第三話 もう、行きますと告げた
夜明け前の空気は、思っていたより冷たかった。
荷物は、革張りの旅行鞄ひとつに収まった。
六年分の暮らしが、これほど小さくまとまるとは思わなかった。ドレスは実家の紋章が入ったものを除いて置いていく。宝飾品は、婚約の証となるものすべてを、寝室の卓上に並べてきた。指輪も、首飾りも、贈られた順に並べたら、六年という時間が、存外きれいに一列に収まった。
持っていくと決めたのは、着替えの数着と、身分を証明するための最低限の書類、それに母から譲られた古い懐中時計だけだった。
書斎の机には、もう一つ、別の束を残してきた。この六年の職務内容を、誰が見ても分かるように箇条書きにした引き継ぎ資料。宛先は、ベリト様とした。殿下ではない。
最後の一枚には、こう書き添えた。「ハルヴィーク公国との書簡は、言い回し一つで意味が反転する箇所が複数あります。念のため、写しを机の右下の抽斗にまとめてあります」。私怨も、恨み言も、一言も書かなかった。それだけは、最後まで崩したくなかった。ペンを置いた時、指先に、いつもと変わらない疲れがあった。それだけが、少し可笑しかった。
扉の前で、ノラが待っていた。子供の頃からわたしに仕えてくれている侍女で、この屋敷でただ一人、荷造りを手伝ってほしいと頼んだ相手だった。
「シグリ様。本当に、これでよろしいのですね」
ノラの声は、驚いているようには聞こえなかった。むしろ、長く用意していた問いのようだった。
「ええ」
「わたくし、三年前から、この日が来るのではと思っておりました」
思いがけない言葉に、手が止まる。
「どうして」
「シグリ様は、お疲れの時ほど、笑顔がお上手になられますから」
返す言葉がなかった。誰にも気づかれていないと思っていたことを、一番近くにいた人だけが、ずっと見ていたのだ。
「ノラ。あなたは、この屋敷に残った方が安全よ。行き先も定まらない旅に、付き合わせるわけには」
「シグリ様」
ノラが、珍しく言葉を遮った。
「わたくしの父は、この屋敷の厩番でした。母は洗濯場で働いておりました。ここに残ったところで、次にわたくしを見てくださる方が、シグリ様のように接してくださる保証は、どこにもございません」
それ以上は、何も言わなかった。荷造りの手を、淡々と動かし続けるだけだった。
「手紙は、すべてお持ちになりますか」
寝室の抽斗から、紐で束ねた手紙の束を取り出す。差出人は、トルケル・スコグ。隣国ハルヴィーク公国の外交官で、五年前、国境紛争の調停で一度だけ顔を合わせたことがある。
あの時、彼はまだ若い随員の一人に過ぎなかった。会議の合間、こちらが書いた覚書の一文について、ただ一点だけ、静かに指摘してきた。「この言い回しですと、貴国側に有利すぎて、後に禍根を残しませんか」。指摘は正しかった。その場で書き直した。
それから、文通が始まった。最初は、調停に関する事務的な確認事項だけだった。いつからか、それだけではなくなっていた。季節の挨拶に紛れて、こちらの国の外交文書の言い回しについて、彼が意見を求めてくるようになった。返事を書くのが、いつからか、義務ではなく楽しみになっていた。
半年前の手紙には、こう書かれていた。
「もし、いつか、あなたの働きに見合う場所を探すことがあれば、この国の外交府には、常に席がある」
契約でも、求婚でもなかった。ただ、扉が一つ、開けたままにされていた。
ノラだけが、この文通を知っていた。手紙を密かに取り次いでくれていたのは、ほかでもない彼女だった。
「殿下には、内緒にしていて、悪いことをしたと思っている?」
「思いません」
ノラの返事は、迷いがなかった。
「シグリ様がご自分のために動かれたことなど、この六年で一度もございませんでしたから」
手紙の束を鞄に収め、留め具を閉じる。
手袋を、片方ずつ外した。婚約の間、片時も外すことのなかった正装用の手袋だった。ノラが、黙ってそれを鞄の内側に仕舞ってくれる。
素手のまま、鞄の持ち手を握った。革の感触が、思っていたより硬かった。
姿見の前を通りかかった。婚約が決まった年に、殿下から贈られた鏡だった。旅装のわたしが、そこに映っている。見慣れた顔のはずなのに、今夜だけは、誰か別の人のように見えた。
化粧台の抽斗に、鏡と揃いの櫛が入っている。それも、置いていくことにした。持っていくものは、もう十分だった。
部屋を見渡す。婚約から六年、ここで暮らした部屋は、驚くほど何も語らなかった。わたしの痕跡は、この部屋ではなく、この国の書類のあちこちに散らばっている。
寝台の上に、鍵を一つ置いた。控えの間の木箱の鍵だ。中身をどうするかは、見つけた人に委ねることにした。
廊下は、夜番の交代までまだ間があった。使用人たちの通用口を使えば、正門の衛兵に姿を見られずに済む。この屋敷の見回りの時間割は、去年、警備計画を整えるよう頼まれた時に、自分でまとめたものだった。皮肉なことに、その知識が今、一番役に立っている。
厨房の脇で、竈の火の始末をしていた下働きの少年とすれ違った。少年は小さく会釈をして、すぐに手元へ視線を戻した。この時間に誰かが屋敷を出ることに、疑問を持つ様子はなかった。誰も気づかないことに、これほど助けられる日が来るとは思わなかった。
裏門に、覆いの掛かった小さな馬車が待っていた。御者は、ノラが以前から懇意にしている商人の紹介だという。目立たない、けれど信頼できる相手だった。
ノラが先に乗り込み、わたしも続いた。
御者が手綱を握る音がして、車輪が動き出す。
窓の外を、王宮の尖塔が過ぎていく。ノラが、そっとこちらを窺っているのが分かった。振り返るかどうか、試しているのかもしれない。
わたしは、前だけを見ていた。
胸の内側に、妙な軽さがあった。何かを失った実感より先に、長く詰めていた息を、ようやく吐き出せたような感覚だった。
「寂しくは、ございませんか」
「分からない」
正直な答えだった。寂しさより先に、別のものが満ちている。名前のつけ方が、まだ分からないだけだった。
ノラは、それ以上訊かなかった。窓の外に視線を戻し、代わりに小さく笑った。
馬車が石畳から土の道に変わる橋を渡った。振動が、これまでより大きくなる。ノラが、膝の上の鞄をそっと押さえた。
振り返らない理由を、誰かに説明する必要はなかった。未練がないからではない。六年分の記憶は、簡単に手放せるものではなかった。灯り一つ、廊下の匂い一つにも、覚えていることが多すぎた。
けれど、もう決めたことだった。決めた道を、後ろ向きに歩く人はいない。
御者が、国境までの道のりを短く告げた。二日、天候が崩れなければ。ハルヴィークに着いた先で何が待っているのか、正確なところは分からない。それでも、初めて、自分の意思だけで選んだ行き先だった。
馬車が、王都の門を抜けていく。
振り返らなかったのは、未練がなかったからではなく、もう決めていたからだった。




