第五話 あなたの名前で、働いていただきたい
国境の検問所から、伝令が届いたのは正午前だった。
その日の朝、窓の外を三度見た。理由をつけて外交府の廊下を歩き、正面玄関の様子を確かめたことも、一度や二度ではない。誰かに気づかれれば、決まりが悪い。それでも、机に落ち着いていられなかった。書類の同じ行を、何度も読み返しては、内容が頭に入ってこないことに気づいた。
同僚の一人に、「何かお待ちですか」と尋ねられた。「いえ、特には」と答えた自分の声が、思いのほか硬かった。
「エイレンベルクより、旅行者が二名、国境を越えられました。お尋ねの人相と、一致するように思われます」
伝令の言葉に、思わず立ち上がっていた。椅子が、後ろに大きな音を立てて倒れた。慌てて元に戻す。
以前から、国境警備隊長にそれとなく頼んでおいたことだった。エイレンベルクから来る旅行者で、該当する人相の者があれば知らせてほしい、と。理由までは、説明しなかった。半年前に手紙で伝えた言葉が、本当に意味を持つ日が来るとは、正直なところ、確信が持てずにいた。
執務室を出て、外交府の正面玄関へ向かった。表向きの理由は、隣国からの来訪者への儀礼的な出迎え。誰も、それ以上を詮索してこなかった。
馬車が着いた。降りてきたのは、旅装のシグリと、連れの侍女らしき女性だった。二日分の埃をかぶった鞄を一つ、御者から受け取っている。荷物の少なさに、まず目がいった。手紙のやり取りで知っていた几帳面さからすれば、これほど身軽な旅装は、意外だった。
侍女が、深く一礼した。
「ノラと申します。シグリ様にお仕えしております」
シグリの表情は、思っていたより落ち着いていた。旅の疲れは見えるが、追い詰められているようには見えない。それが、かえって気にかかった。
「本当に、いらしたのですね」
思っていたより、平静な声が出た。安堵より先に、確かめたいことがあった。
「お加減は」
「大丈夫です」
短い返事だった。手紙の文体と、同じ声だった。
ノラのための部屋も、別に用意させていた。シグリの侍女という以上のことは知らなかったが、二人分の宿を確保しておくことくらい、当然の準備だった。
「ご丁寧に、ありがとうございます」
ノラの声は、思っていたより落ち着いていた。
ノラは荷物を抱えたまま、控えめに一礼した。案内の者について先に下がっていく背中を見送りながら、この六年、シグリのそばにいた人間が、他にどれだけいたのだろうと考えた。少なくとも、エイレンベルクの宮廷には、あまり多くなかったのではないか。
五年前、国境紛争の調停の場で、初めて顔を合わせた。会議室の隅、末席に近い場所に座らされていたのを覚えている。当時はまだ若輩の随員で、発言の機会もほとんどなかったが、シグリが書いた覚書の一文にだけ、どうしても引っかかった。「この言い回しですと、貴国側に有利すぎて、後に禍根を残しませんか」。差し出口だったかもしれない。上官の視線が痛かったのを覚えている。けれど、シグリはその場で頷き、迷わず書き直した。あの日、自分の指摘を素直に受け止めた相手は、シグリだけだった。
それから、事務的な確認事項をやり取りするうち、いつからか、季節の挨拶が添えられるようになった。返事を書くのが、義務でなくなっていくのが、自分でも分かった。
三年前の冬、届く手紙の言葉選びが、妙に慎重になった時期があった。一文一文、隙のない書き方で、まるで、誰かに読まれることを前提にしているようだった。国境交渉が難航していると、風の噂に聞いていた頃と重なる。心配は口にしなかった。ただ、返事の中に、なるべく気軽な話題を増やすようにした。北方の菓子の作り方や、外交府の飼っている猫の話など、他愛のない内容を選んで書いた。数週間後、シグリの文面が、少しずつ緩んでいくのが分かった。あの時、何があったのかは、今も聞いていない。
「半年前にお伝えした話ですが」
「まだ、有効でしょうか」
「もちろんです。ただ、急ぐ必要はありません。まず、休んでいただいて構いません。それから、本当にお望みなら、ということで」
シグリが、小さく首を振った。
「休むより、動いていたいのです。今は」
その答えに、無理をしているようには聞こえなかった。むしろ、久しぶりに、素の声を聞いた気がした。
何があったのか、訊きたい気持ちはあった。エイレンベルクで何が起きたのか、なぜ、この日を選んだのか。けれど、訊かないことにした。話したくなった時に、話してくれればいい。急かして良いことなど、一つもない。
執務室に案内すると、机の上に、開封前の書簡が数通置かれていた。
外交府の三階、南向きの部屋だった。窓からは、国境の山並みが見える。この部屋を空けておくと決めたのは、半年前だった。誰かに理由を尋ねられたら、来客用だと答えるつもりでいた。実際に使う人が現れるとは、半分も信じていなかった。
机の抽斗には、真新しいペンと、上質な便箋を一揃い用意してあった。彼女の字を思い浮かべながら選んだ、少し硬めのペン先だった。使われないまま埃をかぶる日が来るかもしれないと思いながらも、選ぶ手は止まらなかった。
「これは」
「南方の穀物商人組合から、輸入関税についての問い合わせです。返答の方針は、あなたの判断に任せます」
「わたしの判断で、よろしいのですか」
「ここでは、そうしていただきます」
シグリの手が、書簡の束に伸びかけて、止まった。
「エイレンベルクでは、判断は殿下がなさるものでした。わたしは、案を書くだけで」
その声には、六年分の習慣が、まだ色濃く残っていた。判断は他人がするもの、自分は下書きを整えるだけの立場。そう思い込んでいる声だった。
「存じています。あなたの案が、いつも通っていたことも」
「なぜ、ご存じなのですか」
「あなたの書く覚書は、癖があります。譲歩の一文の前に、必ず、相手を立てる言葉を一つ挟む。あの癖のある文書が、そのまま殿下の署名で発布されるのを、何度も見てきました」
シグリの目が、わずかに見開かれた。
「気づいて、いらしたのですか」
「調停の場にいた頃から、ずっと。あなたの言葉には、書いた人にしか出せない癖があります。それを、殿下の言葉として読むたび、少し、奇妙な気持ちになりました」
言い過ぎたかもしれない、と思ったが、引っ込めるつもりはなかった。
シグリは、黙っていた。窓の外の山並みに、視線をやっている。何を考えているのか、表情からは読み取れなかった。ただ、肩の線が、さっきより、わずかに柔らかくなっている気がした。
その様子を見て、これでよかったのだと思った。連れ去ったのではない。ただ、選べる場所を一つ、示しただけだった。あとは、シグリ自身が決めることだった。窓の外の山並みが、午後の光を受けて、輪郭をくっきりと浮かび上がらせていた。
「ただ、一つだけ、エイレンベルクとは違うことがあります」
「何でしょうか」
「この国では、あなたの仕事に、あなたの名前がつきます」




