56
完全に寝不足の状態で、薫はその日の朝を迎えていた。
幸か不幸か両親代わりの祖父母は留守で、しかも今日は土曜日、お休みであるが、シムトが来る以上のんびり朝寝坊、ということも出来ない。
「まあ、明日は日曜日だから、その時に眠っちゃえばいいか」
歯を磨きながらぼんやりとそんなことを言ってみたりする。
「元気がありませんね、騎士殿」
静かに、しかしあからさまな不機嫌さを感じさせる声でそう言ったのはシャルロットだ。
「失礼します」
「あ、はいはい」
と少年が退くと、洗面器にお湯を張り、銀髪の武騎人は、こちらは一片の疲労感もない顔で洗面台から出ていく。
説得されて銃を収めたとはいえ、「ややこしい誤解を生み出す原因」が薫のほうにあるとシャルロットが決めつけていることに変わりはない。
「……まったくもう」
どうして自分の周囲にいる活発系の女性はこうも「強い」のか。
溜息が出る薫であった。
ニファーリアは定時に起きはしたものの、眼鏡をかけたところですべての動きが停止し、寝床の上でずーっと左右に揺れている。
メトロノームのようであるが、つまりこれは彼女がまだ夢の世界から脳の半分が戻ってきていないという証拠。
「姫様、お顔を」
異世界から持ち込んだ専用の、足つきの銀の盆に洗面器と歯磨きの道具、そして片方の腕にはタオルをかけたシャルロットが入ってきても、今日はそちらを向いて「ああ、ありがとう」とも言わない。
「姫様、もう少ししゃっきりなさってください」
「……」
メトロノーム状態はまだ続いている。
「姫様!」
いささかキツい声で言うとようやくメトロノームの振幅が小さくなり、停止し、のろのろとニファーリアはシャルロットを向いた。
「もうお夕食ですか?」
「いえ、姫様、まだ朝です」
「ではまだ眠れますね」
「ご無体を申されますな、今日はシムト殿下との会合の日でございます!」
「ああ、あの『ぴざ』というお料理はおいしゅうございましたわねえ」
「姫様!
いい加減に目を覚ましてくださいませ!」
思わず声を荒げ、シャルロットは慌てて口をつぐんだ。
「と、とにかくお顔を」
本来はベッドの上に置くタイプの背の高い足つきの盆をニファーリアの前に置くと、いつもの習慣でハーフエルフの少女は鼻かけ眼鏡を外して傍らに置き、パシャパシャと顔を洗った。
途中で覚醒したらしく、顔を洗う動きがまともになる。
それでも洗面器から水が飛ばないのは王家のたしなみというやつだろう。
(やれやれ、ようやくいつもの姫様だ)
と内心溜息をつきながら、今日の自分が妙にささくれた気分なのに、シャルロットは気づかぬふりをしていた。
その理由は、決して寝不足ばかりではない。
昨日、どたばたとした気配に「すわ侵入者」と飛び出した彼女の前で、薫とニファーリアが見つめ合っていた。
いつもの短絡思考で「騎士様が姫様に何か不埒なことを」と思っただけではなく、妙に今回は怒りに勢いがついていた。
普段ならそんな状況でもニファーリアの「そんなことはありません、銃を収めなさい」で話は終わる。
あとは事情説明とこちらからの説教というのがパターンだというのに、今回は本気で撃ちそうな自分がいて、ニファーリアが咄嗟にしがみつかなければ本当に撃ってたかもしれない。
(何という愚かなことを)
銃を抜くのはともかく (薫が聞けば『それが一番の問題』なのだが)、主たるニファーリアの制止を聞かない、というのは臣下失格もいいところである。
咋夜のあの場面を見た瞬間、どうにもコレまでなかったことに、シャルロットはニファーリアに対して妙な怒りを覚えたのだ。
(いや、そんなはずはない……姫様を相手に感情のまま怒ることなど)
これまで、シャルロットはこの調停王女に対して大声を出したことがあっても、それはあくまでもニファーリアのことを思っての「激しい進言」の一種であって、決して「怒り」からではなかった。
それなのに、カオルと抱き合って「見えた」瞬間、頭の中で何かがぱあん、と弾けたようになりかけた。
(おかしい、本当に私はおかしい……一度、長時間瞑想をして己の心に整理をつけなければ)
残念ながら、今日はその暇はない。
彼女の姉、アドネを含めた調停王子、シムトの一行がこちらへ来るのだから。
ホテルの一室は、静寂な空気に満ちていた。
後で清掃員が入ると判っていても、やはりアドネは最後までここを管理する女執事としての役目にこだわり、室内には塵一つない。
「殿下……そろそろ」
アドネが促し、シムトはようやく我に返った。
たかが一年弱とはいえ、この風景とお別れというのは寂しい。
まして、この風景は揺るぎない兄との絆の象徴でもあったのだ。
ここを去る、ということは不安定な世界へ、自分ひとりで乗り出していくことでもある。
(いや)
シムトは軽く頭を振ってその考えを否定した。
踵を返す。
驚くほど小さなトランクをひとつ持っただけのアドネと、コート姿のエストが微笑んでいる。
(私は、まだひとりではない)
彼女たちがいてくれる幸運を、アドネは噛みしめながら言った。
「行こう」
「……」
ヴァリアルドは、彼らの仮の住居である教会の聖堂で、残された紙片を手に眉をひそめていた。
そこにはサーシャの筆跡で「しばらく散歩をし、ついでにシムト殿下のご様子を窺ってくる」とある。
ちょっと朝食を調達するために近くのコンビニエンスストアに行っている間に、相棒は消えていたのである。
別にサーシャが気まぐれなのは今に始まったことではない。
初めて引き合わされたときからそういう行動だったし、前もって計画されたことや、約束を破るような人間ではないので、ヴァリアルドはたまに注意こそすれ、あまり気にはとめていない。
だが、同時に彼は魔法騎士であり、今度の任務の監督役でもあった。
「……悪い癖が出ていますね、サーシャ」
呟いた。
彼らの主に対して、騎士たちはみな大なり小なり心酔している者たちで構成されているが、中でもサーシャは熱狂的な、という部類に入る。
派手に騒ぐようなタイプではないが、それだけに「何をしでかすか判らない」所がある。
本来ならこの任務はシムトが逃げようが逃げまいが、とにかく彼らの世界に戻ってこないようにしてしまえばいい。
費用の回収も「判断に任せる」というような体裁だけの話なのだが、ヴァリアルドが監督役をせねばならなくなったのはサーシャがそれに立候補したためである。
ヴァリアルドはある結論に達した。
「シムト殿下を弑逆する気ですか」
溜息が出た。
同時にシムトが何を考えているのかも理解する。
「どうしてこうも、命を無駄にしたがるのか」
呟いて、ヴァリアルドはマントを翻し、外へ出た。
「とにかく、止めねばなりません」
チャイムの音が鳴り、ようやく引っ張り出した黒い背広に着替えたばかりの薫はあたふたと玄関に向かった。
すでに玄関にはシャルロットとニファーリアが到着している。
「カオル様、それがこの世界での礼服ですの?」
「うん、まあね」
母親の葬儀の時に作ったものだから入るかどうか、と思っていたが痩せた分だけ適度にフィットしてくれたことを、内心薫は安堵した。
「えーと、この場合、こっちから開けるんだっけ?」
「私が、やります」
硬い表情でシャルロットが言った。
「姫様と騎士殿は後ろにお下がりください」
シャルロットが引き戸を開けた。
三人の美女がそこにいた。
この前の国交決闘以来、そして昼日中は初めて会う顔だ。
「ようこそ、シムト殿下」
「あ、あの……よ、ようこそ」
ニファーリアに合わせて薫もたどたどしく頭を下げる。
「ニファーリア殿、本日はこちらの不躾なお願いを聞き入れていただき、誠にありがたく」
そう言ってシムトが礼を述べた。
エストは妙に居心地が悪そうで、あちこちを見ている。
アドネだけが以前と変わらず、平然としていた。
「では、まずお庭へお回りください」
「はい」
一行はぞろぞろと玄関の脇から庭へ回った。
「ニファーリア殿下、よろしいか?」
と問う。
「はい」
静かにニファーリアは頷いた。
「では」
「では」
と、この戦いの依頼者である王族ふたりは己の左の人さし指に触れ、何事かを唱えた。
うっすらとした黄金の光が集束し、それまで存在していなかった金色の大きな戦神の指輪がそれぞれの人さし指に現れる。
「我ら。
契約と闘争の神、ヴァルチルードに誓わん!」
ふたりは息を合わせたかのように同じ言語で同じ意味を唱えた。
「是より国の威信と利益をかけ、国交の戦を騎士と剣で行わん!
神よ、神々よ、ご照覧あれ!」
そう言って指輪を引き抜き中空に高々と放り投げる。
二つの指輪はくるくると夜空に舞い、出現したのと同じ輝きとなって弾けた。
指輪二個の起こした波紋のごとく光は広がり、空に散った。
夜空に散った光に呼び出されたかのように、薫たちを中心にした半径十数メートル、つまりこの家の庭から会議場所である応接間まで、光の線が地面に走る。
国交決闘における戦場、そこには関係者である王族と武騎人、そして騎士の他は何人たりとも立ち入ることが出来ない世界。
シムトとニファーリアの会合は、その中で行われるのだ。
〈よろしい、我が世界の子等よ〉
どこからともなく、男女どちらとも判らない威厳に満ちた「声」が響いた。
四度目だというのに、思わず薫の脚が震えそうになった。
〈汝らの宣誓を我ら、聞き届けん〉
同時に、実体の存在しない、平たくした砂時針を捻ったようなモノが空中に現れる。
〈戦いの用意をせよ〉
こっくりと薫とエストは頷く。
それぞれの武騎人が傍らに立ち、四つの唇がほぼ同時に合わさった。
シャルロットの唇は柔らかい。
(そういえば 、あのときは前歯が軽く当たって慌てたっけ)
その時とは違う優しいキスの中、少年はふとそんなことを思う。
(でも、変な話だよな、シャルロットとはキスしてるけど向こうもこっちも何もないのに、ファリィは逆で)
薫の瞳に、シャルロットが一足飛びに光へ変わるのが映る。
銀髪の少女は水銀のようになり、そのまま右腕全体にまとわりつき、姿形を変えていく。
同時に「契約」によって少年の頭の中に刻まれ、普段は現れない「戦神騎士」として戦闘に関わる知識、能力が正確に浮かび上がってくる。
普段は滅多に感じない「大丈夫」という自信が背筋を伸ばす。
手にした剣は意外なことに、重くはならなかった。
(あ……今回、大丈夫かな?)
と思った瞬間ずん、やっぱり重くなる。
「ととと」
よろけそうになりながらも、薫は何とかシャルロットを肩に担いだ。
アドネの方はきちんと剣になってエストの手の中にある。
決闘の準備したからといって、やる必要は必ずしもない、という国交決闘のルールの裏側を突いたのはニファーリアの発想だったが、どうやらうまくいきそうだ。
これなら、外敵……つまり予想されるのはあのサーシャとヴァリアルドだ……も手出しが出来ない。
いかに魔法騎士とはいえ、神に逆らうほどの力はない。
まして、ヴァリアルドは使者の役を司るほどの人物、となればなおさらだろう。
「さて、これでよし、あとは早速お話し合いの方を」
「はい、ニファーリア様」
すかさずエストが大剣を地面に刺し、かがみ込んでシムトの靴を脱がすと、左右の足の裏を手で支えるようにして家にあげた。
(うわ……凄いなあ)
まさに「仕える者」の鑑のような流れるがごとき一連の動きに、薫が目を丸くする。
少年は、騎士とはどうやら戦うだけではなく本当に「仕える者」なのだと初めて目の当たりにしたのだった。
「お前はここで待て」
シムトが足を止め、振り向いて言った。
「はい」
赤毛の女騎士が頭を垂れるのへ、
「お気遣いなさらなくても……」
とニファーリアが気遣いを見せた。
「いえ、我らは命を預ける身、騎士と武騎人を伴ってお願いに上がるのは礼に反します」
「では、私もそういたしましょう……カオル様、シャルロット、よろしいですか?」
「は、はい」
「うん」
ふたりが頷くとニファーリアはゆっくりと微笑み、シムトを誘って応接室へと静かに歩き始めた。
それを薫は見送る。
ふたりの姿が縁側から廊下の角を曲がって応接間へ消えたとき、ようやく薫は息を吐くことが出来た。
(やっぱり王族なんだなあ)
そんな当たり前のことを考えてしまう。
ふたり並ぶと、シムトとニファーリアの超然とした空気はやっぱり「王」という文字を背中にしょった一族の重みを持つものだ。
感慨にふける薫へ、
「よ、よう、その……ぼ、坊や、元気にしてたかい?」
エストがぎこちなく声をかけた。
「あ、はい……えーと、エストさん、ですよね?
そちらもお元気そうで、 その……なにより」
「ま、ま、まあ、色々あったけど、身体だけはその、け、健康だったしね」
(ああ、この人も戸惑ってるんだろうなあ)
何となく薫は同情した……よもや、相手が自分の顔をみてそんな状況になっているとは思いもしない。
「え、ま、まあそれは……良かった」
「あ、ああそうさね、人間か、からだが資本、だからねえ」
などと空々しいというか、互いにどう距離を取っていいのか判らない笑い声がふたりの口から出た。
シャルロットが人の姿をしていたら、薫の袖を引っ張って強制的に物陰へ引き込んで説教したかもしれない。
「さ、さあ、あたしたちは外の警護だ……な、中は、頼むよ」
そう言ってエストは庭の中央に立ち、剣を地面に刺すとこじりの部分に両手を置いた。
コート姿だが、裾が翻って太腿が露出する。
クラスメイトたちにはない生々しい「女」の太腿に慌てて薫は目をそらし、
「じゃ、じゃあお願いいたします」
と客間の襖の前に立つ。




