第二話 誰も読まなかった手紙
蝋の匂いが、いつもより強く鼻についた。
自室の隅、普段は開けることのない木箱を、机の上に運んだ。留め金は少し錆びている。もう何年も、動かしていなかった。
中には、この六年分の書簡の写しが入っている。誰に頼まれたわけでもない。殿下から「公務に専念してくれればいい」と言われた翌朝、何が公務にあたるのか、自分でも確かめておきたくなっただけだった。
写しを取っておく癖は、婚約の一年目からのものだ。控えがあれば、後日の行き違いを防げる。それだけの、実務上の理由のはずだった。
けれど、始まりはもっと単純だった。婚約が決まったばかりの頃、殿下はまだ十八で、外交文書の作法に不慣れだった。ある夜、ハルヴィークへの返書の下書きを前に、珍しく弱音を漏らした。「言葉遣いが分からない」。わたしは何も考えずにペンを取った。
助けになれることが、単純に嬉しかった。役に立てるという実感は、婚約者としての心細さを埋めてくれた。誰かに必要とされることと、対等に扱われることは、別の意味を持つのだと、あの頃のわたしはまだ知らなかった。
一枚目を手に取る。ハルヴィーク公国との穀物取引に関する覚書。下書きの筆跡は、わたしのものだ。末尾には、王家の紋章を押した大きな封蝋。
蝋の下に、かつて自分が書き添えた一文があったはずだった。透かしてみても、もう読めない。
二枚目、三枚目と続けて広げる。灌漑用水の分配協定。国境の関税見直し。祝宴の口上、隣国の慶事に贈る祝辞。改まった場でこの国の声となる言葉は、たいてい同じ経路をたどった。まずわたしが書き、殿下が読み、拍手を受ける。
書き込んだ注釈も、言い回しの提案も、清書の段階でひとつ残らず消え、最後には封蝋だけが残っていた。
関税見直しの書類には、もっと個人的な記憶がある。
三年前の冬、ハルヴィーク側との交渉が難航し、決裂寸前まで行った夜のことだ。評議会の誰もが匙を投げ、殿下も執務室で頭を抱えていた。暖炉の火はとうに落ち、部屋の隅から冷気が這い上がっていたのを覚えている。わたしは隣室で、双方の言い分を書き写した紙を、明け方近くまで並べ替え続けた。
「猶予期間を設ければ、双方とも面目が立ちます」
そう進言したのは、夜が明ける少し前だった。殿下はその案をそのまま評議会に持ち込み、翌朝には合意が成立した。祝杯の輪に、わたしは呼ばれなかった。呼ばれるようなことをしたつもりも、なかった。
穀物取引の覚書のおかげで、二年前の飢饉は最悪の事態を免れたのだと、後になって聞いた。
「シグリ様がまとめてくださったおかげで、我々は署名するだけでよかった」
そう言ってくれたのは、覚書を交わした相手国の使者だった。殿下ではない。
その言葉を、当時は誇らしく思った。今、同じ言葉を思い出すと、封蝋を撫でていた手が止まる。
誇らしい、と受け取ったのは、褒められたと思ったからだ。けれど、あれは褒め言葉ではなく、ただの事実だったのかもしれない。わたしがまとめたから、誰も苦労せずに済んだ。それだけの。
扉が叩かれた。
「失礼いたします。ベリト様より、明日の評議会資料の清書をとのことで」
侍女が、書付を差し出してくる。開くと、ベリトの几帳面な字で、必要な項目だけが箇条書きにされていた。挨拶の一言もない。いつものことだ。
ベリトは有能な人だ。評議会の誰よりも数字に強く、抜け目がない。その人が、六年間これを当然のこととして受け取り続けてきたということが、今になって、妙に引っかかった。気づいていて頼んでいるのか、気づかずに頼んでいるのか。どちらなのか、わたしには分からなかった。
わたしは机の端から新しい紙を取った。ペンを取ったところで、動きが止まった。
この六年、頼まれた清書を断ったことは一度もない。今日も、同じようにペンを走らせればいい。
けれど、最初の一文字を書くまでに、いつもより長く紙を見つめていた。
窓の外では、日が傾き始めていた。書き物机の影が、机の端まで伸びている。
書き終えた清書を、侍女に渡す。
扉が、もう一度叩かれた。
「シグリ様、少しよろしいでしょうか」
今度はフリーダだった。手に、書きかけの便箋を持っている。
「明日、ハルヴィークの侯爵夫人へお礼状を書かねばならないのですが……こういう時、どのような言葉を選べばよいのか分からなくて」
差し出された便箋に目を通す。丁寧だが、型通りの言葉が並んでいるだけだった。
「相手の好むものを、一つだけ具体的に書き添えるといいわ。侯爵夫人は、薔薇がお好きなの」
「まあ、そんなことまでご存じなのですね」
フリーダの目が輝いた。屈託のない反応だった。
「殿下から伺ったの」
嘘だった。侯爵夫人の好みを覚えていたのは、五年前、彼女の訪問に合わせて庭の一角を薔薇園に作り替えるよう手配したのが、わたし自身だったからだ。
フリーダは礼を言って部屋を出ていった。扉が閉まる音を聞きながら、机の上の古い写しの山に、視線を戻した。
見落とし、だと思おうとしてきた。六年の間、ずっと。殿下も、王妃陛下も、ベリト様も、悪気があってわたしを見過ごしているわけではない。忙しさのあまり、気づく余裕がないだけだと。
そう思っている間は、まだ楽だった。誰も悪くない、いつか気づいてもらえる、そう信じていられたから。
けれど、覚書の封蝋を、もう一度指の腹でなぞる。透かしても読めない一文を、それでも見つけようとする自分がいる。
見落としなら、いつか気づかれる。けれど、これは違う。見落とされているのではなく、最初から見なくてよいものとして、扱われてきただけだ。
必要な部分だけを引き出し、名前が残る部分だけを、封蝋の下に隠す。それは、見落としではない。仕組みだ。
小さく息を吐いた。言葉にすると、思っていたよりもはっきりしていた。
見落としではない。これは、搾取だ。
声に出さずに、その言葉を確かめる。誰かを責めるための言葉ではなかった。ただ、六年かけてようやく見つけた、正確な言葉だった。
この事実を知ったところで、明日から何かが変わるわけではないのかもしれない。それでも、知らずにいた昨日とは、もう同じ場所には立てない気がした。
穀物取引の「分配」という言葉も、関税見直しの「猶予」という言葉も、みな、わたしが選んで書いたものだ。殿下の口から発せられ、この国の法として残っていく言葉のいくつかは、最初、わたしのペン先から生まれたものだった。
誰も、そうとは知らずに使っている。
写しの束を、もう一度端から重ね直す。捨てはしない。ただ、しまう場所を変えることにした。
木箱の底に、小さな鍵がついていることに、このとき初めて気づいた。今まで、鍵をかける必要などないと思っていた場所だった。誰にも見られたくないものが、自分にあるとは思っていなかった。
蓋を閉じ、鍵を回す。かちり、という音が、思っていたよりも大きく響いた。鍵は、そのまま自分の懐にしまった。
この国の言葉のいくつかは、わたしが選んだものだった。




