第八十話 帰還
2027年4月16日(金) 10:00
大阪湾岸。
かつて島側との会談に使われた岸壁。
藤堂、浅間、神谷、ひよりの4人は、海の向こうを見つめていた。
島の上空には、巨大な紋様が浮かんでいる。
あの日から再び動き始めたカウントは、今も静かに0へと近づいていた。
やがて、島の方角から1隻の巡視船が近づいてくる。
甲板には、カガリ、ナギ、ヤシロ――。
そして、リツの姿がある。
その後ろには、何人か兵士たちの姿も見えた。
以前、島の中で会ったトウヤもいる。
巡視船は岸壁の手前で速度を落とす。
ゆっくりと船体を横へ向け、そのまま岸壁へと接岸した。
タラップが渡される。
最初にカガリが降り、続いてナギ、ヤシロ、リツが岸壁へと降り立った。
藤堂が1歩前へ出る。
その腰には、備前長船長光。
藤堂は腰から刀を鞘ごと抜くと、両手で持ち、前へと差し出した。
カガリも背中の大剣を鞘ごと抜き、前へと差し出した。
2人の視線が合う。
僅かな間を置いて、同時に刀と大剣を収めた。
「今日は斬りかかられずに済みました」
藤堂が微笑む。
カガリは一瞬目を丸くすると、声を上げて笑った。
『おぬし、そんな冗談も言えるんじゃな』
藤堂も笑みを浮かべたまま、カガリを見る。
カガリの表情から、ゆっくりと笑みが消えた。
『藤堂、わらわ達は今日戻る』
「はい」
『おぬし達に会えたことは、わらわの人生の糧となろう』
「私にとっても素晴らしい出会いでした」
カガリは静かに頷いた。
『そして、リツを置いていく』
一度そこで言葉を切り、再び藤堂を見る。
『おぬしを……いや、おぬし達日本人を信じて置いていく』
「はい、お預かりします」
『よろしく、頼むのじゃ』
そう言って、カガリは笑った。
そして、横にいるリツへ視線を向ける。
『リツ』
『はい、大隊長』
リツが姿勢を正した。
『おぬしには元気が一番似合う、だから元気に暮らせ』
『はい!』
リツは大きな声で答えた。
横にいたナギが、今度はリツを見る。
『リツ、健康には気をつけて』
『はい』
『もし、どうしても帰りたくなった時は……』
『はい、分かってます』
最後まで言わせず、リツは頷いた。
ナギもそれ以上は何も言わなかった。
そして――ヤシロがリツの前へ立つ。
『リツ……』
だが、その先の言葉は出てこない。
リツはそんなヤシロを見つめると、深く頭を下げた。
『隊長、これまでお世話になりました』
『……おう、達者で暮らせよ』
『はい』
短い言葉だった。
それでも、それ以上の言葉は必要なかった。
カガリが藤堂たちを見渡す。
『それじゃ、わらわ達はもう行く』
『皆元気でな!』
そう言って、カガリは背を向けた。
ナギとヤシロも、その後に続く。
その背中を見つめていたリツが、思わず声を上げた。
『大隊長、島まで――』
『要らぬ!』
カガリは振り返らなかった。
『別れは……今、済んだ』
僅かに間が空く。
『だから……要らぬ』
その横を歩いていたナギが、黙ってハンカチを差し出した。
カガリは受け取らずに歩みを進める。
ナギはそれに続いた。
リツはカガリたちの背中を見つめる。
『今まで……ありがとうございました』
そして、深く頭を下げた。
カガリは振り返らない。
ナギはその横を歩く。
ヤシロも、その後をいく。
やがて3人はタラップを上がり、巡視船へと戻った。
甲板では、兵士たちがリツへ向かって手を振っている。
『リツ、元気でな!』
『達者で!』
その中で、トウヤも大きく手を振った。
『リツ! 元気でな!』
『トウヤも!』
リツも大きく手を振り返す。
『みんな、ありがとう!』
タラップが外された。
巡視船がゆっくりと岸壁から離れていく。
甲板から手を振る仲間たちに、リツはいつまでも手を振り続けた。
やがて巡視船は向きを変え、島へと戻っていった。
藤堂は周りを見渡した。
「私達も府庁へ向かいましょう」
◇
2027年4月16日(金) 12:30
大阪府庁。
危機管理室では、帰還に向けた最後の確認が続いていた。
「湾岸部の交通規制、予定どおり実施されています」
「大阪湾周辺の船舶についても、規制区域からの退避を確認しました」
「対象空域への航空機の進入はありません」
次々と入る報告を、藤堂、高城、浅間、神谷が聞いている。
藤堂は頷いた。
「分かりました。引き続き、予定どおり対応してください」
「はい」
そのやり取りを聞いていたリツが、ひよりの袖を引いた。
『ひより』
『何?』
『直接見てみたい』
『紋様を?』
『うん』
ひよりはリツを見ると、藤堂たちへ振り返った。
「リツが、紋様を直接見たいと言っています」
高城が答える。
「それでしたら、府庁の屋上を使ってください」
「ありがとうございます」
ひよりはリツを見る。
『行こう、リツ』
『うん!』
2人は危機管理室を出た。
◇
大阪府庁、屋上。
扉が開く。
ひよりとリツが外へ出た。
リツは数歩進むと、足を止めた。
そして、空を見上げる。
『……大きい』
大阪の空に、巨大な紋様が浮かんでいる。
リツは首を動かし、その全体を見ようとする。
『こんなふうに見えてたんだ……』
『うん』
ひよりも隣に立ち、空を見上げた。
巨大な円。
その一角では、記号が今も変化を続けている。
0になるまで、あと30分。
◇
2027年4月16日(金) 12:50
大阪。
ビルの窓際には、多くの人々が並んでいた。
マンションのベランダでは、親子が空を見上げている。
公園では、遊んでいた子どもたちまで足を止めていた。
歩道橋。
道沿い。
駅前。
巨大な紋様が見える場所には、人々の姿があった。
スマートフォンを構えていた男性が、画面から目を離して空を見る。
「あと10分くらいか」
「うん」
隣にいた女性も空を見上げた。
「来た時は、怖かったのにね」
「……そうだな」
2人は、それ以上何も言わなかった。
◇
2027年4月16日(金) 12:55
大阪湾沿いの取材区域。
相沢は、集まった報道陣の中に立っていた。
手にしたペンは止まっている。
ただ、大阪の空を見上げていた。
◇
大阪府庁、危機管理室。
「帰還予定時刻まで、あと4分です」
職員の声が響く。
藤堂は時計を見る。
高城も、浅間も、神谷も、モニターを見続けている。
大型モニターには、島と、その上空に広がる紋様が映っている。
◇
大阪府庁、屋上。
ひよりとリツは、並んで空を見上げていた。
『もうすぐだね』
『うん』
リツは答える。
『ひよ姉……』
『なに?』
『私ね、セオ姉がいなくなった時、見える世界から色が消えたんだ……』
『……』
『でも、ひよ姉と出会った時、かすかに色が見えた』
『それから、美味しいもの食べて、神谷と会って、こちらに来て……』
『いろんなことがあった』
『そうして、少しずつ色が戻ってきた……』
ひよりは黙って聞いている。
『今は――』
『全てが色づいている』
『私……楽しみなんだ』
『この鮮やかな世界がとても楽しみなんだ――』
◇
2027年4月16日(金) 12:59:35
大阪湾。
島は、静かにそこにあった。
その上空に浮かぶ紋様にも、変化はない。
あと、5秒。
◇
2027年4月16日(金) 12:59:37
大阪中の人々が、空を見上げていた。
1か月前。
誰もが、何が起きるのか分からないまま、その時を待っていた。
そして今――
誰もが、彼らが帰る時を見届けようとしていた。
――3
――2
――1
0。
その瞬間――空気が変わった。
低い振動が、大阪を包む。
止まっていた紋様が――動いた。
巨大な外周が、ゆっくりと回転を始める。
内側に幾重にも重なる円が、それぞれ異なる方向へ動き出す。
記号が流れる。
線が交差する。
円が回る。
そして――。
大阪湾に浮かぶ島が、ゆっくりと海面から離れ始めた。
岩肌を濡らしていた海水が流れ落ちる。
島と海面との間に、僅かな隙間が生まれる。
その瞬間――。
風が吹いた。
大阪湾から街へ向かって、強い風が駆け抜ける。
木々が揺れる。
人々の髪がなびく。
◇
大阪府庁、屋上。
突然の風に、ひよりの髪が大きく揺れた。
リツは空を見上げたまま、動かない。
その視線の先。
島が、上がっていく。
最初は、ゆっくりと。
だが、その速度は少しずつ増していった。
『……さよなら』
リツが呟いた。
ひよりは何も言わず、その隣に立っていた。
◇
大阪湾。
島はさらに高度を上げていく。
海面から離れた岩肌から、大量の海水が流れ落ちる。
巨大な大地が、空へ昇っていく。
その上空。
光が走った。
1本。
さらに1本。
何もなかった空に、巨大な光の線が次々と伸びていく。
線と線が交わる。
そこから新たな線が枝分かれし、さらに別の線へとつながっていく。
やがて、それらは1つの巨大な円を描いた。
新たな紋様。
その内側にも、次々と線が刻まれていく。
円。
記号。
幾何学的な図形。
それらが組み合わさり、空に複雑な紋様を形作っていく。
完成した瞬間――回転を始めた。
ゆっくりと。
外側の円が回る。
それとは逆に、内側の円が回る。
さらに内側では、無数の記号が円周に沿って流れていく。
その上空。
また、光が走る。
新たな円が描かれる。
さらに、その上にも。
巨大な紋様が、1つ、また1つと空へ積み重なっていく。
下では、7日間浮かび続けていた紋様が回転している。
その上では、新たに現れた紋様が別の方向へ回る。
さらに上では、いくつもの円が互いに異なる速度で動いている。
止まっているものは、もう何一つない。
線が走る。
円が回る。
記号が流れる。
その下を、島が上昇していく。
最初はゆっくりと見えていた巨大な大地。
その速度は、さらに増していた。
海面が遠ざかる。
港に並ぶクレーンよりも高く。
ビルよりも高く。
島は大阪の空へと昇っていく。
低い振動が、大阪を包む。
光が脈打つ。
紋様の動きが重なり合う。
今度は、その中心へ光が集まり始めた。
淡かった光が、次第に強さを増していく。
さらに。
さらに。
中心だけが、直視できないほどの輝きを放つ。
そして――。
閃光。
巨大な光の柱が、紋様の中心から上空へと打ち上げられた。
幾重にも重なる紋様を、一気に突き抜けていく。
その先端が、青空を貫く。
次の瞬間――空が歪んだ。
円形に。
ゆっくりと。
歪みが広がっていく。
青空が押し退けられるように、その中心が暗闇へと変わる。
さらに広がる。
巨大な円。
その向こうは暗い。
何も見えない。
ただ、黒い。
大阪の空に、再び巨大な穴が開いていた。
その下を、島が昇ってくる。
だが――。
先ほどまで速度を増していた島の動きが、少しずつ緩やかになっていく。
巨大な暗闇へ近づくほど、その速度は落ちていく。
ゆっくりと。
さらに、ゆっくりと。
そして――。
島の上部が、暗闇へと入った。
深い緑が消えていく。
木々が。
丘が。
大地が。
ゆっくりと、暗闇の向こうへ消えていく。
残るのは、巨大な岩肌。
それも少しずつ、暗闇へと消えていく。
やがて、島の最下部が、暗闇の中へ消えた。
そして、空に開いた穴は閉じていく。
ゆっくりと。
穴が閉じると同時に紋様は消えた。
そして――
全てが終わった――。
次回、最終話。




