第10話 役員エリア(後編)
聞き心地のいい低音の声とともに、差し出された手には光沢のあるIDカードがあった。
役員権限の文字が、はっきりと刻まれている。
急に現れて化け物をあっさり倒した男に、誰もすぐには動けなかった。
俺はちらりとエマの様子を伺った。
地下室で出会えなかったヒーローとヒロインの、ここが出会いの場面となる。
気になる存在としてお互いを認識するはずだ。
「あ、ありがとう、ございます……」
エマはおそるおそる手を伸ばし、カードを受け取ると同時に安堵に息をついた。
玲は特に気にした様子もなく、すでに廊下の先へ視線を移している。
期待していたほどなにかある訳でもなく、玲とエマの反応はあっさりとしていて会話は終わった。
(これは、二人の出会いとしてうまくいった、のか……?)
いまいち確信が持てなくて、何度も玲とエマの顔を交互に見る。
そんな俺の様子を誰も気にすることなく、玲が話し始めた。
「所長室は、まだ先です。急いだ方がいいですよ」
「――待て、なんで所長室を……」
警戒するように玲を見ていた男が思わず声を上げた。
俺たちが所長室を目指していることを、玲に話した覚えはない。
それなのに、まるで最初から知っていたような口ぶりだった。
無機質な視線が一瞬だけこちらを向き、お互いの視線が合う。
玲は口の端をわずかに上げた。
「見れば分かりますよ」
それだけ言うと、迷いのない足取りで歩き出していた。
(――そういえば、なぜこのタイミングで玲がここに現れたんだ?)
俺は密かに、先を歩く背中を見つめた。
役員カードのありかも、化け物が現れるタイミングも、俺たちが所長室を目指していることも、すべてがタイミングよく出来すぎている気がする。
まさか――こいつ、俺たちの動きをどこかで見ていたのか?
その考えが浮かんだ瞬間、背筋がゾッとし、自分でも意外なほど鼓動が速くなるのを感じた。
この推測が当たっているかどうかは、分からない。
だがもしそうなら――俺が思っていたよりもずっと、この男は得体が知れなかった。
俺はその疑念を胸の内に留めたまま、玲の後を追った。
しばらく歩き続けると、役員フロアの奥、一際重厚な扉の前に俺たちはたどり着いた。
金色のプレートに「所長室」の文字。
エマが手に持っていた役員カードを扉脇の端末に翳すと、重い音を立てて鍵が外れた。
「――開いた」
男の声に、緊張と安堵が入り混じっていた。
中は他の部屋よりもさらに広く、格式張った造りだった。
大きな執務机、壁一面の書棚、応接用の重厚なソファ。
だが今はそのどれもが埃を被り、時が止まったかのように静まり返っている。
「カードキーは、この中のどこかに……」
エマが不安げに部屋を見回す。
俺は執務机に視線を向けた。あの物語の中では、確か――
「机の引き出しだ」
思わず口をついて出た言葉に、自分でも一瞬遅れて焦った。
玲が、わずかに眉を動かしてこちらを見る。
「――勘だ」
誤魔化すように付け加えたが、心臓が跳ねた。
今の言い方は、あまりにも確信めいていた。
男は特に気にした様子もなく、執務机に歩み寄り、引き出しを開け始める。
一段、二段。三段目を開けたところで、男の手が止まった。
「――あった」
取り出されたのは、小さな金属製のカードケースだった。
中には、他のものよりひときわ重厚な意匠のIDカードが収められている。
『所長権限』の刻印が、鈍く光っていた。
「これで、地上の扉が開けられる」
男の声に、安堵がにじんでいた。
エマも、ようやく肩の力を抜いたように息をついた。
俺はそのカードを見つめながら、内心で複雑な感情を持て余していた。
知っていたはずの展開が、今、目の前で現実になっている。
それなのに、少しも安心できなかった。
これで終わりではない。
ふと視線を感じて振り返ると、玲がじっとこちらを見ている。
感情の読めない赤い瞳は、何を考えているのか読み取れなかった。
「――どうかしたか?」
俺が問うと、玲はふっと視線を逸らし、興味を失ったように部屋の出口へ向かった。
「いいえ。それより、早く行きましょう。時間がありません」
その背中を見送りながら、俺は先ほどの一瞬の視線がやけに気にかかっていた。
部屋を出ようとした、その時。
遠く――おそらく地上へと続く方角から、人の叫び声のようなものとなにかを破壊するような音が微かに届いた。
思わず足が止まる。
エマが息を呑み、男の顔から血の気が引いていくのが分かった。
玲だけが、眉一つ動かさずにその方角を見据えていた。
「――急いだ方がいいですね」
感情のこもらないその低い声が呟いた言葉に、妙に緊張しながら俺たちは先を急いだ。




