第9話 役員エリア(前編)
今回から、物語が大きく動き出します。
エレベーターが止まったのは、地下よりさらに上、役員用と表示されたフロアだった。
降りてすぐ、内装の違いに気づく。
地下の無機質な白い壁とは違い、この階は落ち着いた木目調で統一されていた。
分厚い絨毯が足音を吸い込み、廊下の先には重厚な扉がいくつも並んでいる。
「なんか、雰囲気違うな」
男が周囲を見回しながら言った。
「上級職員のフロアだから、それらしく作ってあるんだろ」
俺は素っ気なく答えながら、頭の中で先の展開を組み立てていた。
所長室があるエリアに入るには、このフロアのどこかにある上級役員のIDカードが要る。
それは、さっきシステムルームで確認した通りだ。
だが――正確にどの部屋にあるのかまでは、はっきりしなかった。
「手分けして探すか」
「それは駄目だ」
男の提案に、思わず食い気味に答えてしまった。
エマと男が、揃って驚いた顔でこちらを見る。
「……単独行動は、危険すぎる。ここでも化け物に会わない保証はない」
誤魔化すように付け加えたが、内心で冷や汗をかいた。
ばらばらに動かれては、俺の知っている展開から逸れてしまう。
それだけは避けたかった。それに小説ではこのエリアにも化け物がいたはずだ、危険なのは間違いなかった。
「まあ、確かにな」
男は納得したようにうなずき、三人でひとつずつ部屋を調べていくことになった。
いくつかの扉を開けたが、目当てのものは見つからない。
デスク、書類棚、応接用のソファ。
どの部屋も似たような造りで、カードらしきものはどこにもなかった。
「ないな……」
「こっちも、見つからないです……」
エマの声にも焦りが滲み始めていた。
時間だけが、無情に過ぎていく。
「まさか、別のフロアなのか……?」
男が呟いたそのとき、廊下の奥から、聞き覚えのある低い唸り声と床を伝う重い振動が届いた。
三人の動きが、同時に止まる。
「――嘘、だろ」
曲がり角の向こうから、あの巨体が姿を現した。
逃げ場のない、狭い廊下の真ん中で。
「後ろに……」
男が短く言って、庇うように前に出た。
だが、その足も明らかに震えている。
化け物が、ゆっくりと距離を詰めてくる。
俺は退路を探して視線を走らせたが、廊下の先は行き止まりだった。
(――まずい)
初めて、本当にまずいと感じた。
今までとは違う。逃げる場所がない。
その時だった。
化け物の背後、暗がりの奥から、何の前触れもなく黒い影が動いた。
一瞬のことだった。
鈍い光が走ったかと思うと、化け物の太い首から、勢いよく黒い血が噴き出した。
悲鳴すらあげることすらなく、巨体が糸の切れた人形のようにその場にドシャと崩れ落ちる。
気づいたときには、もう化け物の首が切られていてあたりに濃い血のにおいが一気に広がっていく。
先程までの緊迫感とは打って変わって、静寂が辺りを支配した。
誰も、声を出せなかった。
やがて、暗がりからその男が姿を現した。
高い長身と、艶のある黒い髪を後ろに流して、形の良い額が露わになっている。
整いすぎているせいでどこか現実味を欠いた顔立ちに、切れ長の目、シャープな顎のライン、返り血をわずかに浴びた白い頬には何の動揺も見えない。
感情の読めない赤い瞳が、無機質に化け物を見ていた。
男は手にしたナイフを、当たり前のように振って血を払った。
(――嘘だろ……本当にあの、凍黒玲なのか……?)
小説の中のヒーローである、この男を俺は知っているはずだった。
何度も読んだ物語の中で、この男がどれほど強く、どれほど理不尽で、容赦なく敵を殺すか。
それでも、実際にこの目でその姿を見ると、まるで別次元の存在を目の当たりにしたような衝撃があった。
あれほどの化け物を、たった一撃で仕留めた。
(さすが――)
思わず漏れかけた称賛を、俺は慌てて飲み込んだ。
今はお互い初対面のはずだ。驚きと突然の状況に動揺している顔をしなければならない。
玲は俺たちには一瞥もくれず、化け物の死骸の傍にしゃがみ込んだ。
何かを探すように、周囲を見回している。
やがて、少し離れた場所に転がっていた小さなカードケースを拾い上げ、こちらに向き直った。
「――探し物は、これですか?」
初日一挙9話投稿、お読みいただき、ありがとうございました。
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