第四話 すぐに戻るだろう、と思っていた
机の上の書類が、いつもと違う順番で積まれていた。
いつもなら、朝一番に確認すべき書類が一番上に来ている。今朝はそうではなかった。侍従が不慣れな手つきで並べたのだろう、程度にしか思わなかった。
紅茶の温度も、少し違った。いつもより熱すぎる。淹れ方を誰かに教えたことは一度もない。ただ、いつも、ちょうどいい温度で出てきていただけだ。飲みながら、口の中を軽く火傷した。
着替えの支度も、いつもより時間がかかった。ボタンの掛け違いを、鏡の前で二度も直す羽目になった。
「シグリはどうした」
朝の身支度を整えながら尋ねると、侍従が困ったように視線を泳がせた。
「本日はまだ、お姿を見ておりません」
「休んでいるのだろう。近頃、根を詰めていたようだから」
根を詰めていた、とは言ったものの、具体的に何をどれだけ詰めていたのか、説明しろと言われれば困る。ただ、笑顔の作り方が、近頃やけに滑らかだと感じていたことは、覚えている。
自分の言葉に、満足した。夜会の場から退かせ、公務に専念させると決めたのは、シグリの負担を思ってのことだった。休むというなら、それも良いことだ。負担を軽くしてやったのだから、感謝されこそすれ、非難される筋合いはない。
執務室に入ると、書記官が待っていた。
「殿下。ハルヴィーク公国より、国境の巡回協定について、至急の返答を求める書簡が届いております」
半年前にシグリがまとめた協定の、更新の時期だった。放置すれば、協定は自動的に失効し、国境の管理は振り出しに戻る。急ぎの理由は、それだけだった。
いつもなら、シグリに一読させ、返信の草稿を任せればよかった。今日は、その相手がいない。
「わたしが書く」
その言葉が、思っていたより軽く口から出た。六年、隣で見てきたのだ。同じように書けるはずだった。
書記官が、少し驚いたような顔をしたのを、見なかったことにした。
机に向かい、便箋を広げる。書き出しの一文からして、詰まった。「両国の友好に鑑み」と書きかけて、これはシグリがよく使っていた言い回しだと気づく。同じ言葉を選べば、同じ意味になると思っていた。
ペンを止め、破棄する。二枚目も、三行目で止まった。語調が硬すぎる。三枚目は、逆に砕けすぎているように見えた。加減が、どうにも掴めない。何度読み返しても、正しいのかどうか、判断がつかなかった。
四枚目の便箋を前に、ペンが止まった。
母上に相談することも、頭をよぎった。だが、すぐに思い直した。婚約者一人の不在ひとつ扱いかねているのかと思われるのは、業腹だった。誰にも頼らず、自分で片付ける。それでこそ、次の代の王だ。
窓の外を、庭師が横切っていくのが見えた。日はもう高い。半刻ほどかけて、どうにか一枚を書き上げた。手応えは、悪くないように思えた。
ベリトに確認させると、眉間に皺が寄った。
「殿下。ここの一文、少々語気が強すぎるように思います。国境の『巡回』という言葉ですが、ハルヴィーク語では、我が国が想定するより踏み込んだ意味に取られる可能性がございます」
「そうなのか」
知らなかった。今まで、そんなことを気にした覚えはない。ハルヴィーク語の教師をつけたことも、つけようと考えたことすらなかった。
「シグリ嬢でしたら、このあたりの機微をよくご存じでしたが」
その名前が出た瞬間、苛立ちが顔に出た。
「シグリはシグリだ。わたしはわたしのやり方でやる」
そう言い返しながらも、ベリトの指摘通りに語を差し替えた。けれど、直したところで、本当にこれで良いのか、確信は持てなかった。もう一度、頭から書き直すことにする。
「殿下、少しよろしいですか」
扉の隙間から、フリーダが顔を覗かせた。
「シグリ様は、まだお加減が優れないのでしょうか。侯爵夫人へのお礼状の件、まだお礼を申し上げられていなくて」
「ああ……もう少し、休ませてやってくれ」
フリーダは素直に頷いて、部屋を出ていった。特に気にする様子もなかった。誰も、まだ大事だとは思っていない。自分もまだ、そう思っていなかった。少なくとも、そう思おうとしていた。
書記官が退室すると、部屋にはひとりになった。
シグリは、こんなことになると分かっていて、何も告げずに休んだのだろうか。そう考えて、すぐに打ち消した。休むことの何が悪い。六年働き詰めだったのだから、一日くらい構わないはずだ。むしろ、これくらいの不便で済んでいるうちは、大した問題ではない。
インクが、便箋の上で滲んだ。ペン先を、いつもより強く押し付けすぎていたらしい。舌打ちが漏れる。
けれど、書き直しながら、疑問が浮かんだ。
シグリは、これをどうやって毎回、あれほど滑らかに仕上げていたのだろう。
シグリがいつ、これらの文書に目を通していたのか。誰から、隣国の言葉の機微を学んだのか。夜会の合間に、いつ執務室に立ち寄っていたのか。
考えてみると、何も知らなかった。訊いたことすら、なかった気がする。
三年前の冬、ハルヴィーク側との交渉が決裂寸前まで行った夜のことを思い出す。評議会の誰もが匙を投げる中、翌朝には「猶予期間を設ける」という案で、事なきを得た。
あれは、自分で思いついた案だったはずだ。夜通し悩み抜いた末に、朝になって、答えが自分の中に浮かんでいた。……いや。正確に思い出そうとすると、案を最初に口にしたのが誰だったか、はっきりしない。
あの夜、隣室に明かりがついていたことは覚えている。シグリが、書き写した紙を並べ替えていた。朝、評議会に向かう前に、扉越しに何か言葉を交わした気もする。内容までは、思い出せなかった。
婚約したばかりの年、シグリが初めて返書を手伝ってくれた夜のことは、覚えている。「言葉遣いが分からない」と漏らした自分に、シグリは迷いなくペンを取った。迷いのない筆跡だった。育ちの良さゆえの手習いだろう、程度にしか、その時は思わなかった。あれから六年、頼るのが当たり前になった。当たり前になりすぎて、いつからか、それがどれほどの手間なのか、考えることをやめていた。
また新しい便箋を広げ、書き出しの一文を記す。窓の外で、鐘が正午を告げた。まだ、一通も送り出せていない。
シグリが戻れば、また元通りになる。そう思いながら、ペンを握り直した。近いうちに、戻ってくるだろう。そのはずだった。
戻ってきたら、休みを取らせすぎたことを詫びるべきかもしれない。いや、詫びる、というのも違う気がする。何に対して詫びればいいのか、正確なところが分からなかった。
そもそも、詫びるようなことをした覚えはない。夜会から退かせたのは、優しさのつもりだった。今もまだ、そう思いたい自分がいる。
ただ、机の上に積まれた、まだ何一つ完成していない便箋の山を見下ろしながら、一つだけはっきりしたことがあった。紙の山は、静かに積み上がっていくばかりで、何も答えてはくれない。
婚約者と呼んでいた六年に、自分は一度も仕事の中身を尋ねていなかった。




