第3話 その名前(前編)
物置部屋の中は、狭くて埃っぽかった。
三人分の呼吸音だけが、やけに大きく響いている。
俺は鏡の前から離れ、扉に背をつけたまましばらく動かずにいた。
(……鴉城透真)
さっき確認したその名前が、頭の中で何度も繰り返される。
混乱と焦りは、まだ胸の奥でくすぶったままだった。
自分はいったい、どうしてここにいるのか?
覚えている限りの最後の記憶は、実家で家族と過ごしていた時間だ。
父は?母は?妹は?
笑っていた家族の顔が一瞬、過った。
自分を落ち着かせようと、無理やり息を吐き出す。
何か言葉にして、この状況を飲み込みたかった。
「……まったく、笑えない冗談のようだ」
口から出た言葉に、俺自身が一番驚いた。
違う。そんなことを言うつもりじゃなかった。
もっと単純に、大丈夫だ、落ち着け、とでも言いたかっただけなのに、勝手に出てきたのは、まるで他人が喋っているような、皮肉めいた響きだった。
(今の、何だ……)
喉の奥に、得体の知れない違和感が居座っている。
まるで、自分の声を誰かに借りられているような感覚だった。
口を開けば、思ってもいないことが飛び出してくるかもしれない。
そう思うと、口を滑らせるのが怖かった。
「あの……」
声をかけられて、我に返る。
壁際にへたり込んでいた女性が、俺の顔を見上げていた。
「さっきは、ありがとうございました。助けてもらって……」
礼を言われて、当たり前のことを当たり前に返そうとした。
大丈夫だったか、それだけでいい。
「――たまたま近くにいたから助けただけだ。あのままだと俺にも被害が及ぶかもしれなかったからな」
言った瞬間、また同じ違和感が背筋を這った。
(……なんで、こんな言い方に)
素直に「よかった」と言うつもりだったのに、口をついて出たのは、どこか恩着せがましい響きだった。
慌てて訂正しようとしたが、女性は特に気にした様子もなく、少しほっとしたように息をついた。
「私、柊と言います。柊エマです」
その名前を聞いた瞬間、鼓動が跳ねる。
(柊、エマ――)
知っている名前だった。
何度も読んだ物語の中で、優しくて純粋な、誰からも好かれるヒロイン。
その名前が、今、目の前の女性の口から零れ落ちた。
偶然のはずがない。顔立ちも、纏う雰囲気も、あの物語に出てきた描写そのままだ。
施設のロゴ。
鏡に映った自分の顔。
そして、この女性の名前。
点と点が、音を立てて繋がっていく。
名乗り返そうとして、俺は一瞬、言葉に詰まった。
すんなり名乗るだけでいいはずなのに、口が勝手に別の言い回しを選びそうな気がした。
「……鴉城透真だ」
自分で言っておいて、居心地が悪くなる。
「鴉城さん、ですね。よろしくお願いします」
エマは、まだ少し怯えの残る顔で、それでも丁寧に頭を下げた。
そっけない物言いを気にする余裕もないのか、あるいは聞き流してくれたのか。
この状況で礼儀を忘れない律儀さも、あの物語の中の彼女らしい。
俺はといえば、内心冷や汗をかいていた。
(さっきから、なんなんだ、これは……)
思っていることと、口から出る言葉がずれる。
まるで、自分の喋り方を誰かに書き換えられたようだった。
口を開けばまた自分の意図とはずれた言葉が出てきてしまいそうで、黙り込む俺を見て動揺していると思ったのか、エマは気遣うような視線を向けてくる。
俺はそれに気づかないフリをして、今の状況を考え込んでいた。
ここがあのweb小説の世界なら、この施設のマーク、あの化け物、それに放送で聞こえた指示――この研究施設から二十四時間以内に脱出するという、最初のミッションになるのか。
チラッとエマを見ると、膝を抱えて不安そうな様子だった。
目が覚めて、いきなりこんな訳の分からない状況なら誰だって不安だろう。
(本来ならさっきのあの場面は、施設の地下で目覚めて化け物に襲われる序盤。
小説の中の鴉城透真はエマを突き飛ばして囮にして、あの場所から逃げ出していたはずだ。
化け物に襲われかけたエマをヒーローが助けて、それが二人の出会いだったはず……)
そこまで考えて、ばちっと音が鳴るほど勢いよく両手で顔を覆った。
(やらかした……俺はヒーローとヒロインの出会いを邪魔したんだ)
後悔で落ち込む俺を「あの、鴉城さん、大丈夫ですか?」とエマが心配して声をかけてくる。
ヒーローと出会えなかったヒロインにせめて気を遣わせたくなくて「……透真でいい」と返すと、エマはキョトンとした顔をした後「はい、透真さん」と笑った。
例えあの場面に戻れたとしても、自分にはきっとエマを囮にして逃げるなんてことはできないだろう。
それにここでエマを見捨てたとして、ヒーローと出会わなかったエマが地上までの出口まで無事に辿り着けるだろうか?
(ヒーローはもしかしたらもう、上の階まで先に進んでるかもしれない。
エマを一緒に連れていけば、上で二人を出会わせることができるんじゃないか?)
場面は違えど、このミッションでの二人の出会いは必要だろう。
俺はこの先のやらなければならないことを頭に入れて重く息をついた。




