甘んじて受けることにした。
「どうお礼をすればよいのか……ダイスケ殿にはもちろん、あなたへは特に」
とシムトは複雑な表情で言った。
「タイハンの新政府、と言っても私だけで家臣はエストとアドネのふたりのみ。
それに、私のしていることはただの嫌がらせにもならない公算が高い」
「ええ、そうですわね」
いつになく生真面目かつ冷徹な声で、しかし力強くニファーリアは頷いた。
「ですから、私が望むのは利益ではなく、風景です」
「?」
「シムト殿下いえ、シムト様」
にっこりとニファーリアは微笑んだ。
「女が、どこまで男のすることにあらがい、誰かに利用し尽くされることもなく、生き延びて、何かを変える様をお見せくださいそれが、私の望みです」
「女が」という言葉に、これまで性別を隠して生きてきたシムトは驚いたが、すぐに「そういえば自分も女である」と気づいて苦く笑いかける。
が、すぐにその言葉が同時に自分に対する純粋な善意と励ましであると気づいて顔を引き締めた。
「ニファーリア様」
だからシムトはまっすぐにニファーリアを見つめた。
「どうか、ファリイ、とお呼びくださいませ」
ニファーリアの笑顔は、思わず見とれるほどに華やかだった。
「でも、なんで僕なの?」
はぐはぐと桃まんにかじりついているチビバルに、カオルは尋ねた。
台所と兼用になっているダイニングには、「久々に会食をしましょう」ということで近所の中華系ファミレスから取り寄せた品が山となっているが、どうもこのままではこのちびっこい神様の代理にすべて食べられそうな勢いである。
「知らぬ」
毎日コレだと薫の家は破産してしまうのだが、幸い、チビバルに関しては楓が面倒を見ることになり、さらにその食費は全面的に金持ちである真衣が出すことになっている。
ちなみに今回の中華料理も真衣が取り寄せたものだ。
その対価としてこの二頭身にどんな運命が降りかかってくるかは、薫は今のところ考えないようにしていた。
天災とあのふたりの考えは具体化してから慌てたって遅くはないいのだから。
「……というか忘れてしもうた」
「またそんな……」
「仕方がなかろう、ここへ来てから散々ひどい目にあってここまで縮んでしまったのじゃ、もっと食べて、力というか、なんというか、気力じゃなく……えーと」
「エネルギー?」
「そうそう、それじゃそれ。
まあそれを充填して元の姿に戻らねば、たぶん思い出せぬ……まあ、食べ物はうまいので問題はないわえ」
あっという間に一個をむさぼり、頬をリスのように膨らませてチビバル。
「たぶん、てまたずいぶんいい加減な……」
「き、騎士殿、一応仮にも神の御使い様です」
シャルロットが薫の袖を引っ張った。
「あ、そうか」
神なき世界の住人ならではの無神経だったかな、と薫が思うまもなく、
「気にするな、ここではわたしもそなたたち同様『かりそめの客』というやつじゃ」
温かいお茶をいっぱい口に含んでごっくんと飲み干す。
「まあ、よいではないか、のんびりゆっくりやろうぞよ。
とにかくいっぱい食べておかねばな。
毎度お前の籠手になるたびに腹が減って知能が低下しては神の沽券に関わる」
「でも、何で籠手になるの?」
「思い出せぬ。
まあ手を貸そうと思ったからじゃろ?
それにあ奴らは悪人じゃとぼんやり覚えておるからな」
「そりゃそっちはいいかもしれないけど?」
妙に熱い視線を感じて、カオルは入り口を見た。
エストのくいっと持ち上がった形のいいヒップが、回れ右して廊下を去っていくのが見える。
ちなみに、今のエストはあのきわどいSM衣装ではなく、ぴっちりしたジーンズなので、さほどまあ、扇情的なアレではなくなっているものの、元のプロポーションがプロポーションなので、十分青少年には目の毒だったりする。
が、まあこの辺は薫の祖父母も「外人さんだからねえ」と納得してくれているし、エストもこのふたりに対しては礼儀に則った対応をしてくれるので問題はない。
「?」
「どうしたのだ、騎上殿?」
「いや、そのエストさんが」
「ああ、気にすることはあるまい、我々の雰囲気に乗って来づらかっただけであろう」
「そうかなあ?」
「はーい、チビバルちゃん、次がきましたよー」
玄関で黒いクレジットカードで支払いを済ませた真衣が塔のように積み上げた桃饅頭やらの飲茶の箱を持って台所に戻ってくる。
「おー真衣、汝はよいやつじゃのぅ」
ぱたぱたた、とチビバルは羽ばたいて真衣の周囲をぐるぐる回る。
「あらあら、チビバルちゃんは元気ねえ」
真衣と一緒に中華のパックを持ってきた薫の祖母と祖父も目を細める。
「とりあえず、賑やかなのはいいことだよ、なあ薫?」
「うん……そうだね」
素直に、薫は微笑んで頷いた。
「少なくとも、誰かがいなくなったりするより、ずっといいものね」
だが、すぐに少年は少し沈んだ目になつた。
(サーシャ、また来るのかな?)
自分そっくりな顔の少年(いや少女か)が憎悪の目つきでこちらを見る光景は、今でも痛みとともに薫の頭に焼き付いて離れない。
(人の考えを変えようとか、ってのはやっぱり僕ぐらいじゃむりなのかなあ)
溜息が出た。
「うー」
うめきながら、エストは首を上に向けて、アイスノンを鼻の付け根に置いいた。
そろそろ冬の足音が聞こえてきそうな時期だが、昼の縁側はまだ暖かい。
薫とチビバル……のツーショットに、まさか鼻血が出るとは思わなかった。
縫いぐるみが動いて喋るようなチビバルはともかく、薫の顔を近くで見られる、なんてことはそういえばあの国交決闘以来である。
「小娘じゃああるまいし」
「エスト様はまだ二十二歳、十分に小娘と呼ぶに相応しい年齢と存じますが?」
アイスノンを持ってきた当人が小さな微笑みを唇の端に浮かべて言う。
「お前だってまだ十八歳だろうに、何いってんだい」
毒づいたものの、エストの声にいつもの力はない。
「ところでさ」
「わっ!」
いきなり背後に現れた斎京楓に、思わずエストは飛び上がり、アイスノンを落としそうになった。
「何であたしんちに山のような木箱が『開封したらコロス』って書かれた張り紙ごと来るわけ?」
「……責任だ」
じろり、と照れ隠しも半分以上入った三白眼で、エストは楓を睨んだ。
「いいか、絶対開けるな!」
そう言って楓の首根っこをひっつかまえると素早くへッドロックをかまし、エストは庭の隅まで引っ張っていき、
「あの中身のことを口外したら、お前も道連れでアタシも死ぬからね」
ドスのきいた声で言った。
「ちょ、ちょっとく、首の骨が変な音出してる、出してるってば!」
「出してるんじゃない、出させてるのよ」
「わ、わかったわかったから」
さすがに斎京楓でも首が危険になれば少々弱い。
「……よし」
と楓の首を解放する。
「……ったく、そんなことしなくって言ったりしないって」
とぶつくさ言いながら、ふと楓は気づいて、
「でもさあ、何となくあの女執事の人には全部バレてるような気が……」
「何言ってんだい、どさくさ紛れとはいえ細心の注意を払って運び出したんだ、アドネだって判らないよッ」
とは言うものの、不安になってエストはそっと背後を振り返った。
「?」という顔でアドネはこちらを見ている。
もっともふたりともまだ互いに確認していないことがあった。
エストが楓の家に送りつけた木箱には「天地無用」とか「取扱注意」の札が貼ってあること、そして、そんなものを貼る指示を赤毛の女騎士はしていないこととか。
また、送り荷札でエストが住所を一ヵ所間違えていて、彼女とは別の、ホテルのチェックアウトの細かい書類にサインをしたのと同じ女文字でそれが修正されていたこととか。
「あ、そうだその代わり、薫君への手出しはダメよ」
思い出したように楓が言った。
「なんでさ?」
「だって、薫君にはもう恋人がいるんですもの!」
「何?」
血相が変わりそうになったエストヘ、
「ほら、この前の仮面の、うりふたつな彼!
彼よ!」
と両手を握り合わせた楓は目をきらめかせながら歌うように言う。
「夢よ夢!
一時は薫君が危なかったけど、まあ、結果オーライ。
それよりも望んでいたものが形になって舞い降りてきてくれたわ!
神様は私のことを愛してくれてるわね、夢が来たのよ!
夢が!」
むしろ楓の場合は夢は夢でも邪悪なと上につきそうであるが。
「なんだ、あんたの妄想の中の話かい」
事情を察して安堵の溜息をついた。
「何言ってるの!
ゲッベルスだって『嘘も百万回つけば本当のことになる』って言ってるし、ドリーム・イン・カム・トゥルー『夢はきっと叶う』は人生の法則で鉄則!
呪いだって繰り返すことで効果が増すんだから!」
ちなみに、Dream come Trueは確かに「夢はきっとかなう」と翻訳できるが、単語ひとつ多いとスラング的にエライ意味に化けるとか、ゲッベルスはナチス・ドイツの宣伝大臣で結果服毒自殺したとかいう事実もひっくるめ、彼女らしいといえば言える。
「しかし、まあ夢、か」
エストは遠い目になった。
「確かに、自分から動かないとつかめないよねえ」
「あ、こらちょっと待ちなさい!
ダメだからね、異性愛は!」
楓の言葉に耳を貸さず、エストは家の中に戻った。
「こら、ひとの話を開きなさいよーっ!」
嫌な予感に突き動かされて、楓もその後を追う。
アドネの横を通り過ぎようとした時。
「失礼、楓様」
とサングラスの女執事の冷徹きわまりない謝罪の声を耳にして、楓が振り向くまもなく、どすっ。
鈍い音がして、楓はそのまま気を失った。
「エスト様の乙女としての一戦を邪魔されては困るのです」
そんな声を聞きながら。
再びダイニング。
「ああ、うまいのううまいのう、もひとつオマケに、うまいのうぅ……」
はぐはぐと春巻きを食い、海鮮酸辛湯を飲み、チャーハンをかきこみながら、バルキリーは世にも幸せという顔になった。
「ああこのぷりぷりがふわふわがもひゅもひゅはぁーっ」
もう何を言ってるんだか判らない。
次々と中華料理の箱を空にしながらも、体積が増えないのはつくづく凄い話である。
「すごいねえ……」
薫は呆れるのを通り越して感心しているし、シャルロットは『神の御使い』の意外な姿に言葉もない。
「楓ちゃんの話だとこれぐらい毎日食べさせないと怒るらしいんですって……うちで飼えたらいいんだけど今マンション暮らしでペット厳禁だから」
真衣がさらりととんでもないことを言ったが、二頭身の戦乙女は聞いていないようで、
「はふはふはふふ、おお、このゴマ団子とやらまた珍味であるなあ!」
と爪楊枝で突き刺したピンポン球大の胡麻団子をかざしては喜んでいる有様。
「まあまあ、小さい子はいっぱい食べて大きくならないとねえ」
と薫の祖母はニコニコとお茶なんか入れている。
「いやあ、ニファーリアさんの食べっぷりもいいが、この子はこの子で凄いもんだなあ」
祖父は祖父で暢気に自分の湯飲みをすすっているあたり、やはり薫の血筋は本来剛胆なのかもしれない。
と、そこへふらりと入って来た人影がある。
「や……よ……いや、あの、こ、こんにちは」
さっき引き返していったはずのエストだ。
「そ、そっちの準備はどうかな、と思って」
「あ、大丈夫ですよエストさん、もう料理は来てますし、チビバルはチビバルでそろそろ満腹しそうですから」
「うむ、あと一皿食ったら後はよきにはからえー!」
と青椒肉絲をかっこみつつ、二頭身が宣言した。
「そ、そうか……うん」
なぜか恥ずかしそうに、エストはそう言って、薫の座っている椅子のそばに来る。
「あ、あの」
赤毛の美女は、髪の毛に負けないほどに顔を赤らめながらうつむき、もじもじとTシャツの裾をもてあそぶ。
妙に可愛らしい。
「?」
薫は普段の「おっかないお姉さん」が妙にもじもじしているのを見て、首を傾げた。
(仲直りを正式に、ってことかな?)
「あのさ、カオルどのに話が、あるのですが」
口調も改まっている。
「その……あの……」
「はい?」
(どうにも言い出しづらいんだろうなあ……この前まで決闘する間だったわけだし)
哀しいかな、女性に対して何の期待も持てなくなっている少年はそんな暢気なことを考えていた。
「私たちは席を外しましょうか、お祖父さん」
「そうだねえ」
と祖父母が頷き合うのへ、
「い、いえ、おじいさまおばあさま……じゃなかった、ダイスケ様もタエコ様もどうぞここにいてください、おふたりにも、そのお聞きいただきたいのです」
決死の声でエストはふたりを……いや、この部屋にいる全員を引き留めた。
再び、薫に向き直る。
「あの……カオル、どの」
ごく、とエストがつばを飲み込み、その瞬間ようやく少年は自分の予想が外れたらしいと気がついた。
(なんだろ……?)
ますます不思議な思いでエストの顔を覗き込む。
視界の隅に、ダイニングへ続く廊下の奥からニファーリアがシムトを伴ってやってくるのが見える。
エストははっとしてうつむいて、左右に視線をさまよわせ、ややあってから、ようやく意を決したように顔を薫に向け、まっすぐに見つめて、言った。
「どうか、私と……このエスト・レムリエ・アメルニスと結婚を前提としたおつきあいをしてください!」
言われて数秒、薫は耳に入った言語を理解できなかった。
同時にダイニングに足を踏み入れたニファーリアとシムトも、だが、こちらは意味が違う。
シムトは唐突すぎて言葉の内容を理解できておらず、ニファーリアは言葉の内容を理解したものの唐突すぎて思考が追いついていない。
その時になって薫の大脳がようやく言葉を咀嚼し、意味を何度も読み返して点検し、最終確認を出す。
だが、理性はろくに動かない。
「え?」
間の抜けた声が口から出ただけだ。
ぐいっと、エストは薫の手を握り、再び言った。
イメージと違ってずいぶんと柔らかく、暖かい手。
「カオル殿、好きです!」
薫の返事はなかった。
二秒、五秒……三十秒。
誰もが皆、息を詰めて凍り付いたまま一同が見つめる中、
「カオル殿ダメでしょうか?」
哀しい声でエストが言う。
なおも薫は答えない。
「薫?」
祖父がちょん、と少年の肩をつついた。
ぐら。
少年の身体はそのまま椅子から、腰掛けた姿勢のまま落っこちる。
「……なんとまあ、情けない」
祖父がしみじみと溜息をついた。
城崎薫は、人生初の「向こうからの告白」に返事するコトも出来ず、気を失っていたのである。




