第8話 エレベーターホール(後編)
装置のすぐ脇、暗がりになった曲がり角から、ずるりと重い音がした。
「――嘘、だろ」
思わず、声が漏れた。
化け物だった。それも、装置に近い位置に居座っている。
男が反射的に後ずさる。エマが小さく声を震わせながら呟いた。
「近づけないよ……あそこまで、行けない……」
装置は、化け物のすぐ脇にある。カードを読み込ませるには、あの至近距離まで踏み込まなければならなかった。
考えるより先に、足が動いていた。
装置までの距離、化け物の反応速度、あの鋭い鉤爪の届く範囲。走りながら、頭の隅が勝手に計算を始めていく。
――自分が引きつければ、装置に届く!
「こっちだ!」
俺は化け物に向かって駆け出しながら、大声を張り上げた。
廊下に反響する自分の声が、やけに遠く聞こえる。
巨体がゆっくりとこちらを向いた。突出した眼球が、俺一人に狙いを定めたのが分かる。
「透真さん!?」
エマの悲鳴のような声が、背中に飛んできたが振り返る余裕はなかった。
「今のうちに起動しろ! 早く!」
叫びながら、俺は化け物の視界のぎりぎり外側を回り込むように走った。すぐ側を鉤爪が空を切る音が聞こえた。
狙った通り、化け物はこちらへ釣られるようにゆっくり移動を始め、装置から離れていく。
視界の端で、男が装置に駆け寄り、震える手でカードをかざすのが見えた。
赤いランプが、緑に切り替わる。
「開いた……! エレベーター、こっちだ!」
「エマ、先に行け!」
そう叫んで、俺は化け物の注意を引きつけたまま、じりじりと後退した。
小説で読んだとおり、この化け物のスピードはそんなに速くない。
距離を測りながら、頭の中で退路を組み立てる。
エレベーターの扉が開く音がした。
男が叫ぶエマの背を押し、中へ押し込む。
「透真さんも、早く!」
化け物との距離を見計らい、俺は反転して化け物の後方、エレベーターへ向かって全力で駆け出した。
膨らんだ両腕が真上に掲げられ、それが振り下ろされる寸前、俺は体をずらしてその腕を避けた。
風圧が体の横を撫でるが、構わずにそのまま走り抜ける。
すぐ背後で、獣じみた咆哮が響いた。
扉が肩をかすめる寸前で、俺はエレベーターの中に転がり込んだ。
閉まりかけた扉の隙間から、伸びてきた鉤爪が空を切る。
扉が完全に閉まった瞬間、三人揃って、荒い息を吐き出した。
「……危なかった」
男が壁にもたれかかりながら呟いた。声が、さっきまでより少し高い。
強がっていたのは自分だけじゃなかったのだと、今更のように気づく。
「……助かったぜ、兄ちゃん。怪我はないか?」
気遣う言葉に「ああ」と返しながら俺は大きく息を吐き出した。
エマは俺の腕にしがみついたまま、まだ震えていた。俯いた顔が上がらない。
さっきの廊下の光景と今の化け物の姿が、まだ瞼の裏に焼き付いているのかもしれなかった。俺は何も言わず、その背中に軽く手を添えた。
狭い箱の中に、三人分の荒い呼吸だけが満ちていた。
誰も、しばらく口を開かなかった。
俺はといえば、心臓の音がうるさいくらいに鳴っているのを感じながら、天井を仰いだ。
(――なんで、あの時とっさに体が動いたんだ)
化け物に向かって駆け出した瞬間のことを、今更思い返す。恐怖がなかったわけじゃない。それなのに、迷いはほとんどなかった。
まるで、自分の命の優先順位が、一番低いところに置かれているみたいに。
その感覚に、俺は薄ら寒いものを覚えた。
(……まだ、これからだ)
これから向かう先には、もっと厄介なものが待っている。




