第37話 鳴り響く鐘(前編)
鐘楼の中は、外の喧騒が嘘みたいに静かだった。
石造りの壁は所々崩れ落ちていて、隙間から差し込む光が埃っぽい空気を白く切り取っている。
「――足元に気をつけろ」
玲が先に立って、損壊した階段に足をかける。
石の欠片がぱらぱらと下に落ちていった。
「言われなくても分かってる」
軽口のつもりだったが、思ったより固い声になった。
玲は振り返らず、小さく笑ったような気配だけを残す。
二人きりになった途端に敬語が抜けたことに、俺はまだ慣れない。
(――さっきまで敬語だったくせに)
考えても仕方のないことを考えながら、俺は玲の後を追って階段を上り始めた。
上へ向かうにつれ、階段は損壊が激しくなっていく。
踏み場がないところは瓦礫を足場にして跨ぐしかなく、玲はそのたびに先に確認してから俺を通した。
(早く最上階へ行かなきゃいけないのに……!)
こうしている今も下にいる仲間たちは戦っているというのに、ジリジリとした焦りが俺を急かした。
二階分ほど上がったところで、周囲の空気が変わる。
「――来るぞ」
玲が短く言って、腰のナイフに手をかけた。
同時に頭上の暗がりから、三体の輪郭のぼやけた白い影が滲み出るように現れた。
俺は反射的に鉄パイプを構えたが、玲の動きの方が早かった。
一体目の懐に踏み込み、ナイフを一閃。
幽霊は霧のように散って、また別の場所に集まり直そうとする。
玲はそれを待たず、二体目に切り込んだ。
俺は階段の下から回り込もうとした三体目を、鉄パイプで殴り飛ばす。
手応えはほとんどない。
ただ勢いだけで散らして、上へ道を空けた。
「クソッ! こっちは急いでるっていうのに……!」
足場の悪さに加えて、次から次に湧いて出てくる敵に舌打ちが出る。
急がなければという焦りと間を置かない連戦で、鉄パイプを握る手のひらはもう汗ばんでいた。
玲がこちらを見る。
赤い瞳に、わずかに何かがよぎった気がした。
「行くぞ」
そう言った直後、足場にしたつもりの石が崩れて俺の体がぐらついた。
「――っ」
伸びてきた手が俺の腕を強く掴み、そのまま引き寄せられて、俺の体は玲に抱きとめられた。
硬い体温が、思いのほか近くにあった。
「……悪い」
一瞬感じた浮遊感と落下の恐怖にバクバクと心臓が鳴る。
心臓の音が落下の恐怖のせいなのか、玲に抱きとめられたせいなのか自分でも分からなかった。
そんな俺の腕を強く握ったかと思えば、玲がじっと覗き込んでくる。
「焦るな。お前はお前のやれることを、ただやればいいだけだ」
いつもの淡々とした声とは、どこか違う響きだった。
まるで俺を落ち着かせるようなことを言ってくる玲を、信じられない思いで見つめ返す。
(……今こいつ、俺のこと慰めてるのか?)
冷酷で無関心な男からの思いもよらない優しさに、胸の奥に安堵が広がっていく。
玲の言葉に安心してしまった自分自身に一番驚いて、目を見開いた。
その瞬間、焦りも不安もすべて忘れて、強張っていた体から力が抜けていった。
玲はそれ以上何も言わず、ただ俺の腕を放す前に、もう一瞬だけ強く握り直した。
再び階段を上り始める。
「上まで、あと一階分だ」
玲が視線を上へ向けながら声を掛けてくる。
崩れかけた天井の隙間から、外の光がまた差し込んでいた。
その先に、俺たちが探しているものがあるはずだ。
「――行くぞ」
俺は鉄パイプを握り直し、玲の隣に並んで階段を上り始めた。
三階に上がると、階段はほとんど瓦礫と化していて足場と呼べる代物ではなくなっていた。
玲が瓦礫の隙間を確かめながら、慎重にルートを選んでいく。
「ここは損壊が酷い。俺が踏んだ場所だけを進め」
玲の後を追い、崩れた石の隙間を縫うように進んでいく。
時折足元で小さく瓦礫が落ちていく音がして、そのたびに冷やりとした。
壊れた壁の隙間から吹き込む風が、少しずつ強くなっていくのを感じる。
視界が開けたのは、その直後だった。
半分崩れた屋根から茜色に染まる空が見えている。
鐘楼の最上部は、想像していたよりずっと広い円形の部屋になっていて、屋根を支える四本の柱以外は壁のない開けた場所だった。
その中心には大きな鐘が――いや、半分欠けた、錆びついた鐘だけが残っていた。
風が吹き抜けて、埃と小さな瓦礫の欠片を舞い上げる。
「……ここか」
俺は思わず呟いた。




