25
シャルロットは、後ろ手で襖を閉めた。
長い脚を畳んで正座すると、薫から借りてきたアナログの目覚ましを目の前に置く。
最低でもこの長い針が十目盛り進むまでの間(つまり十分)までに戻らねばならない。
銀髪の少女は腰の後ろ、ナイフの入った鞘の隣にある小さなパウチ(ニファーリアの袋同様、魔法の道具なので色々はいる)から手鏡を取り出した。
手のひらよりも小さなそれに自分の顔を映し、じっと見つめるとブツブツ言い出した。
「カオル殿は女、カオル殿は女、カオル殿は女……」
自己暗示である。
同じ部屋の片隅では拾われてきた子猫が、一時的なベッドとしてあてがわれた古い洗面器の中、体温保持のためのお湯入りペットボトルに寄り添うようにして丸くなり、時折小さなあくびをしている。
一方、道場。
「なにかを忘れさせる、というのは魔法でも難しいのです」
しみじみとニファーリアは言った。
「記憶の欠落というのは、思ったよりも人を不安定にさせてしまいます。
まして原因が判っていればなおさら」
シャルロットが客間に去った後、「どうせなら魔法で思い込ませて克服させたら?」と滝沢真衣が言い出したことに対する答えである。
「しかも精神系の魔法はどんな影響が出るか判りません。
また途中で魔法が解除されてしまったら……下手をすると戦いの最中に人の姿に戻ってしまうかもしれません」
武器が消えたら勝敗がどうなるかは言うまでもない。
武騎人と融合した騎士と、そうでない騎士の差は、ひとりがふたりになったぐらいでは埋められるものではないとニファーリアは言った。
「つまり、アナログな方法で克服しないといけないわけなんだ?」
薫の言葉にエルフの王女はこっくりと頷いた。
「ええ」
「……!」
聞いていて、薫は「魔法」という言葉からある方法を「思い出し」た。
だが、それだけは避けたい。
その方法はリスクが巨大すぎた。
特に今回、ギャラリーが増える状況の下では。
(そこまで行くと、アクセル全開で崖からダイブと同じだものなあ)
とはいえ客間に下がっていくシャルロットの背中も同時に脳内に明滅する。
(卑怯者……だよなあ)
性転換魔法。
「戦神の調律」状態が始まったとき、自分の肉体はそれで女性に変化していたのである。
服装やキスだけではなく、おそらくそこまで揃えれば……。
(でもアレは、ペナルティがおっかなすぎるよ!)
叫んでみても頭の中に焼き付けられた知識は「それが恐らく正解」と指し示してピクリとも動かない。
(でも、他の方法もあるんじゃないの?
シャルロットが男嫌いだからなわけだから……)
(このまま何も言わずに、そしてまた失敗したら?
シャルロットはますます自分のせいだって落ち込むぞ?)
自己嫌悪がじんわりと酸のように胸の中を灼く。
「あ、そーだ薫君、今のウチにさっさと歯、磨いてこないと」
思い出したように少年に話題を振った。
「え?」
「だってキスするんでしょ?
お口綺麗にするのはエチケットだよ?」
「そ……そうなの?」
そういえば、以前読んだ少女漫画でそんなエピソードがあったような気がする。
「うん。
やっぱキスはミントの味とかじゃないと!」
ぐっと拳を握りしめる真衣に、
「えー?
やっぱレモンじゃない?」
「ほのかなクール系のほうが」
とか他の女生徒達から声がかかる。
「うーん……」
とにかく、歯磨きだけはしておいたほうがよさそうだ。
少年は自己嫌悪と大きな逡巡を抱えたまま、とりあえず母屋に引き返して歯を磨くことにした。
シャルロットは目を開いた。
目の前の畳の上に置かれた目覚まし時計はきっかり十分。
ゆっくりと立ち上がり、襖を開ける。
あとは勢いをつけて歩き出した。
廊下を抜けて道場へ入る。
女生徒達の熱い視線も一切無視し、道場の真ん中にぽつねんと立っている相手だけを見つめて歩みを続ける。
「さあ!
行くぞカオル殿!」
女装したメイド姿の少年の前に立ち、僅かに背の低い相手にシャルロットは決然と言った。
「え?
あ、ちょ、ちょっと」
いきなり現れて、いきなり開始宣言をした相手に、女装メイドな少年は慌てたが、シャルロットは相手の合意を得ている余裕はなかった。
とにかく、自己暗示が効いているうちに成功しなければ意味がないと思い詰めていた。
それが目を血走らせ、顔面蒼白にさせて少年を怯えさせているとは気づかない。
「騎士殿、参る」
そう言って唇を奪う。
意識が空白になる。
今までとは違う、爽快な、解放される感覚。
自我が消え、純粋な意識だけになる。
刃。
鎧。
人の雑念も、人の心も、人を人たらしめるあらゆる拘束から解き放たれて、ただひとつの機能を持った存在に変わる喜びが少女の身体を貫いた。
ああ。
これだ。
最初に「剣化」したときのあの感覚。
歓喜すら消えた、万能の無意識へとシャルロットの全てが転換され……かけた。
異様な違和感。
無意識の領域の拒絶。
それが小石のように無自我への飛翔を妨げた。
全てが暗転し、またいつもの真っ暗な閉塞感と、不快感が少女を襲う。
(ああ、また……)
意識だけとなって歯がみした少女は、その事実こそが失敗を告げていると悟ってなお苦い思いで胸を満たした。
ややあって、再び身体が人の姿を取り戻し、全ての「人としての」感覚が戻ってくると、少女は悄然と目を開いた。
何とも言えない、気まずい空気が周囲にある。
「……すまない」
短く、少女は言った。
他にどうしようもなかった。
尊敬する王女と周囲、そして何よりも自分が抱いた期待と気合いを裏切ってしまう自分への嫌悪と情けなさで、このまま死んでしまいたかった。
だが、死ぬことが何の責任にもならないとも理解していた。
いっそシャルロットが軽率でもっと単純な人間であれば、楽だったかもしれない。
少女は目を閉じて拳を握りしめ、その場に立ちつくすしかなかった。
気まずい沈黙を破ったのは、猿ぐつわをされて部屋の片隅に縛って転がされていた斎京楓であった。
「ぬうんっ!」
と少女はどこからか取り出されたロープでぐるぐる巻きに縛られた状態からひょいと立ち上がると、ぴょんぴょんと道場の中央までやってきた。
「ふぐ……ぬが……もが……あ、ぬんっ……っと」
そうしながら口にされたハンカチの猿ぐつわを器用に顎を動かして外す。
「やっぱ、これじゃ駄目でしょ!
『そっちの人』ってのはね、理屈じゃないの、もうそういう体質なのよ!」
次にぐるりと一回転すると、ロープがはらりと落ちた。
「だーいじょーぶ!
あたしに任せて!
自己暗示じゃ駄目なら、やはりここはひとつ、薫君が身も心も女性になりきるしかないっしょ!」
そう言うと、少女の手の中に、見覚えのある恥ずかしいY字型の布きれが現れる。
吸血鬼にかざす神々しい十字架のごとく少女の頭上高く掲げられたのは、例のタンガと呼ばれる女性用の下着だ。
「い!?」
少年の顔が強ばるが、にやりと不吉な笑みを浮かべた楓は眼鏡を光らせながら、
「そう、このタンガを着用して、身も心も……」
「……」
(どうやら、ここいらで言わなくちゃいけないらしいなあ)
少年は溜息をついた。
「わかった」
こっくん、と少年は頷いた。
「それが似合う身体になるよ」
「?」
楓が首を傾げる。
「あの……ファリイ。
ひとつ聞きたいんだけど、僕を本当の女の子にする魔法とか、ってあるよね?」
「え?」
いきなり言われて、ニファーリアの顔に、微妙な表情が浮かんだ。
「あるんだね?」
「そ、それは確かに、あります」
言いにくそうにニファーリアは肯定する。
「どうしてご存知なのです?」
「実を言うと……最初の時は一時的に女の子にされてたんだ、神様の力で」
「な……」
シャルロットが何かを言い出す前に、
「黙ってて、ごめん」
さらに何か怒鳴ろうとするシャルロットを手で制して、ニファーリアは、
「でもよろしいのですか?
殿方が女になるというのは、外見だけでも大変……その……恥ずかしいというのに、身体まで……」
じーっと少年を見つめる。
だが、薫はひるまなかった。
「その魔法、元に戻したりとか、ファリイに出来る?」
「は、はい、まあ……それは……その……でも」
専門的なあれこれがあるらしく、それを説明したほうがよいのかどうか、ニファーリアは迷っているようだったが、
「ファリイがその魔法を使える、っていうんなら、それをやるほうが手っ取り早いよ?」
と少年はあっさりと言った。
いや、実は「あっさり」に聞こえるように注意して発言したのだが。
「国交決闘の場の中で、戦ってる間だけ外見だけじゃなくて肉体も女の子になっちゃえば、シャルロットも問題がないでしょ?」
薫の発言を、一同が理解するのに二秒ほどかかった。
「あ、そうか……」
シャルロットがぽん、と手を打つ。
「大地母神系の魔法なら、確かに性転換の魔法が」
「まあ、そうではあるのですけれど……アレにはその、国交決闘の場で使うにしてもペナルティが……」
「でも、このままだとただ負けるだけだよ」
少年はにっこりと……内心は膝が震えるほどおっかないのを我慢して……ニファーリアに笑いかけた。
「……判りました、カオル様がそのお覚悟ならば」
決然と王女は頷く。
「えー!
じゃー薫君が薫ちゃんになるんだー!」
滝沢真衣がぱん、と両手を叩いた。
目が輝いている。
「うわーSFだー」
「というよりこの場合、ファンタジーよねー」
なとと女子達はガヤガヤと騒がしくなる。
「そ、それは駄目!」
楓が珍しく慌てる。
「本物じゃない女装だからこそ意味があるの!
本物になっちゃったらジャンルが違うほうへ……もががががむぐごごご」
再び楓に猿ぐつわが噛まされてふん縛られる。
「確かに、カオル様がよろしいのでしたら、そのほうがより良いのは間違いないですわね」
ニファーリアは溜息をついた後、もう一度、じっと薫を見つめて
「本当によろしいのですか?」
と尋ねた。
「うん」
こっくりと薫は頷き、また笑った。
「……」
シャルロットはそのふたりの表情に微妙なものを感じ取って首を傾げる。




