第九話 戻ってきてほしいと、頭を下げた
ハルヴィーク公国の外交府は、思っていたより質素な建物だった。装飾を排した、機能第一の造り。エイレンベルクの宮廷とは、何もかもが違って見えた。玄関先で出迎えた官吏の物腰にも、無駄がなかった。
正式な使者を立てるべきだと、評議会では、繰り返し進言された。一国の王太子が、隣国まで自ら出向くなど、前例がない、と。それでも、譲らなかった。人を介して伝えられる言葉では、足りない気がした。
供にはベリトだけを連れてきた。道中、ほとんど口を利かなかった。何を話せばいいのか、互いに分からなかったのかもしれない。馬車の窓から見える景色を、ただ、二人して眺めていた。
この数ヶ月、悪いことばかりが続いた。国境の条約は、修正のたびに新たな不備が見つかり、いまだ調印の目処が立たずにいる。社交界では、フリーダが立て続けに失態を演じ、その都度、陰口が広がった。どれも、根は一つだと、今なら分かる。シグリがいなくなったことの、ただの余波だった。
評議会の空気が変わったのは、先月だ。ベリトが、あの木箱の中身を、評議会の場で開示した。誰の署名で発布されたどの文書が、実際は誰の手によるものか。一枚一枚、証拠が並べられていく間、誰も、口を挟めなかった。
「これまで黙っていたことを、お詫びいたします」
ベリトは、そう言って、深く頭を下げた。あの男が、あれほど頭を下げるのを見たのは、初めてだった。評議会全体が、静まり返っていた。
その日のうちに、決議が採られた。反対する声も、いくつかはあった。前例がない、家門の体面に関わる、そういった懸念だった。それでも、最後には、賛成が上回った。誰もが、心のどこかで、同じ結論に辿り着いていたのかもしれない。表立って口にしなかっただけで。
応接の間に通されると、扉が開き、シグリが現れた。
隣国の意匠らしい、簡素なドレスを纏っていた。以前より、頬に色があるように見えた。旅の疲れも見えない。それが、かえって胸に応えた。無理をしていた頃より、今の方が、明らかに顔色が良い。その事実だけで、多くを物語っていた。装飾の少ない服装が、かえって、堂々として見えた。
「殿下」
礼は、以前と変わらず、丁寧だった。けれど、どこか、遠かった。婚約者に向けるものではなく、隣国からの来賓に向けるような、きちんとした距離のある礼だった。その正確さが、かえって、六年という歳月の重みを感じさせた。
隣に、若い外交官が控えていた。以前、書簡の言い回しを指摘してきた男だと、すぐに分かった。名を、トルケルといった。シグリの一歩後ろに立つその立ち位置に、多くを語らせるものがあった。
一度も、口を挟まなかった。表情も、ほとんど動かさなかった。ただ、時折、シグリの言葉が途切れる瞬間に、視線だけを、静かに向けていた。それは、助け舟を出すためではなく、ただ、そこにいることを、伝えるためのように見えた。かつて自分は、あの目でシグリを見たことがあっただろうか。記憶をたどっても、思い出せなかった。
「突然、押しかけて、すまない」
「いえ」
短いやり取りの後、沈黙が落ちた。用意してきた言葉は、いくつもあった。けれど、いざシグリを前にすると、どれも、上滑りするように思えた。
用件を、切り出すしかなかった。ここまで来て、言葉を選んでいる余裕はなかった。深く息を吸ってから、口を開いた。
「戻ってきてほしい」
シグリの表情は、動かなかった。凪いだ水面のように、静かなままだった。
「評議会に、正式に諮った。この六年、外交文書の多くが、あなたの手によるものだったと、記録に残す。功績を、公に認める。そういう決定を、評議会は承認した」
「殿下」
「あなたの名で、これからの文書に、署名してもらいたい。今度こそ、あなたの名前で」
これまでの功績についても、然るべき形で公表すると決めた。過去に遡って、記録を書き直す。前例のないことだと、評議会でも紛糾した。それでも、押し通した。それくらいのことは、してしかるべきだと思った。
言い終えて、初めて、自分の手が、わずかに震えていることに気づいた。両手を、後ろで軽く組み直す。誰かの前で、こんな風に手が震えたことなど、これまで一度もなかった。
シグリは、黙っていた。窓の外の山並みに、一度、視線をやった。
「殿下のお気持ちは、ありがたく存じます。功績を認めてくださる決定も」
言葉を切り、こちらに視線を戻す。
「けれど、戻りません」
予想していなかったわけではない。それでも、言葉にされると、思っていたより重かった。喉の奥が、急に狭くなったような感覚があった。
「なぜだ。名誉は、回復されるはずだ。もう、誰にも軽んじられることはない」
「軽んじられていたことを、取り消していただきたいわけではないのです」
シグリの声は、静かだった。責めるでも、勝ち誇るでもなかった。むしろ、丁寧に、順を追って説明しようとしているような口調だった。かつて、外交文書の言い回しを説明してくれた時と、同じ声だった。
「以前のわたしは、誰かに認められることで、初めて存在していいのだと、思っていました。今は、違います」
「では、何が」
「殿下からいただく名誉を、待つ必要が、もうないのです。この国で、わたし自身の名で働くようになってから、そのことに気づきました」
言葉が、すんなりとは入ってこなかった。理解しようと努めるほど、かえって遠ざかっていくような感覚があった。名誉も、地位も、これまで自分が持っている中で、一番価値のあるものだと思っていた。それを差し出しても、届かない場所に、シグリはもう立っているらしかった。
隣のトルケルは、何も言わなかった。ただ、シグリの言葉を、静かに聞いていた。口を挟む権利など、最初から求めていないという顔だった。
「ベリト様が、ご一緒だったのですね」
シグリが、初めて、扉際に控えるベリトに目を向けた。ベリトは、深く頭を下げただけだった。何か言おうとして、結局、何も言わなかった。二人の間に、こちらには踏み込めない何かがあるように見えた。
これ以上、続ける言葉が見つからなかった。礼を言い、退室するしかなかった。廊下を歩きながら、来た時よりも、足取りが重く感じられた。窓から差し込む光の角度が、朝とは変わっていることに気づいた。
帰りの馬車の中、ベリトは、ずっと窓の外を見ていた。行きの道中と同じ、重い沈黙だった。ただ、その質は、明らかに違っていた。
「詫びれば、済むと思っていた」
誰にともなく、そう漏らした。
「詫びる言葉なら、いくらでも用意できた。名誉も、地位も、差し出す用意があった。それでも、足りなかった」
窓の外を、見慣れない隣国の景色が流れていく。エイレンベルクへ帰る道のりは、来た時よりも、ずっと長く感じられそうだった。
ベリトは、何も答えなかった。答えを、求めていたわけでもなかった。窓の外を流れる景色を、二人して、ただ眺め続けた。
詫びる言葉はあっても、差し出せる名前は、もう殿下のものではなかった。




