54
「わう」
夜の散歩に連れて行ってやろうと楓が犬小屋の前に行くと、愛犬はその中に頭を突っ込み、何かを引っ張り出してきた。
縫いぐるみらしい。
「なんかまた変なのくわえてきたわね、メケメケ」
溜息をつきながら楓は愛犬の頭をなでて、「ほら離してごらん」と変な縫いぐるみを口から外してやった。
「可愛いけど、薄汚れた人形ねえ」
目を閉じているその二頭身の人形は、北欧神話の戦乙女をモチーフにしたのか、バイザー状の兜のこめかみあたりや鎧の背中からかわいらしい翼が生えている。
どちらもかなり凸凹しているのは、ここに来るまで蹴ったり踏まれたりでもしたのだろうか。
「まあ、捨てるわけにも行かないわね」
ちょっときなくさい顔になりながら、楓は溜息をついた。
実を言うとこういう「うち捨てられたもの」をなかなかその場で捨てたり出来ないたちなのである。
いつもの薫に対する冷酷非情な態度からは想像もつかないが。
「ウチで洗ってあげますか……鎧部分がやっかいだけど、その辺の補修とかはお兄ちゃんに……?」
と、手に持った楓は妙な違和感に首を傾げた。
この人形、妙に暖かいし、中が重いことに気づいたのだ。
縫いぐるみの軽さではないが、柔らかいソフトビニール系の樹脂の重みでもない。
しかも、もぞり、と動いて、大きな目がぱっちりと開く。
「あぅ……」
赤ん坊のような声が出た。
じわぁ……と青い目が潤む。
「わ」
手に持ったものが生きていた、というよりも「泣かれる」現実のほうが楓を慌てさせる。
「ま、まって!」
「ま……」
ちび人形の口がわなわなと震える。
間違いなく、赤ん坊が泣き叫ぶ前兆だった。
「た、タンマタンマ!」
楓の制止もむなしく。
「マンマーッ!」
と二頭身人形はわんわん泣き始めた。
「結局、受け入れか」
ちょっとした「会議」が終わって、縁側に腰を下ろし、何となく夜空を見上げながらシャルロットは呟いた。
薫の祖父母がいない家はやたら静かで広く思える。
ニファーリアはもう床についていた。
別に不満はなかった。
もともと彼女に政治の世界は興味がないところだ。
単に「自分の姉がいる」ということでニファーリアが判断を誤るのが怖かっただけで。
「おかしなことになったものだ」
昨日の敵は今日の友、という言葉がこの世界にはあるし、彼女の国にも似た言葉がある。
「あ、ここにいたのシャルロット」
振り向くと薫が立っていた。
「夜食作るんだけど、どうかな?」
「ああ……そうだな、また『かっぷらーめん』か?」
心持ち目を輝かせているシャルロットに、薫は苦笑しながら、
「今日は冷凍の鍋うどんがあるからそれで」
「ふむ、それはまだ食べたことがないな……よかろう」
と腰を上げた。
「これから、どうなるのかな?」
「判らぬな。
何を目的にシムト殿下たちが亡命してくるのかがまず不明だし、それに本国がどう判断を下すのか……ひょっとしたら『本国判断で拒絶』ということになるかもしれん……まあ、ニファーリア様がそんなことはさせないだろうが」
「大丈夫かな?」
調停王女にあまり権力というものはないと知っているので薫は心配そうだ。
「大丈夫だ……今回の戦争は我々がふっかける形になった、と言っただろう?」
「うん」
「つまり、外交で我が国のお役人は失敗し、我らはその尻ぬぐいをしておるのだ……だから外務大臣は今回、いつも以上に我らに強い態度に出られない」
「……ああ!」
なるほどこれが「貸し借り」の大人な使い方なのだ、と理解して、薫の顔が感心したものになる。
「姫様はお優しいだけではなく、賢く、強いお方だ。
だから本国の奴らも滅多なことは言えぬ」
家臣としての誇りを笑みに変えたシャルロットを見て、薫がクスツと微笑んだ。
「どうした?
私はおかしいことを言った覚えはないが?」
「いや……本当にシャルロットはファリイが好きなんだなあ、って」
「あたりまえだ!
私が生涯かけてお仕えすると決めたお人だ!」
「じゃ、僕は?」
少年にしてみれば邪気のない、単なる人間関係とこの国交決闘にからんだ役割の確認でしかなかったのだが、今朝が今朝の話である。
「い、いやあの、その、き、騎士殿は……その……」
「まあ、クラスメイトというか、同輩?
だっけそんな感じ?」
「いや、ま、まあ……そ、そんな感じだ、すまない」
ぺこり、とシャルロットは自分でも判らぬうちに後ろを向いていた。
夜の窓ガラスに映る顔が真っ赤になっている。
どうにも頭が混乱していた。
「いや、別に謝ることじゃないよ。
僕はいわば現地雇いの身分だし」
あはは、と薫は頭を掻いた。
薫の言うことは当たり前のことである、と自分では認識しているのだが、「どっちが大事?」という風にも聞こえ、その瞬間からどうもおかしい。
(私は、馬鹿か?)
「でも、これからもよろしく」
にっこり笑って薫は「じゃ、先に台所に行ってるよ」と踵を返した。
その足音が去って数秒。
ようやくシャルロットは振り向くことが出来た。
なぜか溜息が、口から漏れる。
「……私は、どうしたというのだ?」
床に入ったからといって、即座に眠れるわけではない。
いつもは夕食を取ったあと、何もしない時間が三十分を超えると自動的に眠ってしまうようなハーフエルフの王女でも、そうではない時はあるのだ。
何度も寝返りを打ちながら、ニファーリアは暗い天井を見つめる。
せめて薫の祖父母がいてくれれば、少しは楽かもしれない。
(いいえ、何を甘えているのですか、私は)
ぶるぶると頭を振る。
決断は下した。
後悔はしていない。
だが「引っかかり」がどうしても残る。
自分の決断は、下手をすれば……いや、だいぶ高い確率で、薫とシャルロットを再び国交決闘に引き戻すことになる。
ソグディアナは小さな国だ。
かろうじて大国にもみつぶされたりしなかったのは国交決闘によるものが大きい。
だから今までニファーリアは「負けない」ように頑張ってきた。
それは歴代の戦神騎士たちも同じだ。
(でも、それがいけなかったのかもしれませんわね)
今回の国交決闘にしても、外務大臣が彼女のことを過信したところから発生した事態と言えなくもない。
だが、負けるわけにも行かない。
負ければ、その債務を真っ先に背負うのは国の民たちだ。
そして「無敗の調停王女」はますます外交を高飛車にさせる。
「はあ」
溜息も出ようというものだ。
今度のこともニファーリア自身からすれば「助けを求めに来た人を見捨てるわけにはいかない」からこその受け入れだが、おそらく本国の大臣たちはそうは受け止めない。
外交上の「手駒」が転がり込んできたと判断するだろう。
使えれば利用する、そうでなければ「捨てる」。
(シムト殿下をそうさせない方法を考えなければなりませんんわね)
そして、出来れば……薫をこれ以上戦いに巻き込まないで済む方法を。
「……」
これまで……たとえ薫の母でさえ……異世界の人間を戦神騎士にすることに、申し訳なさはあったにせよ後悔や罪悪感を覚えたことはなかった。
ニファーリアは初めてそのふたつが胸を重く満たしていくのを感じている。
隣の布団へシャルロットが入ってきて、「姫様、お休みなさい」とこちらを気遣って小さな声で呼びかけるのを聞いても、しばらくの間、ニファーリアは身じろぎもせずに夜の中にじっとしていたが、やがて、胸の中のもやもやに耐えきれなくなって身を起こした。
シャルロットの寝息を確認して、起こさないようにそっと襖を開けて外に出る。
縁側に出ると、夜空の月が青白いほどに輝いていた。
満月にやや足りない。
溜息が出た。
自分たちの世界でも、この異世界でも、月だけは変わらずに白く輝いてそこにある。
天空から、太陽のように熱と光を伴うのではなく、そっと光る月に、ニファーリアは妙な親近感を覚えた。
(僭越……ですわね)
彼女の世界にとって、月は戦神の領分であり、娘たる戦乙女の長女が守る天空の砦とも解釈されている。
本当かどうかは神々は答えないし、ニファーリアも知ろうとは思わない。
曖昧でいい場所や言い伝えというのは、世の中にあって然るべきだ、と。
「カオル、様」
ぽつん、と呟く。
「はい」
返事は裏からだった。
「え?」
振り向く、ちょうどトイレから出てきたばかりの薫がきょとんとした顔で立っている。
「ファリイ、何かあったの?」
寝入りばなに起きてしまったのか、少年はまだ少し夢見心地のようだ。
あどけなく、幼く本人には不満だろうが、ひどく可愛らしく見える。
「あ、はい、あの、いえ……あの……あの」
薫の顔を見た瞬間、ニファーリアは、生まれて初めてのひどい動揺の中に放り出された。
こんな少年に自分が何を要求したのか、という羞恥と、その少年に抱きしめられた記憶、そしてそれが何を意味するのかという事実。
そして、完全に今までの人生で「王女」という役割のために封殺してきた、自分の中にある「女」の部分。
あのときのように、いや、もっと激しく心臓が脈打ち、顔が赤くなる。
少年が愛おしかった。
「あなたのために」と戦い、抱きしめてくれた人。
理不尽な運命と、自分たちを受け入れてくれた優しい人。
こんなに幼くて、こんなに華奢で……かつて彼女の親友でいてくれたその母よりも。
そして、何も知らないのに、自分を好きになってくれた。
胸が詰まった。
でも、私はこの人と一緒に人生を終えることは出来ない。
でも、でも、でも……。
気がつくと、ニファーリアは薫に抱きついていた。
「え……?」
少年の身体が硬直する。
自分と同じぐらい華奢で、でもしっかりと男性らしさもある身体。
人の身体のぬくもり……百年以上、彼女が避けてきたもの。
それが、たまらなく嬉しく、心地よく……哀しい。
「ごめんなさい、カオル様……ごめんなさい……」




