第八話 本当は、怖かったのです
執務室の灯りが、また一つ、消え忘れられていた。自分の部屋の灯りだった。窓の外は、とうに暗い。机の上には、南方の商人組合との取引条件をまとめた書類が、まだ何枚も残っている。明日でも構わない分だった。それでも、区切りのいいところまでは終わらせたくて、ペンを置けずにいた。
この国に来てから、二月が経つ。任される仕事は増える一方だった。断る理由もなかったし、断りたいとも思わなかった。ただ、気づけば、日が変わる時刻まで机に向かっていることが、以前より増えていた。誰にも強いられていないはずなのに、なぜか、止め方が分からなかった。
扉が、軽く叩かれた。
「まだ、いらしたのですか」
トルケルだった。片手に、書類を挟んだ板を持っている。自分も、まだ仕事を終えていない様子だった。上着の襟元が、少し緩んでいる。この時刻に、こうして顔を合わせるのも、一度や二度ではなかった。
「もう少しで、切りがつきますので」
「切りのいいところまで、というのは、いつも今日ではありませんでしたか」
答えに詰まった。図星だった。この二月、同じやり取りを、もう何度も交わしている気がする。そのたびに、少しずつ、決まりが悪くなっていた。
「もう、休んでください」
言ってから、トルケルの表情が、わずかに強張った。自分の言葉に、自分で驚いたような顔だった。
「今のは……いえ、訂正します。あなたに、何かを命じるつもりはありませんでした。ただ」
言葉を選ぶように、間を置いた。板挟みの書類を、机の端にそっと置く音が、静かな部屋に、やけに大きく響いた。
「気づけば、あなたに、休めと言っていました。エイレンベルクで、公務に専念しろと言われた時と、似たようなことを、わたしもしてしまったかもしれません」
その言葉に、手元のペンが、止まった。まさか、そこまで考えているとは、思っていなかった。
「申し訳ありません。あなたが、いつまで、何をするかは、あなたが決めることです」
謝られるとは、思っていなかった。誰かに何かを命じられることには、慣れていた。命じたことを詫びられることには、慣れていなかった。慣れていない分だけ、どう受け止めればいいのか、分からなかった。
「トルケル様は、何も間違っていません」
そう言おうとして、続く言葉が、うまく出てこなかった。目の奥が、じわりと熱を持つのが分かった。数えるほどしか泣いたことのない自分にとって、それは、ひどく奇妙な感覚だった。
「シグリ様」
「わたしは」
声が、思っていたより震えた。
「わたしは、本当は、怖かったのです」
一度言葉にしてしまうと、堰を切ったように、続きが出てきた。
「エイレンベルクにいた頃、何も感じていなかったわけではありません。ただ、口にすれば、それで終わってしまう気がして。役に立たない自分に、何の価値が残るのか、分からなかった。だから、黙っていました。黙っていることが、一番、安全だったのです」
トルケルは、何も言わず、ただ聞いていた。急かすでも、相槌を打つでもなく、ただ、そこにいた。それが、続きを話す勇気をくれた。
「休みたいと言えば、誰かの手を煩わせる。辛いと言えば、扱いにくいと思われる。もし、そう思われたら、婚約者としての場所すら、失うかもしれない。そう考えると、何も言えませんでした。言わないことだけが、自分にできる、唯一のことでした」
「六年間、ずっと、そうやって自分を抑えていたのですね」
「はい」
短く答えた。それ以上、言葉が続かなかった。抑えていた、という言葉が、思っていたより正確に、これまでの日々を言い当てていた。静かに、深呼吸をひとつした。
「怒っていい、と、誰かに言われたことは」
「一度も」
即答だった。考えるまでもなかった。
「怒る権利すら、自分にはないと思っていました。婚約者として迎えられたことだけで、恵まれている、と。だから、これくらいの我慢は、当然だと」
言いながら、自分の声が、次第に硬くなっていくのが分かった。抑えようとしても、うまくいかなかった。
「誰も、あなたにそんなことを言わなかったはずです。恵まれているのだから我慢しろ、とは」
「言われなくても、分かるのです。周りの空気で。期待される表情、期待される態度。それに応えられなくなった時、自分がどうなるのか、考えるのが怖かった」
「気づけなくて、すみませんでした」
「トルケル様が、謝ることではありません」
「いいえ」
トルケルの声は、静かだったが、揺るがなかった。窓辺に寄りかかっていた姿勢を正し、まっすぐこちらを見た。
「気づく機会は、何度もあったはずです。あなたの手紙を読むたび、何かを感じていながら、深く踏み込むことを、自分に許してきませんでした。それも、ある意味では、あなたを一人にしていたのかもしれません」
「トルケル様の手紙には、いつも助けられていました」
「助けることと、支えることは、違うのかもしれません。あなたが本当に必要としていたのは、季節の挨拶ではなく、大丈夫かと、正面から尋ねる言葉だったのかもしれない」
その言葉に、返す言葉が見つからなかった。正面から尋ねられていたら、あの頃の自分は、なんと答えていただろう。今でも、想像がつかなかった。もしかしたら、平気だと嘘をついていたかもしれない。それでも、尋ねられるという経験自体が、なかったよりは、ずっと良かった気がした。
窓の外で、夜番の鐘が鳴った。いつもなら気にも留めない音が、今夜は、やけにはっきりと耳に届いた。
「今は」
トルケルが、静かに続けた。
「今は、怖いですか」
すぐには答えられなかった。自分の中にあるものが、恐怖なのか、それとも別の何かなのか、見分けがつかなかった。机の上のペンを、指先で軽く撫でる。答えを探す時間が、少しだけ欲しかった。
「分かりません。ただ」
「ただ」
「今は、黙っていても、誰かに見捨てられる気がしません」
その言葉に、トルケルが、初めて小さく笑った。安堵したような、それでいて、どこか照れくさそうな表情だった。作り物めいた微笑みではなく、不格好なくらい、素の表情だった。
「それは、良かった」
短い返事だったが、そこに込められたものは、決して短くなかった。
自分の頬にも、同じような熱が広がっているのが分かった。怖さと、それとは違う何かが、同時に胸の内側を満たしていく。名前のつけ方は、まだ分からなかった。
トルケルが、机の上の書類を、そっと指差した。
「今夜は、ここまでにしましょう。続きは、明日でも」
「そうします」
素直に頷けたのは、初めてかもしれなかった。誰かに促されて仕事を切り上げることに、抵抗を感じなかったのは。ペンを置き、書類を重ねる手つきも、いつもより軽かった。
椅子から立ち上がりながら、窓の外の月を見た。エイレンベルクで見ていた月と、同じ形をしていた。それなのに、今は、少し違って見えた。理由は、うまく言葉にできなかった。
黙っていたのは、何も感じていなかったからではなかった。




