第六話 気づくのが遅すぎた
国境の会議場に、羊皮紙の擦れる音だけが響いていた。
窓の外は、朝から曇っている。会議の前夜、この条約案には目を通した。三度、読み返した記憶もある。それでも、見落としがあるかもしれないという不安は、拭いきれずにいた。理由を、うまく言葉にできなかった。
条約の第十一条、巡回範囲の文言について、ハルヴィーク側の代表が、静かに指を止めた。
会議室の隅、通訳を挟んで向かい合う両国の随員たちの間に、束の間の沈黙が落ちた。何かが起きる予感を、経験の長い者ほど、先に嗅ぎ取るものらしい。
「この一文ですが」
指の先にあったのは、半月前、殿下からの書簡をもとに、自分が条文としてまとめ直した箇所だった。国境の巡回協定、更新の交渉は、殿下自ら書簡で方針を示すと仰った経緯がある。あの時、語気の強さだけは自分の目にも引っかかり、殿下に指摘して直させた。けれど、「巡回」という語そのものが持つ、法解釈上の危うさまでは、見抜けていなかった。目を通したはずだった。何度も。
「『巡回』という語には、我が国の法解釈上、駐留に近い意味が含まれます。エイレンベルク側の意図と、齟齬が生じるのではありませんか」
会議室の空気が、わずかに冷えた。エイレンベルク側の随員たちが、互いに視線を交わすのが分かった。誰も、口を開かない。
「確認いたします」
そう答えるしかなかった。手元の控えをめくる指が、思うように動かない。同じ語が、三箇所に使われていた。三箇所とも、同じ問題を抱えている。深く息を吸い直した。
なぜ、これに気づかなかったのか。自問しながらも、答えは、すでに分かっていた。気づく仕組みが、この六年、いつも一人の人間に頼っていたからだ。その人間がいなくなれば、仕組みごと消える。単純な話だった。単純すぎて、これまで誰も、直視してこなかっただけだ。数字と手続きには自信があった。だが、言葉の機微という一点だけは、常に、シグリ嬢任せだった。
半月前、この一文を清書した時、何かが引っかかった記憶はある。けれど、その違和感を、確かめる相手がいなかった。以前なら、机の向こうにシグリ嬢がいた。一読させれば、この程度の齟齬は、その場で消えていたはずだった。
「エイレンベルク側で、条約文の精査を担当されている方は」
ハルヴィーク側の代表が、重ねて尋ねてきた。年配の、穏やかな物腰の人物だった。詰問するというより、純粋に確認しているだけの口調が、かえって応えた。
「わたしが、担当しております」
「失礼ながら、以前は、別の方がこうした精査を」
言葉が、途中で止まった。相手の視線の先に、自分ではなく、会議室の隅に控える若い書記官が映っているのに気づいた。書記官が、気まずそうに目を逸らす。
「シグリ嬢でなければ、この種の齟齬は見抜けないと、以前、聞いたことがあります」
その名前が、他国の代表の口から出た。動揺を、顔に出さないよう努めた。だが、指先の震えまでは、抑えられなかったかもしれない。
休憩の間、廊下で若い書記官を捕まえた。
「今の話は、どこから聞いた」
書記官は、少し怯えた様子で視線を泳がせた。
「以前、隣国の外交官の方と、雑談の折に。あちらでは、有名な話だそうです。エイレンベルクには、条文の機微を読む目を持つ方がいた、と」
「その外交官というのは」
「お名前までは。ただ、隣国の外交府では、名の知れた方だと」
有名な話。他国で、そう語られている。この国では、誰もまともに語ったことのない話が。
「ベリト様」
書記官が、おそるおそる続けた。
「シグリ様は、今、どちらにいらっしゃるのでしょうか」
答えられなかった。知らない、というのが、正直なところだった。噂に聞く「有名な話」の出所すら、自分は把握していない。六年、あれほど近くで働きを見てきたはずなのに、今どこにいるのかさえ知らない。その事実が、じわりと重くのしかかった。
執務室に戻り、机に向かった。六年間、何度も見てきた光景を思い出す。シグリ嬢が差し出す下書きには、いつも、こちらが見落としていた一文への手当てが、さりげなく加えられていた。指摘するでもなく、押し付けるでもなく、ただ、直っていた。気づいた時には、もう修正済みだった。
一度だけ、進言しようとしたことがある。三年前、評議会の席で。シグリ嬢の働きを、正式な役職として認めるべきではないか、と。
その日、発言する順番は、確かに回ってきていた。口を開きかけて、結局、別の議題に話をすり替えた。
けれど、口を開く前に、算段が先に立った。役職を与えれば、俸給が要る。前例のない人事は、評議会で紛糾する。何より、婚約者という立場のまま働かせておく方が、家計上も、体裁の上も、都合が良かった。誰の懐も痛めず、誰の顔も立てず、ただ、静かに国が回る。それ以上に、都合の良い仕組みが、他にあるとは思えなかった。
その算段を、誠実さの欠如だとは、当時は思わなかった。ただの実務判断だと思っていた。数字に強い、有能な補佐官らしい判断だと、むしろ、誇らしく思っていた節さえある。
会議を終え、王都へ戻る道中も、頭の隅から離れなかった。屋敷に着くと、その足で、かつてシグリ嬢が使っていた控えの間に向かった。誰も手をつけていないはずだった。
机の上に、小さな鍵が一つ、置かれたままになっていた。侍女に尋ねると、部屋の隅の木箱のものだという。開けてみると、六年分の書簡の写しが、几帳面に束ねられて収まっていた。一枚一枚に、見覚えのある筆跡の訂正が入っている。誰にも見せるつもりのなかった、彼女だけの記録だった。
穀物取引の覚書、灌漑用水の分配協定、国境の関税見直し。どれも、記憶にある文書ばかりだった。三年前の冬、決裂寸前だった交渉をまとめた「猶予期間」の一文も、その中にあった。末尾の署名は、すべて殿下のものだ。訂正の筆跡だけが、シグリ嬢のものだった。
束の一番下に、一枚の紙片が挟まっていた。誰宛でもない、走り書きのような文字。「見落としではない。仕組みだ」。その一文だけが、書かれていた。
意味を、考えた。考えるうち、腑に落ちた。シグリ嬢は、気づいていたのだ。自分たちの誰よりも、ずっと早く。
条約の写しを、もう一度めくる。三箇所の「巡回」という文字が、今は、違う顔をして見える。
自分は、誰よりも早く、シグリ嬢の値打ちに気づいていた。気づいていながら、都合よく黙っていた。無知だったヴァルダー殿下より、質が悪いのかもしれない。知っていて、黙っていたのだから。
殿下は、知らなかったから尋ねなかった。自分は、知っていて、なお黙っていた。どちらが罪深いか、答えは、考えるまでもなかった。
紙片を、そっと束に戻した。木箱の蓋を閉じ、鍵をかける。今度は、自分がその鍵を、机の抽斗にしまった。誰に見せるものでもない。ただ、捨てられなかった。
評議会には、この会議の結果を、明日にも報告しなければならない。何をどう報告すればいいのか、まだ、言葉が定まらなかった。
窓の外、国境の空は、今日も変わらず曇っていた。
自分の沈黙こそが、あの方の名前を一番長く隠していた。




