第一話 公務に専念してほしいと、殿下は仰った
「シグリ様、少しお疲れのように見えます」
支度を手伝う侍女が、鏡越しに小さく言った。
「大丈夫よ。いつものことだから」
そう答えながら、いつものこと、という言葉が、近頃やけに増えている気がした。
手袋のボタンを留め終えたとき、右手だけ、いつもより時間がかかった。爪の脇に、夜会用のインクの色がまだ薄く残っている。
今宵の乾杯の辞は、わたしが書いた。殿下の口調に合わせて、語尾だけを直していただく形で。いつものことだ。
六年前、隣国からの使者を迎える夜会で、草稿が届いたのは開宴の一刻前だった。誰も気づいていなかった一文の誤りを、わたしが書き直した。それからずっと、こうして先に手を入れるのが役目になった。頼まれたわけではない。気づいた者が直す。それだけのことだったはずだ。
控えの間で、招待客の名簿をもう一度なぞる。ハルヴィーク公国からの使者の席順。遅れて到着する伯爵夫人の扱い。そして、今夜初めて社交界に上がる令嬢の紹介順。
フリーダ・ノルダール。殿下が、直々に紹介すると仰った相手だった。
婚約して六年。誰かを事前に調べ、根回しをするのは、数え切れないほど繰り返してきたことだ。今夜もそのはずだった。
大広間へ向かう途中、階段脇の燭台が消えかけているのに気づいた。近くにいた従僕に合図すると、心得たように新しい蝋燭に取り替えていく。
「いつもお気づきくださり、ありがとうございます」
従僕が小さく言った。感謝を言われることには、慣れていた。それを言うのが、いつも使用人たちであることには、慣れきれていない。理由は、うまく言葉にできなかった。
大広間に入ると、灯りの数がいつもより多かった。楽団は、婚約の儀でも演奏された曲を選んでいる。その選曲を決めたのも、わたしだった。フリーダ嬢を迎えるための配置だと、わたし自身が指示したのだから、間違えようがない。
殿下がフリーダの手を取り、大広間の中央で紹介した。
「ノルダール伯爵令嬢だ。今宵より、共に多くの場に立ってもらう」
拍手が起きた。フリーダは淡い緑のドレスを纏っていた。裾に施された刺繍は、見覚えのある意匠だった。先月、仕立て屋に手本として渡した図案と、同じものだ。
フリーダは頬を染め、ちょうどよい角度で腰を落とし、礼をした。
三日前、控えの間でわたしが教えた角度だった。「深く下げすぎると、かえって卑屈に見えます。顎はこのくらいで」
フリーダは覚えが早かった。素直な娘だと思う。悪意があるようには、どうしても見えなかった。
フリーダの視線がこちらへ向き、小さく会釈をしてきた。それから、口の動きだけで「ありがとう」と伝えてくる。声には出さない、控えめな仕草だった。
わたしも同じだけ頭を下げ返す。それだけの、何でもないやり取り。
壁際で、招待客名簿の写しを胸元に抱えたまま、拍手をした。誰も、わたしの方を見ていない。それも、いつものことだった。
「シグリ嬢」
王妃陛下だった。扇の陰から、柔らかい声をかけてくださる。
「今宵も、そなたが采配を振るってくれたのだろう。ありがたいことだ。そなたがいれば、わたくしも殿下も、何ひとつ案じることがない」
「もったいないお言葉でございます」
頭を下げながら、ふと思う。案じることがない、というのは、褒め言葉のはずだった。
ハルヴィーク公国の書記官が、隣の貴族に何か耳打ちしているのが見えたのは、その直後だった。表情が硬い。
近づいて話を聞くと、理由が分かった。乾杯の辞の一節。「両国の永続の絆」という言い回しが、ハルヴィークの言葉では「絆」ではなく「拘束」に近い響きを持つのだという。
隣国の言葉は、誰に習ったわけでもない。六年分の外交文書に触れるうち、言い回しの機微が自然と身についただけだ。
「殿下」
小さく耳打ちした。殿下は一瞬眉を寄せ、けれどすぐにその場で言い回しを変えた。
「我ら両国の絆は、幾世代を経てなお、確かなものであり続けるだろう」
低く、よく通る声だった。会場から、感嘆混じりの拍手が起きる。
「殿下は本当にお言葉がお上手ですこと」
近くの貴婦人が、扇の陰でそう囁くのが聞こえた。
誰も気づかなかった。数分前まで、その一節が隣国の心証を損ねかけていたことを。書記官の表情が緩むのを、わたしだけが見ていた。
楽団が次の曲を奏で始めると、殿下はフリーダの手を取り、広間の中央へ導いた。
婚約したばかりの年、殿下と踊ったのは、片手で数えられるほどしかない。政務が立て込んでいたから、と聞いていた。今夜、その手が誰の手を取っているかを、わたしは壁際から見ていた。
夜会が終わりに差し掛かった頃、殿下がわたしを庭の回廊へ呼んだ。
夜風が冷たかった。回廊の向こうで、庭園の薔薇が月明かりに白く浮かんでいる。今年の剪定の指示も、わたしが出したものだった。棘を落としすぎず、けれど夜会用の裾に絡まない高さで、と庭師に伝えた覚えがある。
「シグリ」
「はい、殿下」
「今日もよく働いてくれた。……いつも、そうだが」
殿下は珍しく、少し言葉に詰まった。
「なんと言えばいいか……こう言うと、伝わり方が違うかもしれないが」
言い直そうとして、結局、最初に決めていた通りの言葉を選んだのだと分かった。
「これからは、公務に専念してくれればいい。夜会や茶会には、フリーダを連れて出ようと思う。君の負担も、少しは軽くなるはずだ」
何か言おうとして、口を開きかけた。けれど、続く言葉が見つからなかった。
わたしは頷いた。
「畏まりました」
短く、それだけを言った。もっと違う言葉が浮かびかけたけれど、うまく形にならなかった。
殿下は満足そうに頷き、フリーダの元へ戻っていった。足音が遠ざかる。振り返ることは、一度もなかった。
回廊を歩いて、控えの間に戻る。燭台の灯りが一つだけ、机の上を照らしていた。今夜のために整えた書類の束が、まだそこに残っている。招待客名簿の写し、席次の下書き、書き損じた乾杯の辞の反古。どれも、明日には誰かの手柄として片付けられているものだ。
一枚だけ、反古を拾い上げた。自分の字を見つめる。見慣れているはずの筆跡が、今夜だけ、他人のもののように見えた。
不思議だった。何かを取り上げられたわけではない。むしろ、これからは時間ができるはずだった。それなのに、体の芯だけが、妙に重い。
部屋は静かだった。楽団の音は、扉一枚隔てただけでほとんど聞こえない。
「公務」
小さく、声に出してみた。何度も紙に書いてきた言葉のはずなのに、自分の声で聞くと、知らない単語のように響いた。
書いてきた乾杯の辞も、整えてきた名簿も、選んできた言い回しも。全部、公務と呼べるものだった。
だから殿下の言葉は、正しい。何も間違っていない。
――いや。
正しいのに、どうしてこんなに、指先が冷えているのだろう。
手袋の中で、右手をそっと握った。さっきボタンを留めるのに手こずった指が、今はうまく開かない。
「公務」という言葉の中に、わたしの名前は、もう含まれていなかった。




