第十話 もう、誰かの名前では働かない
朝、机の上に、二通の書状が並んでいた。
一通は、エイレンベルクの紋章入り。婚約の正式な解消を告げる、簡潔な文書だった。もう一通は、今日の式典で交わす、国境巡回協定の最終条文。どちらも、同じ朝に届いたのは、偶然だった。それでも、何かの区切りのように思えた。
窓辺に立ち、朝の光に、両方の書状をかざしてみる。片方は過去を閉じる紙、もう片方は、これからを開く紙。同じ薄さの紙に、それぞれ、まったく違う重みが宿っていた。不思議と、天秤にかけるような気持ちにはならなかった。
婚約解消の書状には、目を通しても、思っていたほどの重みを感じなかった。六年分の関係が、たった数行に収まっている。それが寂しいのか、あっけないのか、自分でもよく分からなかった。ただ、確かなのは、この書状を読み終えても、何も失われた気がしないということだった。
ノラが、支度を手伝いながら、書状にちらりと目をやった。手を止め、少し考えるような間を置いてから、口を開いた。
「お寂しくは」
「分からない。ただ、今は、これからの条文の方が、気になっているの」
正直な答えだった。ノラは、それ以上何も訊かず、小さく笑んだだけだった。
支度を整え、外交府の大広間へ向かう。今日は、ハルヴィークとエイレンベルク、両国の代表が揃う、正式な調印式だった。廊下ですれ違う同僚たちが、口々に声をかけてくれる。「今日の主役ですね」と、誰かが笑って言った。悪い気はしなかった。
大広間には、両国の旗が並んでいた。エイレンベルク側の代表として、ベリトが到着していた。護衛と書記官を数名連れているだけの、簡素な一行だった。以前の、仰々しい随行とは、明らかに違う。
「シグリ様」
以前のような、どこか気まずさの残る態度ではなかった。まっすぐに、こちらを見て、頭を下げてくる。
「本日は、よろしくお願いいたします」
「こちらこそ」
短いやり取りだったが、そこに、対等な響きがあった。同じ卓に着く二人の交渉役として、初めて向き合っている気がした。
条文の読み合わせは、滞りなく進んだ。国境の巡回範囲、駐留の定義、両国の解釈の齟齬。かつて、自分がいなくなったことで露呈した問題は、今度は、自分の手で、丁寧に一語ずつ、誤解の芽を摘みながら、仕上げていった。
一節ごとに、双方の書記官が読み上げ、意味の齟齬がないかを確かめる。以前なら、この確認作業も、陰でこっそり手を入れるしかなかった。今は、正面から、堂々と言葉を選んでいる。その違いだけで、体の軽さが違った。
「シグリ様の起草された条文には、もう、齟齬の生じる余地がありませんね」
ベリトが、静かに言った。皮肉でも、世辞でもない、事実を確認するような口調だった。
「フリーダ様は、お元気ですか」
尋ねると、ベリトの表情が、少しだけ和らいだ。
「以前より、熱心に、外交の作法を学んでおいでです。まだ拙いところも多いですが、投げ出さずにおられます」
その返事に、小さく安堵した。フリーダを恨む気持ちは、最初から、どこにもなかった。
「六年分の、学びの成果です」
そう返すと、ベリトは、少しだけ表情を緩めた。
調印の段になり、羊皮紙が広げられた。末尾の署名欄には、両国代表の名を記す場所が、それぞれ用意されている。エイレンベルク側は、ベリトの名。ハルヴィーク側の欄に、ペンを構えた。
大広間に、静けさが満ちた。両国の随員たちが、固唾を呑んで見守っている。
これまで、数え切れないほどの文書に、自分の言葉を注いできた。乾杯の辞、覚書、条約の一文一文。どれも、末尾に記されるのは、いつも、誰か別の人の名前だった。それが当然だと、長い間、思い込んでいた。
今日は、違う。
もう、誰かの名前で働くことは、終わりにした。
心の中で、その言葉を、はっきりと確かめる。何かに向けて宣言するでもなく、ただ、自分自身に対して、静かに区切りをつけるための言葉だった。
ペン先を、羊皮紙に落とす。迷いのない一筆で、自分の名を記した。シグリ・フォン・ヴェスターハイム。生まれた時から持っていた、けれど、これまで一度も、こうした場で使われたことのなかった名前。
署名を終え、顔を上げると、離れた場所から、トルケルがこちらを見ていた。誇らしげでも、得意げでもない、ただ、静かに見守るような目だった。目が合うと、小さく頷いてくれた。それだけで、じゅうぶんだった。
会場に、控えめな拍手が起きた。エイレンベルク側の随員たちも、律儀に手を叩いている。ベリトが、こちらに向けて、深く一礼した。かつての、義務的な会釈とは違う、実のこもった礼だった。
書記官の一人が、羊皮紙を丁寧に巻き上げ、両国それぞれの写しを作る作業に取り掛かった。その手際を見ながら、六年前、自分もまた、同じように誰かの下書きを整えていたことを思い出した。今は、整える側ではなく、決める側に立っている。
式典が終わり、人が去った大広間で、トルケルが近づいてきた。
「良い条文でした」
「あなたが育ててくれた席です」
「いいえ」
トルケルは、小さく首を振った。
「わたしは、席を用意しただけです。そこに座り続けたのは、あなた自身の力です」
窓の外、夕暮れの光が差し込んでいた。二人分の影が、床に長く伸びている。
「エイレンベルクとの婚約は、今朝、正式に解消されました」
「存じています」
「驚かないのですね」
「あなたが、この日を選んで教えてくれるだろうと、思っていましたから」
その落ち着きが、かえって、こちらの緊張をほぐしてくれた。
「これから先も、この国で」
言いかけて、トルケルが、言葉を切った。いつもの、急かさない間だった。何かを問おうとして、それでも、最後の一押しをためらっているような沈黙だった。
「はい」
問われる前に、答えていた。自分でも、少し驚いた。
トルケルが、目を見開いた。
「まだ、何も」
「分かります。それでも」
トルケルの声が、わずかに掠れていた。彼にしては、珍しいことだった。
言葉を継ぐ。今度は、自分から。
「これから先も、ここで。あなたの隣で。それが、わたしの選びたい場所です」
一度言葉にしてしまうと、不思議なほど、すとんと胸に収まった。誰かに命じられたのでも、期待に応えたのでもない、初めて、自分だけで選んだ言葉だった。
トルケルが、静かに微笑んだ。安堵と、それを上回る何かが、その表情に滲んでいた。手を差し出すでも、抱き寄せるでもなく、ただ、隣に並んで立った。それだけで、じゅうぶんだった。
窓の外、夕日が、山並みの向こうに沈もうとしている。エイレンベルクの方角だった。かつて、あの空の下で過ごした六年間を、今は、もう恨んでいなかった。ただ、静かに、遠い場所として、心の中にしまうことができた。
大広間の灯りが、一つ、また一つと灯されていく。式典の後片付けをする従僕たちの声が、遠くから、かすかに聞こえてきた。
条文の末尾に記された名前は、もう誰かのものではなく、わたし自身のものだった。




