表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
もう、誰かの名前で働くのは終わりにします  作者: 九葉(くずは)


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
7/10

第七話 華やかなだけでは、足りなかった

庭園に置かれた白い卓の上で、紅茶が少しずつ冷めていった。


今日のドレスは、殿下が選んでくださったものだった。淡い水色に、銀糸の縁取り。鏡の前で三度も振り返って確かめたくらい、気に入っていた。今朝、支度をしながら、ずっと心が弾んでいた。侍女たちも、口々に似合うと言ってくれた。


ハルヴィーク公国からの使節団を迎える茶会は、去年までシグリ様が取り仕切っていたのだと、後になって聞いた。今年は、わたしが殿下の隣に立つ番だった。任されたと聞いた時は、誇らしくて、その場でくるりと回ってみせたくなったほどだった。他の令嬢たちの、羨むような視線も、悪い気はしなかった。


「ようこそいらっしゃいました」


型通りの挨拶は、うまく言えた。練習した通りだった。使節団の代表と、その夫人が、丁寧に礼を返してくる。ここまでは、何も問題なかった。


近くの卓では、社交界の年配の貴婦人たちが、扇の陰でこちらの様子を窺っていた。新しい令嬢が、どこまでやれるか。誰もが、値踏みする目をしていた。それにも、少しは慣れていた。


夫人が、小さな包みを差し出してきた。


「ハルヴィークの習わしで、初めてお迎えする方には、これをお渡しすることになっております」


布に包まれた、小さな鈴のような品だった。受け取りながら、何か言うべきだと分かった。分かったが、何を言えばいいのか、まるで見当がつかなかった。


頭の中で、これまで習った作法を、片っ端から探した。挨拶の言葉、お辞儀の角度、扇の使い方。どれも、この場面には当てはまらなかった。誰も、贈り物への返礼までは、教えてくれていなかった。いや、教わっていたのに、忘れてしまったのかもしれない。区別すらつかなかった。


礼法の教師には、招待客への挨拶の仕方を、繰り返し習った。けれど、その先の、こまごまとした習わしまでは、誰も教えてくれなかった。教える側も、それがどれほど細かく、どれほど数多くあるのか、把握していなかったのかもしれない。


夫人の表情から、笑みが少しずつ引いていく。周りの令嬢たちが、ちらちらとこちらを窺っているのも分かった。手のひらに、鈴の重みだけが、やけにはっきり感じられた。


「あ、あの、ありがとう、ございます」


声が、思っていたより上ずった。夫人は、それ以上何も言わず、静かに一礼して席へ戻っていった。


隣に立つ殿下が、助け舟を出してくれるかと思った。けれど、殿下も、この習わしのことは知らなかったらしく、困ったような顔で微笑んでいるだけだった。頼りにしていた分だけ、その顔に、少しがっかりした。六年もの間、殿下の隣にいた人は、こんな時、どうしていたのだろう。


沈黙が、思っていたより長く続いた。数えるつもりはなかったが、自分の心の臓の音だけが、やけに大きく聞こえた。


「あちらの習わしでは、鈴の音を一度鳴らして、友好の証とするのが作法です」


助けてくれたのは、給仕役の年配の侍女だった。声を落とし、こちらにしか聞こえないように教えてくれた。慌てて鈴を鳴らす。鈴の音は、思ったより小さく響いた。夫人が、ようやくまた微笑んでくれたけれど、さっきまでの温度とは、どこか違っていた。


茶会がお開きになり、庭園を後にする途中、若い令嬢二人がすれ違いざまに囁き合うのが聞こえた。


「今年は、勝手が違うようね」


「去年までは、あんな間があくことなど、一度もなかったのに」


聞こえないふりをして、歩き続けた。頬が熱くなるのを、誰にも気づかれたくなかった。


自室までの道のりが、いつもより長く感じられた。すれ違う使用人たちの視線さえ、今日は、どこか違って見えた。


茶会が終わり、自室に戻ると、鏡の前に座り込んだ。ドレスは、まだきれいなままだった。それなのに、自分がひどく粗末なものに見えた。


侍女が、お茶を淹れ直してくれた。湯気の立つ茶器を前にしても、口をつける気になれなかった。


シグリ様なら、あの場で、迷わず鈴を鳴らしていただろう。いや、そもそも、事前に習わしを調べておいて、鈴が出てくる前から、何をすべきか分かっていたはずだ。前もって調べる、という発想自体、今日まで、一度も浮かんだことがなかった。


三日前、お礼状の書き方を教えてもらった時のことを思い出す。「侯爵夫人は、薔薇がお好きなの」。当たり前のように、そう言った人だった。あの当たり前さの裏に、どれほどのことを知っていなければならないのか、今になって、初めて分かった気がした。


考えてみれば、夜会での立ち居振る舞いも、招待客への言葉遣いも、最初の一歩はいつも、シグリ様に教わったものばかりだった。自分で一から調べたことは、数えるほどしかない。教わったことをこなしていれば、それで務まっていた。務まっている、と思い込んでいた。


殿下に近づけば近づくほど、殿下の隣に立つ意味も、大きくなっていく。そんなことすら、考えたことがなかった。


夜会に誘われた最初の夜、心に浮かんでいたのは、殿下の隣を歩く自分の姿だけだった。周りの視線、羨望、贈られるドレス。想像していたのは、そういう場面ばかりだった。誰かの代わりに、外交上の失礼を詫びたり、習わしを知らずに立ち尽くしたりする自分は、一度も想像していなかった。


わたしは、ただ、選ばれたことが嬉しかった。夜会で紹介され、ドレスを贈られ、殿下の隣を歩く。それだけで、じゅうぶんだと思っていた。その先に、これほどの仕事が積み重なっているとは、思いもしなかった。


シグリ様のことを、憎いと思ったことは、一度もない。優しくしていただいた記憶ばかりだ。婚約披露の場でも、いつも穏やかに接してくださった。意地悪を言われたことも、突き放されたことも、一度としてなかった。


けれど、優しくされていた分だけ、自分が何を肩代わりしてもらっていたのか、見えていなかった。優しさと、当たり前だと思わされていたことの境目が、今日まで、はっきりしなかった。


もし、シグリ様が今のわたしを見たら、何と言うだろう。責めるだろうか。それとも、何も言わず、ただ鈴の鳴らし方を、静かに教えてくれるだろうか。後者のような気がして、それが、かえって胸に重かった。


鏡に映る自分の顔を、じっと見つめる。今日の粗相は、明日には社交界じゅうに広まっているだろう。


殿下は、優しい方だ。今日のことを、責めたりはしないだろう。けれど、責められないことが、かえって怖かった。優しさに甘えて、次も同じ失敗を重ねてしまいそうな自分が、少し怖かった。次も、その次も、同じように失敗して、それでも隣に置いてもらえるのだとしたら、自分は一体、何のために選ばれたのだろう。


明日、もう一度、あの侍女に習わしを尋ねてみようと思った。鈴のことだけではない。他にも、知らないことが、まだいくつあるのか、見当もつかなかった。数え切れないほどある気がして、少し、目の前が暗くなった。


わたしが欲しかったのは殿下の隣の席であって、その先の仕事ではなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ