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「ごめんなさい、カオル様……ごめんなさい……」
「え?
あ、あいえ?」
夜中にトイレに起きて、用を足して出た途端に名前を呼ばれたあたりまではまだ薫はぼんやりと眠りの余韻の中にいた。
だからこそ小さな声で呼ばれたとたんに返事をしてしまったわけであるが。
まさか、いきなりニファーリアに抱きつかれるとは思わなかった。
柔らかさと香水のかすかな甘い匂い、そして柔らかな双球の胸板でつぶれる感触。
布越しに伝わるぬくもり。
その瞬間に薫の脊髄を電流が駆け上り、半分夢うつつから一気に覚醒させた。
「ふぁ、ふぁ、ふぁ……」
自分の声が裏返るのを通り越してひっくり返っているのを聞きながら、どうしていいのか判らず、少年はパニックに陥った。
身動きも出来ず、かといってこのままではまずいという警報も脳内に鳴り響き、でもこのままでいいじゃんという何かの囁きも同じ音量で聞こえてくる。
結果、少年の身体は硬直した。
「ごめんなさい、ごめんなさい……私のわがままで、あなたを……あなたを……」
「ち、ちがうよ、僕は好きで……いや、あの、こ、この場合の好きは君のことじゃなくて、いやでも好きなことは一緒で」
唯一脳と直結してしまった口だけが妙な言葉を思考の混乱のままに喋る。
「好きは好きで好きだからいいとして、君が謝るコトじゃなくて、むしろこの前いきなり抱きついたりした僕のほうがあのそのつまりあれででもそれはそのアレコレ考えてもまたえーと」
混乱しているうちに、少年の足がもつれ、ふたりは廊下に倒れ込んだ。
「わ!」
「きゃっ!」
何とかニファーリアをかばった結果、少年は彼女の下敷きになる。
頭を打たずに済んだのは僥倖だっと。
ニファーリアは薫の胸に顔を預ける形になる。
「だ、大丈夫?」
「い、え、あの、カオル様こそ」
「ま、まあ僕は大丈夫……」
頭を上げると、ちょうどニファーリアの胸元を覗き込む形になる。
夜目に白く鮮やかな、ふたつの大きくて柔らかいふくらみが、乱れたガウンの襟元から覗く。
「!」
慌てて目をそらした。
気づいて、ニファーリアも慌ててガウンの胸元を合わせて薫の上から下りる。
なんとも気まずくも気恥ずかしい沈黙が落ちた。
「あの」「あの」
互いに何か言おうとしてかち合い、顔を見合わせてしまってまた慌てて互いに横を向く。
「か、カオル様、おけがは?」
「だ、大丈夫みたい。
ほ、ほらファリイは軽いからさ」
「あ、そうですか……ご、ご迷惑ではありませんでしたか?」
「や、柔らかくってき、気持ちよかった……あ」
「わ、わたくしもカオル様のお体が暖かくて……あ」
また沈黙。
(まずいなあ)
薫は内心溜息をついた。
ニファーリアは胸元を合わせ、自分は慌てて後ろを向いている。
お互いの体温の記憶が、お互いの顔を赤く染めていた。
(もしもこんな所をシャルロットにでも……)
じゃき。
どこかで聞いたような音がした。
撃鉄が起こされ、輸胴が連動して回転する音。
「か、カオル殿……ひ、姫様になにを」
かきこき、と自分の首がなるのを聞きながら、少年は声のした方角へ顔を向けた
パジャマ姿のシャルロットが、両手で銃を構えている。
「というか、姫様と何を……」
「しゃ、シャルロット?」
「シャルロット、あの、これには事情が」
「ふ、不潔です騎士殿っ!」
「わーっ、撃つなああっ!」
「シャルロット、おやめなさい」
「止めてくださいますな姫様、第一姫様がお優しすぎるから男という生き物が……」
「いや、と、とにかく話し合おうよ」
「話して判るなら武器なぞいらんわー!」
「いや、抜いてから言う言葉じゃないでしょ!」
「そうだ、もう銃を抜いているのだから今度こそ撃つ!
騎士殿の足の間にある後顧の憂いを断つ!」
「勝手にいうなー!」
「とにかく、すべての元凶は今夜……あ、な、何をなさいます姫様!
いや、腕を取られては撃てませぬ!」
「カオル様、シャルロットを押さえてますからどうぞお逃げください!」
「姫様、お離しください、この」
何とか烈火のごとく怒り狂ったシャルロットを説得し、銃を納めさせたのは夜も明けそうになる午前五時のことであった。
「本当に良いのか、お前たち」
シムトは複雑な表情でエスト達を見やった。
ホテルのシムトたちの部屋から洗いざらいの荷物が運び出され、机や椅子、本棚などの調度品以外は何もなくなっている。
元々長居するつもりはなかったので、たいした荷物も置いてはいないから、シムトたち以外の人間にとっては「いつもの部屋」にしか見えない微妙な変化だ。
今日の夕方、シムトは今や最後の家臣となったふたりを呼び出し、「召し放ち」言い渡した。
つまり、解雇。
自由の身というわけである。
「もう、ここに私の居場所はない、国に帰ることも出来ない、また私はソグディアナに亡命するだけではない、形だけとはいえ、謀反人になるのだ……バルートがすべてを持ち逃げした以上、お前たちを養う余裕はない。
お前たちは幸い戦神騎士と武騎人、うまくやれば故国に帰ることもなろう」
それがシムトの言い分だった。
ところが、ふたりはそろって首を横に振った。
荷物はいったん郊外の貸倉庫に保管しようと言い出したのはエストで、業者を素早く手配し、数時間ですべての荷造りと搬出を完了させたのはアドネだ。
「我らは、どこまでも殿下の家臣でございます」
いつもの姐御口調はおさめ、丁寧な宮廷の物腰でエストは微笑む。
アドネもその横でお茶を給仕しながら同様に。
「第一、今の殿下には財がない以上、家臣がこれを補わねばなりません」
「お前たち……持っているのか?」
確かに彼女たちに給金は支払われているが、それがどういうシステムになっているのかまではさすがのシムトも知らない……元々王族が金のことに細かいはずはなかった。
「まあ、大した額ではありませんが、贅沢さえしなければ半年かそこいらは殿下をお養いすることぐらいは」
エストが笑う。
この辺は貧民街の暮らしが長かったせいもある。
そういう意味ではあのこすっからいバルートもやはり裕福な貴族の子弟、「必要経費」やらなにやらとそれらしい書類さえ作って提出すれば、ぶつくさ言いながらも金庫は開けてくれたし、毎月の給金もきちんと支払ってくれていた。
でなければ、あの屋根裏の縫いぐるみの量が維持できるはずはない。
ちなみに、あの縫いぐるみはどさくさに紛れて、他の荷物とは違う「安全な」場所へ送り込まれている。
「しかし、家臣に養われるとは……」
そこは王族、恥じらいがあるらしく、シムトは難色を示したが、
「何を仰いますか、殿下」
それまで黙っていたアドネが言い切った。
「私はエスト様の剣、エスト様が仕えるのだと仰れば私にとっても殿下は主のままでございます」
「そして私めは殿下を終の主と見定めております」
エストが言葉の最後を引き取った。
「報いてはやれぬぞ、確実に」
「すでに我が家族には十分すぎるほどの温情をいただきました。
母も弟、妹たちも千回生まれ変わっても返せぬほどの」
エストとアドネは粛々と片膝をつき頭を垂れた。
「我ら、命つきるとも殿下の騎士にして剣、なにとぞこのままお仕えすることをお許しください」
たとえ大仰な、芝居がかった言葉でも、それが心底から発せられれば人の心を動かす。
またそうすることでしか本心をさらけ出す気恥ずかしさを誤魔化せないときが人にはあるのだ。
「すまぬ」
そう言って、ただ、シムトは目を閉じた。
切れ長の目の端に光る物が輝く。
真夜中も過ぎたというのに、斎京家の台所は大騒ぎになっていた。
本来料理店用の大火力バーナーが炎を吹き上げ、中華鍋が舞う。
豆板醤の焦げる香ばしい匂いが湯気の中にはじける中、料理人はひと品を仕上げていったんガスの炎を止めた。
「……しかし、お前現金ねえ」
ため息つきつつ、楓はフライパンの中身を皿の上に山盛りに流し込む。
今度は麻婆豆腐だ。
ちらりと後ろを振り向くと、そこにはちび人形がはぐはぐと楓の作ったチャーハンの山を平らげつつある。
「しかし不思議な子よねえ」
楓の母はニコニコ笑いながら二頭身のヴァルキリーの頭を撫で、頬にはねた料理の汁などを拭いてやったりしている。
「可愛いから私は全然OKだけど」
「まんま、おかーり!」
おかわり、と言いたいのが舌っ足らずになっていてそうとしか聞こえない言い方で、元気よくチビのヴァルキリーは空っぽになった大皿を差し出し、危うく手に持った皿の重みでつんのめりそうになる。
そういえば、体積だけで言っても自分の数倍の量の食事をしながら、いっこうにこのチビ人形は同じ大きさのままであった。
もっとも、拾ったばかりの頃と違って、妙に鎧の艶が増していたし、ベコベコになっていた淵の部分や、すり切れていた服の部分が綺麗になっているのだが、現在進行形の大食いという状況に比べれば些細な変化で、楓もその母も気づいていない。
「あらら、楓」
それを支えてやりながら母が言うのへ、
「あー、わかったわかった、わかったからほらほら」
そう言って、楓は麻婆豆腐の入った皿と空になった皿を入れ替えてやった。
「麻婆丼にする暇もありゃしない」
とりあえず食事をさせれば泣き止むか、と家に連れ込んだこの二頭身、家の食パンを手始めに次々ともの凄い勢いで食事を始め、何となく楓は面白くなって、つい得意の中華料理を振る舞い始めたのだが、大きな中華フライパンいっぱいのチャーハンやら青椒肉絲やらを次々平らげる有様だ。
「なんか変なの拾っちゃったなあ」
溜息をつきながら、楓は次に鶏肉の甘酢あんかけを作ろうと冷蔵庫の扉を開けた。
「ま、なんかのネタにはなりそうだからいいか」




