20
「お母さんはね、昔勇者だったのよ?」
そう言って、母親は子供を膝の上に乗せた。
かなり昔の夕暮れ、縁側。
夏だったのか、秋だったのかは覚えていない。
将来、体重で悩むことになるその子供も、その頃はまだ物心ついたばかり。
むしろ周囲は「コロコロしていて可愛い」と言ってくれる時期というのもあってか、 屈託なく母親の膝の上で「おはなし」を聞いている。
「ゆうしゃー?」
テレビの子供番組ぐらいでしか聞いたことのない言葉に、子供は首を傾げた。
「そう」
と言って、母親はアルバムを開いて見せた。
まだ若い十年以上前の彼女が、今やすっかり珍しくなったセーラー服に身を包んで写っている中、ひときわ目立つ奇妙な写真があった。
どこかの草原で、その頃と覚しき母親が奇妙な格好をしているふたりと並んで写っている写真だ。
ひとりは鼻にかける小さな眼鏡の少女、もうひとりは銀髪の精悍な顔立ちの少女。
テレビでこの前見た、外国のファンタジー映画に出てきたエルフそっくりに、眼鏡をかけた少女の耳は鹿のように長く、ぴんと横に張り出している。
「だーれ?」
「この人達はね、お母さんのお友達」
「おともだちなの?」
「そう、お友達。
永遠の親友よ」
そう言った母親の懐かしさと愛おしさの入り交じった表情に、「なにか」を感じた子供はじーっとその色褪せ始めた写真を眺めていた。
「えいえんのしんにゅー?」
「しんゆう。
とっても大事な、大事なお友達」
「ぼくよりも?」
「んー。
薫は特別。
スペシャルだもの……でも、このふたりは……もう二度と会えない人達だから」
そういって、水仕事で少々荒れた指先を、母親は写真に伸ばした。
過ぎ去ったとき時間に、そうすれば触れられるかのように。
子供が写真を見たのはその時一度きりである。
だがそれは長い間、彼の奥底に仕舞い込まれこそすれ、忘れられることはなかった。
翌日、幼稚園にいった彼がそれを吹聴して回り、同級生から馬鹿にされたからというのもある。
だが、何よりもその時の母親の顔が、忘れられなかったのである。
その不思議な表情を何と表現すればいいのか、今でも彼は答えを見つけられていない。
(そうか、あの時に見たんだ)
その時に見た写真に写っているのは確かにニファーリアだった。
もうひとりも、確か銀髪で……こちらはシャルロットの面影がある。
いつの間にか薫はそんな過去の風景を、ドラマのセットのように外から見ていた。
(まさか、本当のことだなんて……)
苦笑いする。
母親の香織の膝の上で、幼稚園の薫はなおも「おはなし」を楽しそうに聞いている。
現実は未だ彼の上に立ちはだかるのではなく、遠くで見守るばかりだったし、何にでもなれると思っていた。
「じゃあ、ぼくもおかあさんみたいに『ゆうしゃ』になる!」
母親の大冒険のお話に目を輝かせた少年はそう声をあげた。
「そう……大丈夫、薫ならなれるわ」
と母親は微笑み、不意にこちらを向いた。
「ほら、何してるの薫」
(え?)
香織が縁側の外ではなく、その小さな世界の側に立っている自分を見ているのだと気づくのに二秒ほどかかった。
「私みたいな勇者になるんでしょ?」
中学時代、少年をしばしばグウの音も出ないぐらいにやりこめる時に浮かべていた、 悪戯小僧のような笑顔を浮かべて香織は続けた。
「なにこんなところで臨死体験ごっこしてるの?
ほら、さっさと目を覚ましなさい」
(……見えてるの?)
「当たり前でしょ、あたしはあなたの母親なんだから!」
いつの間にか縁側も、子供の頃の薫も消えて、母親だけが真っ暗な中、少年に向き合っていた。
(母さん)
「悪いけど、ファリィのこと、頼むわよ」
(ファリィ?)
「お姫様のこと。
本当はニファーリアっていうんだけど、ファリィって呼んでたの」
(そうなんだ)
「ほら、がんばんなよ、息子様」
薫の両肩に手を置いて、母親はくるりと反転させて背中を押した。
「……」
目が覚めると、真っ暗な場所で、恐ろしく自分の身体が重かった。
風邪で何日も高熱が続いたときのだるさがと難儀さが八倍ぐらいになったような感じがある。
視界の隅に、ジャングルジムと街灯が映っているから、きっとまだあの公園にいるのだろうと判る。
頭が妙に、甘くて心地よい匂いのする柔らかいものの上にあった。
「ああ、良かった。
気がつかれたのですね」
溜息と同時に優しい声がした。
「……?」
ようやく目が慣れてきて、焦点が合い始める。
ニファーリアの顔があった。
「大丈夫ですか、カオル様?」
何とか笑みを浮かべて、少年は起き上がろうとしたが、瞬間、脳天が真っ白になるほどの激痛が走った。
「!!!」
声も出せず、のけぞることも出来ずただ口だけ開けて激痛に耐えるしかない少年の額に、ニファーリアは優しく手のひらを当てた。
「まだ肉体が完全に再生していないのです。
しばらくそのままにしててくださいませ」
ニファーリアの手を通じて、額から暖かくて柔らかい「なにか」が流れ込んできて、すっと痛みのレベルが下がった。
先ほどが身体中の骨を粉砕されたままぐりぐりと身体中をかき回されるような感じなら、こちらは「歩くのもままならない酷い筋肉痛」である。
何とか、少年はひと息つくことが出来た。
どうやら、 ベンチに寝かされて、 ニファーリアに膝枕して貰っているらしいと判った。
五分ほどすると、また痛みのレベルが下がって、何とか起き上がれるレベルになった。
それでも用心して数分、ようやく少年は身を起こした。
「そういえば……シャルロット……は?」
「シャルロットは……」
とニファーリアが口ごもっていると、風に乗って妙な声が聞こえてきた。
「えぐっ、うぐっ、えぐ、えぐ……」
言葉に表示し直すとこんな感じの声である。
子供の泣き声……それも二時間ほど泣きじゃくって、もう泣き疲れているのにまだ泣いている子供のそれだ。
「……?」
声のしたほうを見ると、ジャングルジムの彼方、植え込みの側で斎京楓が困った顔でこちらに横顔を向けている。
視線は植え込みの中だ。
「戦いが終わってからあのありさまで」
そう言われて、少年はようやく自分が「負けた」ことを思い出した。
「そっか」
よっこいせ、と身体を起こす。
ニファーリアの香水、甘い匂いが少し身体に移っているのを感じて、少年は赤くなった。
「あ、まだもう少し横になられてるほうが」
「いいんですよ……ちょっと、行ってきます」
にっこり笑って少年は植え込みに向かってよろよろと歩いていく。
「えぐっ、うぐっ、えぐ、えぐ、えぐ、えぐうっ、ぐっ……」
泣き疲れているのではなく、今にも号泣しそうなのを必死になって抑えているのだと、その途中で薫は気づいた。
「あ、薫君……」
何か言いかけた楓へ、少年は「判ってるよ」という意味の頷きで応じる。
「……シャルロット、大丈夫?」
植え込みの中、がさりと何かが動く気配はしたが、泣き声は止んでいた。
「怪我とか……ない?」
「……」
「どっか、痛くしてない?」
「……」
茂みの中の気配が戸惑ってるのが感じられたので、少年は楓をちょっと拝み、ニファーリアの方を指さした。
楓は頷いて、その場を離れてくれた……この辺、押しが強くても集団をノセられる才能の持ち主らしく、「自分は何もしないで、どっかに行ってるほうがよいこともある」のをわきまえてくれている。
楓が離れて、小声ならふたりの会話が届かない位置……つまり、公園のほぼ反対側のべンチでこちらを気遣わしげに見ているニファーリアの隣まで行ったのを確認して、少年は再び口を開いた。
「……負けちゃったね」
沈黙。
そして、ぶちぶちと何かを噛みちぎるような勢いで、
「すまぬ!
私のせいだ!」
とシャルロットの声が響いた。
「お前……いや、主殿と、私が完全に一体になることが出来なかった、だから、だから……負けてしまったのだ!」
声に涙がにじんで……いや、溢れていた。
恐らく、少女は茂みの中で泣いているのだろう。
恥ずかしくて、悔しくて、情けないと自分を責めているらしい。
「すまぬ……すまぬ……すまぬ……すまぬ……えぐっ、うぐっ、えぐ、えぐ……」
先ほどまで、自分を死ぬほど罵倒したり、土下座したり、謝ったり……
(随分とまあ、当初のイメージと違うなあ)
絶対に泣いたりしそうにない人だと何となく決めてかかっていたのだが。
自分より年上だとばかり思っていたが、ひょっとしたら同年齢か、それより下なのかもしれない。
「私は……私は情けない。
ひぐっ……私は武騎人なのに、決闘で騎士どの……えぐ……の足を引っ張ってしま……うぐ……うなんて……」
「……」
ぽん、と少女の肩のひとつも叩いてやりたい気分だったが、それは「男嫌い」の少女には駄目だろうと思い、少年は少し考える。
「悔しい?」
「悔しいんじゃない、情けないんだ!」
もう完全にぼろぼろの声でシャルロット。
「私は武騎人だ、戦うための種族だ、騎士を支え、その力となることが私の役目で、ソグディアナを救うことが目的だ!
だが、だが……よりにもよって初陣で、騎士殿をあんな目にあわせた上に、力どころか足かせになってしまった……しかも姉上の前で!!
私は何の価値もない!」
なんか、切腹でもしかねない勢いである。
「あと二回あるよ」
ぽつん、と少年は言った。
「そこで勝てばいいじやないか」
「簡単に言うな!」
少女は茂みから立ち上がって大声で怒鳴った。
「お前、さっきまでのたうち回っていたではないか!
戦いのダメージは回復するとはいっても、最中はすべて本当だ、殺されてしまえば死ぬほどの痛みが本当に起こる!
気の弱い奴は発狂するぐらいだ!
それに、それに……」
自分が立ち上がって「合わせる顔がない」相手を面と向かって怒鳴ったことに恥じ入って、少女は再びくるりと背を向け、そそくさと茂みの中に戻る。
自分の感情に素直に慣れないタチらしい。
(難儀な子だなあ)
くすっと薫は笑った。
そういえば今年の正月、親戚の男の子がこんな感じで親を相手にダダをこねていたのを思い出す。
(まあ、この人の場合、ダダこねてるわけじゃなくて、どう謝ればいいのか判らないというか、責任感とかありすぎて、自分の中に色々詰め込みすぎてパニクってるんだろうなあ)
普通なら苛立っても仕方がないのだが、不思議にそうは感じなかった。
「さ、帰ろう。
帰ってこれからのことを考えようよ」
「しかし、私には……」
「駄目だよ、ひとりで背負い込んじゃ。
ほら、立って」
「でも……私はお前に合わせる顔が」
「い、今はお互い、次に勝つことだけ考えようよ。
負けたからって後ろを向いていても、勝つことは出来ないんだし。
僕も頑張るから、さ」
格好いい台詞を言うのは、少し勇気が要った。
だが、いつもの自分の言葉では、彼女をもう一度奮い立たせることは出来ないだろう、というのも分かり切っている。
「負けたことは今さら変えられないから、ね?」
「……」
「騎士と武騎人は一心同体、なんでしょ?」
「……」
「それに、戦う時でもそうでない時でも、僕の言うことは聞く約束でしょ?」
「……」
「僕だけじゃ、何も出来ないよ。
君の嫌いな男だけど、その辺は我慢してよ」
茂みの中の気配から頑なさが取れた……ような気がした。
それでも二十秒ほど間が空いて、ようやく少女の背中が植え込みの中から現れた。
「すまない、主殿」
乱暴に涙を拭ったらしく、手袋の手の甲に染みがあり、眼も赤い。
「行こう、シャルロット」
「うむ」
「急いだほうがいいわよ」
その後ろで、斎京楓が遠くを見ながら言った。
「なんか、パトカーがこっちに来るわ」
「え?」
言われた方向を見ると、ゆっくりと赤い光がこっちへ近づいてくるのが見えた。
「先ほどの戦いを、どうもご近所が通報したみたいね……ちょっと長居しすぎたみたい」
「ああ、司直の方がいらっしゃるのですね?
では念のこともありますから、ちゃんとご説明しなくてはいけませんね」
ニファーリアが頷くが、そんなことをしたら間違いなくまた大騒ぎになるのは言うまでもない。
「えーと、ニファーリアさん」
「ああ、どうぞ呼び捨ててくださいませ」
「じゃ、じゃあファリイ」
ふと自然にそんな呼び方が少年の口から滑り出た。
「とにかくここから全力で逃げ出さないと、下手をすれば捕まって刑務所に送られちゃうよ!」
「あ、でも法律を守っておられる方々なのでしょう?
でしたら理を尽くして……」
「シャルロット、頼む」
「え?
あ、ああ……で、では姫、とりあえずここは騎士殿の申されるとおりに」
「でも……あららら?」
ひょい、とシャルロットはニファーリアを横抱きにすると「どっちだ?」と逃げる方角を訪ねた。
「えーと、とりあえずウチへだから……あっち!」
「判った」
「そぅれ」
楽しそうに楓が先陣を切って走りだす。
そのあとをシャルロットが追う。
「あららららら」
小脇に抱えられたままニファーリアも去っていく。
「わ、ま、ま、待ってよ!」
とりあえずシャルロットを助けてニファーリアの脚を持つべきか、それともやっぱそれはセクハラなのか、迷っているヒマもなく少年も後を追う。




