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足音が遠くへ去り、溜息をついてサーシャはベンチに腰を下ろした。
食事の後の眠気が、疲労と傷によって倍になり心に襲ってくる。
このままいぎたなく眠ってしまいたかったが、そうはいかない。
彼女(今現在のところ)は騎士なのだから。
せめて身を隠さなければならなかった。
「しかしいいやつだったな」
呟く。
騎士道精神とか、そういうもの以前に、根っから人がよいのだろう。
戦神騎士にならなかったら、きっとよい市民として生きていったに違いない。
(だが……いずれ、戦うことになる)
それは、彼女の主にとって不可避のことであり、同時に彼女にとっても不可避の未来だ。
(戦いたくない相手、というのもいるものだな)
仮面の中でサーシャが微笑んだのとタイミングを合わせたかのように転移魔法の波動が伝わってきた。
「ここでしたか」
空間と空間がつながったときの軽い衝撃で起こる風を巻きながら、ヴァリアルドが中天からゆっくりと下りてくるのがわかった。
「よかった……あなたの転移魔法の痕跡を追うのは少し骨が折れましたよ……で、怪我は?」
「たいしたことはないよ」
安堵しながら、サーシャは再び立ち上がった。
「ただ、魔法は明日の朝まで使えない」
「大丈夫、私はまだ多少の余裕があります」
「さすがだ」
「あなたが相手のほとんどの攻撃を受けてくださいましたからね」
いたわるような微笑みの気配。
サーシャの主に仕える魔法騎士の中で、もっとも人格者と言われているだけのことはある、とサーシャは感服に近いものを感じた。
「とりあえず今夜のところはかりそめの宿で。
シムト王子の訪問は明日にしましょう……いささかおつらいとは思いますが、急ぎませんとまた戦乙女が帰ってきますからね」
「?」
「ちょっと遠くへ飛んでいったようです」
「ヴァリアルド殿、あなたが?」
「いいえ、この世界の力ですよ」
「信じられぬ」
「神無き世界ですからね」
シムトがようやく情報を掴むことが出来たのは、エストたちが帰ってくる直前、深夜近くになってのことだ。
個人的に面識のある、カスティア王国の調停王女から、「お別れのご挨拶」の電話が来たのである。
「……それは、本当のことですか、メルウェ様」
『ええ……やはり、シムト様はご存じではなかったのですね』
溜息混じりに、見事な水色の髪で有名な調停王女は言った。
彼女の国以外の調停王子、王女は挨拶もなく。
慌ただしく自国のある元の世界に帰ったが、この王女だけは「個人的な好意」から、シムトにわざわざ「挨拶」をよこしたのだ。
『タイハンは三日前、ラシューム・タイハン二世を名乗るものが起こした内乱によって王城が占拠されたのです。
皇帝陛下は人民の前で……首級を奪われ』
「メルウェ様、あ、兄は……ダリアム第三王子の消息は?」
数秒の、しかしシムトを絶望の淵へ追い落とすには十分な時間の沈黙。
『ダリアム様は……近衛を率いて戦い、帝都の門前で壮絶な討ち死にをなされた……と』
「!」
受話器を握ったシムトの手が凍り付いた。
『……他の王族の方々も、ことごとくとらえられ、女子供は幽閉、男たちはすべて断頭台へ……貴族もほとんどが処分……』
その後に続いた言葉は、シムトにとって意味がなかつた。
「シムト様、よろしければ、我が国にいらっしゃるおつもりはありませんこと?』
心底からの気遣いで王女は言った。
『もう、このままお国に帰ることは……』
「し、失礼いたします」
だが、その言葉の意味を察するだけの余裕をシムトは持っていなかった。
受話器を置いたとたん、手がガタガタと震え始めた。
両膝から急に力が抜け、シムトは紫檀の机に上半身をのせるようにして崩れた。
「あ……」
かろうじて肘と膝を机と床について無様に頭を打ち付けることは避けられたものの、シムトは呆然とした表情のまま、ゆっくりと頬を紫檀の机、その天板に押し当てた。
見開かれたままの目から、涙があふれる。
「あにうえ」
かすれた声がひとことだけ、唇から漏れる。
そのまま、嗚咽をあげることさえ出来ずに、シムトは身体を震わせた。
呆然と、バルートは天井を見上げた。
あちこちに電話をかけ、何が起こりつつあるのかを調べていた彼にとって当然、表向きは主であるシムトの電話も「情報収集先」として盗聴対象にあった。
不安感は、この軽薄な二枚目にもあった。
だがそれは天変地異などの「世界的な災難」であり、よもやタイハンそのものが文字通りひっくり返る騒ぎになるなど、思いもよらなかった。
なるほど、これだけの騒ぎなら、どの国もわざわざ知らせに来るはずがない。
遠く離れた異世界ならば、他の国の人間なら知っていて当たり前、自分たちは知らなくて当たり前だ。
この青年貴族にとってもやはり、タイハンは大国であり、安定した国であり、皇帝は確かに好色の変態かもしれなかったが、その政治、経済のシステムは「誰が上に立とうがきちんと作動する」魔法の機械としての役割をきちんと果たしていたはずなのだ。
それが、この世から消え去ったという。
いや、国の形も、国民もまだ、その場所に存在する。
消え去ったのはタイハンという国をまとめ、動かしていたあらゆるシステムと、それに関わる人員だった。
同時にそれこそがバルートにとっての「世界」。
知らせは彼にとっての「世界」が「終わった」事実を知らせてきた。
頭の中が、シムトとは違う意味で真っ白になる。
行き場が、どころか帰る場所が根こそぎ消え去ってしまったのだ。
後ろ盾も、地位も。
血族さえも、この様子では生きているかどうかは怪しい。
「……嘘だろ?」
ぽつん、と軽薄そのものの二枚目顔を、無機物レベルまで弛緩させて、バルートは呟いた。




