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一瞬の油断で攻撃を中断してしまったことで、ボンデージ美女……エストはくるりと一回転すると、猫科の野獣のように地面に着地する。
先ほど、校内での追跡と、その後の戦闘ですっかり野次馬が見上げている中だったので、彼女の下敷きになるものは出なかったが、一斉に野次馬が美女を中心として、さらに半径三メートル以上の距離を取る。
「くそっ」
短く呟いてエストは立ち上がり、乱れた赤いロングヘアをかき上げた。
あの銀髪の少女の蹴りの範囲を見誤ったのは、あの白い衣装の美女の言葉がそれほど彼女にとって衝撃的だったからだ。
結局それが決定的な失敗に結びついた。
「ミスったわ」
ぎりっと青に塗られた唇が噛み締められる。
考えてみればニファーリア王女と組んでエストの父と戦った……そして家の没落を招くことになった「英雄」は、彼女と同じヒト族で三十年近くも前の人物である。
あの場にいた少女は、どう見てもそんな年齢に見えない。
だとしたら「引っかけ」られたのだ、とエストは判断した。
「くそ、あの王女、ハーフエルフだからどうも……」
しかも二重の意味で。
「騎士」は武騎人と結ばれた最初の一回だけ、万能の強さを与えられる。
俗に「戦神の調律」と呼ばれる状態で、このときの「騎士」は例え同じ騎士同士であっても勝てない。
それ以後は当人の力で戦っていかねばならないが、馬鹿でもない限り、その状態の「騎士」に戦いを挑む者はいない。
「食えない連中ね、全く!」
切断された鞭を打ち捨て、網タイツに包まれたむっちりとした、しかし長い足が回れ右をして、美女は赤い髪を翻しながらその場を立ち去ろうとした。
人混みがわっと左右に分かれるが、彼女は気にしない。
そのまま小走りに門を目指そうとしてエストは再び大きく跳躍した。
完全に人の気配も殺気もなかったが、それでも右斜め前へ向かって飛んだだけでは足らず、目の前に迫ってきた校舎の外壁を蹴って、さらに後ろ……つまり薫のクラスの入っている校舎へ向かって跳び、さらにそこのベランダの手すりを蹴り飛ばすようにして向かいの校舎へ飛ぶ。
ベランダの床へ無様に転がりながら、エストは自分の判断の甘さを知った。
戦神は謀略もひとつの戦術として認めているが、こちらのミスを見逃してくれるほど甘い存在ではない。
だから、転がりながら背後に目がけ、残った一本の鞭を撃ち込んだ。
いつもの手応えも、外した時の無駄な力の張力も伝わってこなかった。
蛇のようにまっすぐに伸びていった鞭は、敵によって縦に両断されたのだ、と脳が判断する前にエストは床を蹴って、教室に飛び込んだ。
これも直感である。
校舎以外の場所へ飛べば、その途中で斬られる、と本能が囁いたのだ。
戦神は謀略を失敗したものを処断するとき、ことさら人の多い場所で行う。
ひと気のない方へ逃げた方が生き延びる確率は高かった。
一瞬遅れて床が微塵に吹き飛び、さらに飛び退いた彼女の両足の付け根ギリギリを、刃の風が上から下へと薙ぎ払う。
少しでも遅ければ、あるいは少しでも身体の中心がずれていたら、それだけで彼女の身体は鞭同様の運命を辿っていたに違いない。
恐ろしく冷たい感覚がエストの身体を貫いた。
ただの刃の感触ではなかった。
「戦神騎士」だ。
「戦神騎士」とその「剣」の感触だった。
背中から窓ガラスをぶち抜いて、エストはたまたま空いていた教室の中へと転がり込んだ。
無様に背中から落ちて、ごろごろと転がり、積み重ねられていた椅子と机を派手に吹っ飛ばし、壁にぶつかってようやく停まる。
光の人影もその後を追って降り立つ。
ローファーの靴底がフローリングに当たる硬い音がした。
「くそ……『戦神の調律』は厳しいわねえ」
毒づきながら、それでもエストは立ち上がった。
そこには、奇妙な剣を手にしたメイド姿の少女が立っていた。
剣を握る右腕は、肩まで板金鎧に覆われている。
「馬鹿の計略にのったアタシがマヌケだから、仕方がないけどさ」
その馬鹿の懐から出された金で、彼女とその一家は救われたのだから。
「……ったく、宮仕えは辛いねえ」
軽口を叩きながらも、エストは動かなかった。
それは無様な着地のせいによる打撲のため、ではなく、別の意味で「動けない」。
エストは自分が酷くマヌケでマズイ立場に追いやられたと悟った。
「剣」と契約した最初の戦闘においては「戦神騎士」は皆平等に神のごとき達人である。
だから、下手に動けばその瞬間に彼女の人生は終わる。
「だが、ここで終わってなるものか」
普段は滅多に出てこない、「戦神騎士」である出自の言葉が口をついた。
「私は戦神騎士だ。
死ぬのならば決闘の場で死ぬ」
それは同時に、没落した騎士の娘が、餓死者の出ない日はない、と言われる貧民街の片隅で生きてきたことによって育てられたしぶとさの矜持の表明でもあった。
だが、そんなエストの言葉とは関係なしに、城崎薫の身体が動いた。
するすると、こぼれた水が流れるように、まるでそれが当たり前のような動作で床を滑らかに移動しつつ右手の剣を振りかざす。
あまりに自然で、あまりに隙がなかった。
剣の切っ先が天井に向けて上がるのを、ただ、エストは眼球に映すしかない。
身動きするために筋肉を動かすタイミングを、彼女は失っていた。
あとは剣が落ちてエストはまっぷたつにされる……はずだった。
一瞬秒数に出来ないほどの微妙な瞬間、その切っ先が停まった。
さらに、一抱えもあるような大岩がメイド少女……城崎薫の背後、砕かれた窓からから飛び込んできた。
振り向きもせずに両断するメイド少女だが、岩は雪崩のように飛んでくる。
それでもメイド姿の少女は振り向きもしないで両断する。
あまりの高速の技に一瞬だけ、ゆっくりと岩が空中でバラバラになったようにさえ見えた。
切断された岩は次々とエストの背後にある教室の壁や入り口に突き刺さり、あるいは天井へと食い込んで落下する。
ついには、エストの前に天井が落ちた。
その瞬間、エストの身体が塵ひとつない長袖の腕に抱きかかえられ、恐ろしい勢いで後ろへと動いた。
入れ替わるように幾つかの丸い物体が投げ込まれ、床に当たった瞬間に破裂して猛烈な勢いで灰色の煙を吹き出す。
「!」
「頃合いでございます、エスト様」
振り向いたエストの前に、彼女とほぼ同年代ながら、無表情そのものの横顔があった。
胸元ほどの長さで切りそろえられた銀色の髪。
ダークグレーのスーツとサングラス姿がスレンダーな長身によく似合う男装の麗人。
「アドネ!」
思わず安堵の溜息をつきそうになった赤い髪の美女は、思いとどまって怒鳴った。
赤い髪のエストが「焔」ならば、この銀色の麗人は「氷」であった。
対照的なコンビである。
「遅い!」
そうしてこの女性は、彼女にとっては執事であり、「剣」でもある。
「お許しを」
間一髪、エストを救った無表情なスーツ姿の美女……アドネは慇懃な口調で謝罪の言葉を口にした。
「ついてくるな」と言ったのはエストのほうであるが、それを無視してあとをつけてきたことなのか、それとも救出が遅れたことなのかは判らない。
「危うく死ぬところだったじゃないか、このバカ!」
理不尽な叱責をエストが口にしてもアドネはただ「お許しを」と繰り返すだけである。
「まったく。
アタシの相棒兼執事殿は良くデキてるわ」
必死になって校舎の中を駆け抜け、塀を跳び越えて学校の外に出るまでの数秒に、半分は皮肉、半分は本気の賞賛をエストが口にしても、美女は何の反応も示さない。
そういう女であり、ふたりはそういう関係でもあった。




