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この世界に来て驚くことは多々あるが、中でも驚きなのは風呂が狭いのにちゃんと水を張った浴槽があることだ。
ニファーリアの世界において、庶民の「風呂」とはすなわち蒸し風呂のことで、浴槽に温かいお湯を満たし、その中に入ることが出来るのは王侯貴族の中でもかなり高い地位の者にのみ許された賛沢だ。
ニファーリアはぎりぎりその端っこに乗っかっているが、それでも広大な風呂に、薔薇の花びらを浮かべ、数十人の侍女に……というわけにはいかない。
だが、それでも庶民からみれば驚くほどの贅沢さである。
それが、ここでは普通のことだ。
薫の家は確かに恵まれているがそれで富豪と呼ばれるほど豊かで余裕があるわけではない。
ささやかな贅沢……というほど気負ったものではなく「ある程度の余裕が出来たら当然の設備」でしかないのが凄いと思う。
彼女のいる世界でそれに等しいものといえば、今のところ庶民レベルでは水道がそれにあたる。
以前、薫の母である香織からその話は聞かされていたが、現実に目の前にするとやはり驚く。
しかもお湯はここばかりではなく、台所でも蛇口をひねりさえすれば出てくる、ありふれたものに過ぎない。
だが、それが新鮮な驚きだったのはつかの間で、今のニファーリアは少しでも考え事をすると、ある問題が胸に引っかかって仕方がない。
問題というのはその薫自身に関することだ。
今から一週間少し前。
ニファーリアは少年に抱きしめられ「好きだ」と告白された。
いや、正式にそう言われたわけではないが「あなたのために戦う」と相手を抱きしめて告げられればそれはもう告白も同然だろう。
驚きはあったが、不快感はなかった。
そして、薫は二度目の国交決闘に勝った。
それまで散々にボロボロにされ、叩きのめされ、傷つけられた末に。
これまでの二百年の人生で、そういう騎士たちをニファーリアは何人も見てきたが、心が痛むのに慣れることはない。
出来るものならば、自分が背負いたいと思う。
だが、今度は違う。
別の意味で心が痛い。
初めてではなかった。
最初の国交決闘の時の騎士。
名前も、顔も、忘れようと努力して、ようやく思い出さないようになったというのに。
真っ赤な、胸の情熱そのままの髪をなびかせ、「あなたのために剣を振るうのです」と。
いつもは無表情なくせに、たまに見せる笑顔は子供のようで。
遠い、ヒト族にとってはそれこそ夢のように遠い時代の、それは記憶。
あの頃の世界は、まだニファーリアにとっては広く、輝いていた。
そのヒト族の死が、彼女を大人にした。
そして今。
(私はどうすればよいのでしょう?)
百数十年ぶりに自分をまっすぐに見る熱い目を見た。
思いは純粋で、まっすぐで。
時間の重みを知らない。
十年、二十年、そして……いや、それ以前に。
「帰ったら、 口づけを」
そう言って彼は帰らなかった。
ニファーリアが自分が「王女」として生きていくしかないと決めたのはその時からだ。
いつも微笑み、調停王女として国交決闘を切り抜け、優位に運び、決して負けない。
その役割を果たす役者としてこれでいいと思ってきた。
彼の後、彼女に同じような感情を持った者がいないわけではないが、それを巧妙に避けてきと。
巧妙に避け続けていれば、やがて人は納得し、離れていく。
まして王女……調停王女だ。
遠慮もある。
いつの間にか、神に仕える尼僧のように、ニファーリアは己の中から女性というものを切り捨てて生きてきた。
それなのに。
あの少年は、そのすべてを打ち破って飛び込んできた。
どうすればいいのか。
拒絶するべきだと思う。
だが、それは出来ないと思う自分もいる。
決められない。
どちらが本音なのか、それとも選ぶべき道なのか。
迷い、悩み……結論が出ない。
湯船の中、ニファーリアは膝を抱えて思い出に浸りそうになり、慌てて頭を振った。
「どうなさいました、姫様?」
最初はかなり強固に拒んだのだが「我々は客なのですから効率よくしなければ」と説得されてようやく一緒に風呂に入るようになったシャルロットが、しなやかな身体を洗う手を止めて訊いた。
「いえ、何でもないのです、シャルロット」
「……ならばよろしいのですが」
それでも少し心配そうにシャルロットは主を見ていたが、ニファーリアが背中を向けて、いつものように鼻歌を歌い始めると、安心したのか再び身体を洗うことに集中し始めた。
その気配を背中に感じながら、ニファーリアはくすっと微笑む。
(こんなことばかりうまくなってしまって)
微笑みには、自嘲が半分以上入っている。
そういえば、あの年齢の頃のシャルロットの母親も、ニファーリアに誤魔化されることが多々あった。
親子そろってまっすぐな性分なのだろう。
それがうらやましかった。
調停王女という立場が永遠にも等しい時間を生きるハーフフエルフの血が、ニファーリアの心を、本人にさえ不明瞭にしてしまっている。
そうしないと、時の流れに耐えられなかったから。
女神のような調停王女……それが世界が自分に与えた役割だ、と決めていた。
それなのに。
(私は……)
抱きしめてくれた細い腕、切羽詰まった声。
あの夜の薫も、まっすぐにニファーリアに思いを告げていた。
(カオル様……)
心の内でつぶやいただけで、胸が甘く痛む。
痛みだけなら、断ることが出来る。
だが、あのとき。
抱きしめられたとき。
確かに、自分は混乱しながらも、嬉しかったのだ。
調停王女としてではなく、ひとりの女性として。
シャルロットが間に入ってくれてる時はまだ普通に会話が出来るが、二人っきりになったときはどうなるか。
きっと、少年は自分の告白の結果を聞きに来る。
そのときは?
じっと澄み切ったお湯の水面を見つめながら、と目を凝らした。
ニファーリアは自分の心の内を見通せないかと目を凝らした。
「……」
シャルロットは身体を洗いながら、横目でちらりとニファーリアを見ていた。
液体の石鹸をまるで貴族のようにふんだんに使える贅沢と、目上の人物と一緒に入浴という恐縮は「自分だけ」という選ばれた喜びによってちょっと和らいではいるが、武騎人の本分を忘れたわけではない。
さらに言えば、ニファーリアの予想に反して、かなりの苦労を重ねた上、妙なトラウマというか、「男嫌い」という主義まで刻印されたこの武騎人の少女は、人の「気遣い」に関しては敏感だ。
まして、それが自分が一生仕えると決めた主ともなればなおさらである。
(何が姫様のお心を乱しているのか?)
が、如何せん、男女の仲というものに対して壊滅的に鈍感な少女には、まさか王女と騎士の恋、という芝居にもならないような事態が自分のそばで進行しているとは考えもしない。
「紅の斬殺者」サーシャはある街の空の上に出現すると、緩やかに、しかし大急ぎで高度を下げた。
マントが血で汚れ、所々焼け焦げてもいる。
この程度で済んだのは僥倖だった。
相手の最後の一擊をかろうじて防いだものの、それですべての精神力を使い切ったのみならず、万が一のため、「魔硝石」に変換して指輪の形でキープしていた精神力もだいぶ削り、それでも逃げ出すのがやっとだった。
位相空間に潜り込み、連続して空間転移、加えて位相空間と通常空間とを往復しながら敵の放った攻撃の影響下から逃れる。
それでも最初に食らった傷が深かった。
最後に、通常空間に戻ると、もはや精神力はつきていた。
サーシャの顏をすっぽりと覆う、この仮面がなければおそらくすでに墜落している。
視界と顔を封じることで、集中力と魔力を得るという、いわば「呪的魔力回路」にカテゴライズされるこの仮面は、サーシャにとってささやかな誇りでもあった。
目が見えないことと、表情によるコミュニケーションぐらい、得られる魔力とそれを振るうことの出来る肉体に比べれば、かまわないと思っている。
「さすがは戦女神……くそ」
仮面の下で舌打ちすると、細身の魔法騎士は、さらに高度を下げる。
雲の下に出ると、夜景が広がる。
この世界の街は、夜になると宝石のように輝いていた。
「美しい神のいない世界……早く、目にしたいものだ」
つぶやいた瞬間、がくりと高度が落ちる。
「くそ……持たない」
高度の落ちる速度が速くなる。
「仕方ないか……」
呟いて、サーシャは自由落下に切り替えた。
その間に精神集中して、最後の一瞬に制動をかけるのだ。




