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すでに肉体的精神的なダメージを受けて身動き出来ないはずの相手が、ゆらりと、糸の切れかけた操り人形のように立ち上がった。
頭はうつむいたまま。
すでに頭のカチューシャは取れて、服はボロボロ、腕の鎧も、剣も凹み、刃こぼれしている。
何よりも遙か彼方だ。
それなのに。
エストは自分が後退っているのに気がついた。
「な……何?」
ゆらり、と少年の身体が動いて、ぎこちなく一歩を踏み出した。
一歩、一歩、また一歩。
ゆっくりと、しかし次第に強く、一歩、少年が踏み出すたびにどこからともなく風が吹き始め、段々強くなっていく。
「な、何なの?」
物心ついて以来十年以上発したことのない、怯えた声でエストは叫び、並列思考が彼女の間違いを指摘する。
「このっ!」
叫びながら雷撃を左手から放つ。
疾風が土埃を巻き上げ、少年の姿を覆い隠した。
「くそっ!」
呟いたエストの顔に突風と舞い上がった砂埃が吹き付けた。
「うわっ!」
思わず顔をかばった次の瞬間、目の前に少年が立っていた。
「じょ、女装ッコのクセに!」
悲鳴のような声で叫びながらエストは剣にありったけの雷撃をこめて振り下ろした。
少年の身体を頭から股間までまっぷたつにしたと思った。
「悪いけど……何て罵られても、僕は負けられないんだ」
静かな声。
「そう決めたから」
声は、振り下ろした刃の向こう、左脇構えにした少年の唇から聞こえていた。
相手が踏み込む。
剣の切っ先が地面の上をすれすれに疾る。
(ギリギリで届かない!)
エストは勝利を確信した。
この、恐らく気力だけで立っている少年は、自分と相手の間合いを読み違えたのだ、と。
薫の腕に握られた細剣の切っ先、鋭角な二つの刃のラインが重なる一点。
そこに全ての「風」が圧縮されるイメージがエストに見えたか、どうか。
エストが今まで見たこともない、恐ろしく素早くて、恐ろしい、見えない力が巨人の手のひらのように彼女を吹き飛ばした。
「うわわああああああ!」
防ぐ、防がないのレベルの話ではなかった。
刃による「線」でもなければ魔法による「点」でもない。
それは完全に「面」であり、「線」であり「点」でもあるという攻撃だった。
つまり「打」。
高圧縮された「風」の魔法が、武騎人の変化した細剣にその力を与えた。
物体が大気中で音速を超えたときに周囲の空気を圧縮し爆発的に解放されることで発生する「衝撃波」。
魔法によってそれを再現する……これが、この攻撃の正体だった。
ニファーリア達の世界にこれを応用した攻撃魔法の手法が存在しなかったのは、人工物で音速を超える、などというレベルに機械文明が達していないのが大きい。
魔法ならばある一定以上の速度で移動したければ「転送」という手段があるから、わざわざ音速を越えていく必要がないのだ。
瞬間、
身体全体を包む、爆発のような「力」の前に思考が千々に乱れ、判断があやふやになる。
意識が肉体を離れそうになり、エストは大声をあげてそれをつなぎ止めようとした。
その声さえ、空中に消えた。
気がつくと、空中で鎧と大剣は一体化したままサングラスの美女に姿を変え、エストと共に地面に叩きつけられた。
圧倒的な「力」が騎士と武騎人の接続を無理矢理解除させたのだ。
本来、あり得ない。
ワンテンポ遅れて。
「ぐあっ!」
思いっきり背中から落ちて、視界一杯に火花が散って一瞬真っ暗になり、エストは無様な悲鳴を上げてしまつた。
「……」
さらなる悲鳴を噛みしめながら、まだ火花の散り続ける身体を、何とかうつぶせになって引き起こす。
その喉元に、背後から剣が突きつけられた。
(ああ、死ぬんだ)
そう思った。
が。
「降伏しろ!」
遠くで神のごとき声が聞こえた……と思った。
ほぼ同時に、頭の中にあの貧民街の風景が浮かんだ。
黴が生えて真っ黒な壁、饐えた匂い、傾いた床、母親の咳の音、妹たちの前にある空っぽの皿。
(違う……アタシは、負けない!)
最後の意地が身体を動かした……すでにその時点で、エストの正常な思考は麻痺していたのかもしれない。
辛うじて反転し、少年の胸元へ、エストは腰に下げた鞭を撃ち込んでいた。
少年は避けない……見切っているかのようだった。
鞭はバラバラになって空中にあった。
エストの目が驚愕に開かれる。
鞭が切り刻まれたことではない。
すでに武騎人との融合を解かれた彼女の一撃が無効にされるのは覚悟の上だった。
問題は、切り刻んだ少年の胸元だ。
先ほどの彼女の猛攻でボロボロになったセーラー服が、少年の腕の動きによって遂に襟元から腹部まで大きく裂けてしまったのである。
そこには豊かな「本物」のバストがあった。
「へ、変態……」
それは性癖を現す「変態だ」という意味ではなく姿形を意味する「変態している」という意味であったが。
ぴく。
少年の肩が震えた。
「ひっ!!」
自分が恐ろしい失言をしたのだとエストは悟り、悲鳴をあげた。
もうだめだ、殺される。
確信……いや、それはもう未来として確定していた。
「違う」
少年の静かな……恐ろしいほど静かな声にびくっとエストは視線を上げてしまった。
思わず、視線が合った。
驚くほど綺麗な哀しげな目だった。
違う、の意味をエストは知った。
殺すつもりなんかない、という意味だ。
エストの思考はその瞬間、真っ白になった。
二十年と少しの人生で、生まれて初めてエストは恐怖にちかい安堵に心臓を掴まれた。
声も出ない。
指一本動かせぬ絶対の恐怖と、全てを解放しきっても構わないという安堵。
この哀しげな目に、彼女は「なにか」を見てしまった。
「もう一度だけ言う」
少年の声が続いた。
「降伏して……お願いだから」
ガクガクと視界が揺れ、それが自分が物凄い勢いで何度も頷いているからだと気づく。
「ご……ごめんなさいっ!」
まるで子供のような自分の声。
「本当だね?」
「はい、はいっ!」
視線が素っ気なく外された途端、全てが真っ白になったかのようにグラマラスな肢体がぐらりと揺れて、ボンデージの美女はその場に崩れた。
気絶したのである。
〈ソグディアナのカオル・シロサキを勝者とする〉
朗々とした戦神の声が聞こえた。
長い、長い溜息をついて、少年は剣を鞘に収めた。
「あーあ、格好悪い勝ち方しちゃった」
驚くほど疲労感はなかった。
気分がいいせいだろうか、身体の傷ももう痛くない。
鎧と剣は身体から離れ、銀髪の少女に戻る。
「……主殿」
シャルロットの顔は、疲労の中にもどこか神妙なものがあった。
畏れと、尊敬。
「でもまあ……勝ったね」
にっこりと、少年は笑った。
いつもと変わらない顔で。
「……ああ、勝ったな、主殿」
ほっと溜息をつきながら、シャルロットはようやく笑みを浮かべることが出来た。
「まずは一勝だ……だが、次はもうすし上手に戦ってくれ。
一体化しているときは良いが、元に戻ったときに心臓に悪い」
小さな微苦笑に、薫は頷く。
「判ったよ」
風が止み、誰が勝者になったのか判ると、校舎から歓声が沸き起こった。
少年は、片手を上げて応じる。
「……」
その手を、シャルロットはそっと握った。
柔らかくて、暖かくて、心地よい「主」の手を。
ぞわりとした「男」に触れたとき独特の嫌な感覚がなかったのは、果たして少年にかけられた大地母神の魔法がまだ発動中だったからだろうか。
「ああ」
思わずニファーリアは溜息をついて、その場に膝をつきそうになった。
あの少年は勝ってくれた。
その嬉しさよりも、もっと不思議な、痺れるような感覚が彼女の身体を貫いていた。
それは安堵。
彼が無事に両足で立って、こちらを見ていてくれているという喜びだった。
少年は満足げな笑顔を浮かべて周囲に手を振っている。
それが何よりも嬉しかった。
「カオル様……」
何十年かぶりに、目に熱いものを感じて、慌ててニファーリアはまぶたを押さえた。
泣いてはいけない。
泣いてしまったら、ここ百年以上、彼女を支えているものが全て折れてしまう。
(そうしてしまったら……そうなってしまったら)
ニファーリアは、何度も、何度も頭を振った。
そしてようやく、いつもの笑みを浮かべると、立ち上がる。
王族として、調停王女として。
心の中は大きく揺らぎながらも。




