第29話 名前(前編)
幽霊の囲いから逃げ出して、玲に抱えられていた時間はそう長くはなかった。
気づけば、崩れた建物の陰に押し込まれるようにして、壁を背に座らされていた。
瓦礫が半分崩れて屋根代わりになっている。
狭い隙間に、身を隠すようにして二人で座りこんだ。
外の喧騒はもう聞こえない。
代わりに自分の呼吸の音だけが、やけに大きく響いている。
「動かないでください」
玲の声は低く抑えられていた。
膝をつき俺の肩に触れる手つきは驚くほど丁寧だったが、服の上から確かめるように押されて、思わず息が詰まる。
「痛いですか」
「……別に、平気だ」
強がったつもりだったが、声が少し掠れてしまう。
それに気づいた玲がチラッと俺を見て、何も言わず俺の服の襟元をわずかに引いて傷口を覗き込んだ。
「赤く爛れていますね、酷い火傷のようです」
淡々と傷口の状態を説明してくる声にイラっとしながら「そうか」と端的に返す。
じくじくとした痛みがそこから全身に広がっていくような気がした。
歩けないほどではないが、今すぐ動けと言われたら難しいだろう。
「このままここでじっとしていても、また先ほどのように敵が集まってくるだけです」
玲はそう言うと、懐から小さな瓶を取り出した。
中の液体は淡く光っていて、一見してその中身がなにか分からなかった。
「それは」
俺がその瓶を不思議そうに見つめると、玲は気づいたように目の前で軽く振ってみせる。
「今回の宝で得たポーションですよ、傷を治す効果があります。この程度ならこれで十分です」
「どうして……」
ぽつりと零れた迷うような俺の呟きに、続きを促すように玲がこちらを見る。
「お前がこのミッションに参加したのは、アイテムのためだと言っていただろ。なのに貴重なスクロールと、今も俺を助けるために薬を使ってる、……なぜだ?」
それはこのゲームで玲と再会してから、ずっと、疑問に思っていたことだ。
小説の中で怪我をしたエマを、玲がポーションを使って治療するシーンが実際にあった。
だがそれは物語のヒロインとヒーローだからであって、間違っても俺に、悪役キャラに使っていいはずがなかった。
貴重なスクロールを使って俺たちを助けたのも、エマを助けるためだったと思えば納得もできた。
しかしそれなら何故そもそも玲はエマと一緒に行動していなかったのか、黄昏都市へ転送された後もこのミッションの中でも。
玲なら接触しようと思えばできたはずだ。
だが玲は、陽太にエマを任せて逃し、俺を助けてここにいる。
困惑した目で見ていると、ふと玲の瞳が少し揺れて、こちらをジッと覗き込むように近づいてきた。
「あなたこそ、どうしてですか?」
突然の質問になにを問われているのか分からず「俺?」と我ながら間の抜けた声がもれた。
「最初のミッションでも今回も、あなたは他人を助けてばかりいる。このゲームの世界でそれがいかに愚かなことか、賢いあなたなら分かっているはずだ」
逆に問い詰めるように見つめてくる赤い瞳に、なんと返していいか分からず言葉が詰まる。
そもそも意識して体を張っているつもりはないし、前回も今回もほぼ無意識に動いているのだ。
でも目の前で仲間が危険な目にあっていたら思わず動くだろ、と心の中で反論する。
(それに……)
――それに、俺にはこのweb小説のゲーム知識があるから、無意識に大丈夫だろうという気持ちが、どこかにあるのかもしれない。
なんとなく気づいた自身の深層心理に嫌な気持ちになりながら、目の前で答えを待つ怜悧な男の顔を眺める。
知ってはいたが改めて近くで見ると、端正な顔だ。
艶のある黒髪を後ろに流して高い額が露わになっているため、切れ長な目元がよく見える。
すっきりした口元やシャープな頬のライン、感情を映さない目が冷たい印象をあたえるが、その中で底の見えない赤い瞳が神秘的で、ずっと見ていたいような、目を逸らしたくなるような不思議な色をしていた。
その赤を見つめて、俺は口を開いた。
「凍黒、なにを誤解してるか知らんが、たまたまだろ? それに俺には打算があって行動しているんだ、それをお前にわざわざ教えてやる必要はない」
無意識に体が動いてるんです、それに俺には俺の考えがあって行動してるんです、という答えはいつもと同じ皮肉な言葉に変換されて滑り出てきた。
自分で発したにも関わらず、あまりの言い草に顔が青くなる。
俺の返答に一瞬眉を動かした玲は、グイッと強い力で襟元を掴んできた。
引き寄せられた拍子に、間近に迫った赤い瞳と目が合う。
(やばい! 怒らせたか?!)




