第17話 黄昏市場(前編)
背中にまとわりついていた視線は、路地を抜けた頃には消えていた。
気のせいだったのか、それとも単に興味をなくしただけか——俺は肩越しに一度だけ振り返り、何もないことを確認してから、前を向いた。
「あの……鴉城さん?」
陽太が、俺の顔色を窺うように声をかけてくる。
さっきから何度か呼びかけられていたらしい。
「なんだ」
「あの……透真さん、って呼んでもいいですか……?」
怒られると思っているのか、ぷるぷる震えながらこちらの顔色を窺っている。
まるで大型犬が、飼い主の顔色を窺っているみたいなその反応に苦笑しながら「別に、好きに呼べばいい」と返した。
陽太の肩が一瞬跳ねて、それからほっとしたように緩む。
素直すぎるくらいの反応だった。
夕陽が沈みきる前の空は、ゆっくり色を変えていた。
橙と紫が溶け合う夕暮れ空の下、都市の雑踏は賑わいを見せている。
石畳の道には、店先に吊るされた色とりどりの硝子灯が重なり合う。
果物を山のように積み上げた露店、遠くから漂う香辛料と肉の焼けるにおい、焼きたてのパンの香り、店主たちの呼び声、金属の触れ合う音。
現実世界の縁日を思わせる光景だが、道行く人間の誰もが、多かれ少なかれ気を張っているのが分かる。
顔は笑っていても、目の奥だけは笑っていない。
「まず宿を確保する。それから、必要な物を買い足そう」
「は、はい。あの、でも……俺、ほとんどポイント残ってなくて……」
陽太の声が急に小さくなり、猫背気味の背がさらに縮こまる。
ポイントがないということは宿にも泊まれないし、必要なものを買うこともできない。
己の不甲斐なさに落ち込んでいる様子だった。
「知ってる。……だから今日は俺が出す。今後のことはまた考えればいい」
陽太は俺の言葉にガバッと顔を上げて驚きに目を見開いている。
「そんな! 悪いです……そこまでしてもらう理由が——」
「理由ならある」
俺は足を止めずに答えた。
「え? なんでですか!? 教えてください……」
慌てて横についてきながら、陽太は答えを待つように俺の顔をジーッと見つめている。
わざとその視線を無視して、歩きながら考える。
——芽吹陽太。
物語の中盤に登場する男の名前だ。
そいつは背筋の伸びた、威圧感のある男だった。
短く刈り上げた短髪で、口数も少なく、笑わない、無愛想、どこか擦れた雰囲気のある人物として描かれていた。
でも今の陽太は、気持ちが素直に顔に出るような、表情豊かな男だ。
ふわりとした癖毛、猫背気味の立ち姿。
整った顔立ちのはずなのに、本人がまるでそれを自覚していないような、頼りない空気を纏っている。
俺の知っている男とは、似ても似つかない。
(今の陽太はゲームに参加したばかりの初心者……さっきのトラブルを見るに、もしかして初期にポイントをすべて奪われて、悪い連中とつるむようになったから原作中盤ではあんなに擦れた男になっていたのか?)
先程の状況からすると、そうなっていた可能性は高いように思える。
——ここで俺が陽太を助けたから、変わったのだろうか?
エマの時と同様に、やらかしてしまったかもしれない予感に冷や汗が流れる。
「透真さん?」
「……いや、何でもない。それより、あそこ」
市場の賑わいから、ほんの少し離れた場所。
石畳の坂道をいくつか下ると、街の空気はゆっくりと変わっていった。
俺は市場の奥、ひときわ大きな看板が掲げられた一角を指差した。
「宿泊エリアだ。まずは寝床を確保しよう」
宿泊エリアと書かれた看板をくぐると、簡素だが清潔感のある建物が並ぶ一角に出た。
それぞれの建物の看板にポイント表示がされている。
安いものから、法外な値段のものまで幅は広い。
受付らしき無人端末の前で、俺は画面を操作する。
二人部屋、三泊分。
それなりのポイントが引かれる音がしたが、気にしないことにした。
「あ、あの、俺……すみません……」
俯いて震える声で謝る陽太に苦笑がもれる。
「俺の気まぐれでやっていることだ、お前が気にすることじゃない」
短く言うと、陽太は口を噤んだ。
鍵代わりのカードを受け取り、部屋番号を確認してから、俺たちは市場に引き返した。
買い物のほうが先だ。
日が落ちきる前に済ませておきたい。
「次は食料だな」
三日分の食事と簡単な保存食——荷物が増えるごとに、陽太は恐縮した様子で何度も頭を下げてきた。
そのたびに「気にするな」と返しているうちに、いい加減その言葉も虚しくなってきた頃、空はすっかり群青に沈んでいた。
宿へ戻る道すがら、陽太がふと呟く。
「透真さんって、他のプレイヤーとは違いますね」
「……変わり者だって言いたいのか」
じろりと睨むと陽太は慌てた様子で手を振った。
「ち、違います! そうじゃなくて、なんていうか……普通、初対面でここまでしてくれないと思うので」
俺は一瞬、答えに詰まった。
——それはお前が、web小説の中の登場人物だったから。
そう告げるわけにもいかなかった。
代わりに、口をついて出たのは。
「言ったはずだ、ただの気まぐれだと。騙されて、ポイントを奪われて、哀れだったからな」
もっと気のきいた事を言えたらよかったのに、口から出てきたのは相変わらずの皮肉な言葉だった。
陽太は不思議そうにこちらを見たあと、なぜか嬉しそうに、少しだけ笑った。
宿の部屋に荷物を下ろした頃には、外はすっかり暗くなっていた。
窓の外の景色は、都市の灯りが橙色に滲んでいる。
「今日はもう休め。買い出しで疲れただろう」
「はい……あの、透真さん、本当にありがとうございました」
深々と頭を下げる陽太に、俺は苦笑いを返しながらベッドに腰を下ろした。
ようやく一息つける——そう思った矢先。




