第六十一話 再起
2027年3月27日(土) 09:23
宿泊所。
テーブルの上には、保冷容器に入れられたプリンが置かれていた。
「神谷さん、行きましょう」
ひよりはそう言って、椅子から立ち上がる。
「水城さん」
「はい?」
ひよりが、神谷を見る。
「味見はしなくていいですか?」
「……」
「します」
ひよりはもう一度椅子に座り、スプーンを手に取った。
そして、プリンを一口すくい、口へ運ぶ。
ひよりはゆっくりと味わう。
「美味しいです」
そう言って、微笑んだ。
◇
大阪湾。
小型艇は、いつもの場所で停止した。
島の海岸まで、およそ100m。
神谷は拡声器を手に取る。
『こんにちは! 日本政府を代表して参りました!』
『お話をするために来ました! どなたかいませんか!』
声が海岸へ響く。
返事はない。
木々の間にも、人影は見えなかった。
神谷たちは、そのまま待った。
◇
30分ほどが過ぎた。
海岸に変化はない。
「来ないですね」
「もう少しだけ待って下さい」
ひよりは海岸を見つめたまま答えた。
「……分かりました」
神谷は再び拡声器を手に取り、もう一度、島へ向かって声をかけた。
◇
最初に呼びかけてから45分ほど経った頃だった。
海岸近くの茂みが揺れた。
木々の間から、リツが姿を現す。
ひよりが立ち上がった。
『リツ、プリン、持ってきた』
『ほんとか!』
『そっち、行く、いい?』
リツが頷く。
ひよりは神谷を見る。
「神谷さん、寄せて下さい」
「分かりました」
神谷が海上保安官へ合図する。
小型艇が、ゆっくりと海岸へ向かって動き始めた。
◇
小型艇が岸へ寄る。
ひよりは保冷バッグを手に、海岸へ降りた。
リツが目を大きく開き、期待に満ちた目でひよりを見る。
『プリンは?』
『ここ』
ひよりは保冷バッグを見せた。
『一緒、食べる』
『一緒に食べよう』
2人は、その場に腰を下ろした。
リツは足を折り、正座する。
ひよりは保冷バッグからプリンを取り出し、その一つをリツへ渡した。
2人で蓋を開ける。
そして、手を合わせた。
『いただきます』
リツがプリンを一口すくい、口へ運ぶ。
その動きが止まった。
「……」
ひよりは黙って見つめる。
もう一口。
今度は、先ほどより早い。
そして、もう一口。
気づけば、スプーンを運ぶ手が止まらなくなっていた。
その姿が、セオと重なる。
見つめるひよりの頬を、涙が伝った。
リツが手を止める。
『何泣いているんだ』
『ごめん。プリン、美味しい』
『泣くほど美味しいのか。変わっているな、ひよりは』
『私、変わってる』
ひよりはそう言って、笑った。
◇
やがて、2人はプリンを食べ終えた。
『ごちそうさま』
手を合わせる。
ひよりは空になった容器とスプーンを片付けていく。
『プリン、本当に美味しいな』
『セオ、聞いた?』
『うん。セオ姉が言ってた。あんな美味しいもの、初めて食べたって』
ひよりの手が、わずかに止まる。
『リツ、セオ、妹?』
『うん。私はセオ姉の妹』
ひよりは改めて、リツを見つめた。
15、6歳くらいだろうか。
顔立ちは、セオによく似ている。
『セオ姉が、ひよりのこと話していたぞ。こっちで友達ができたって』
ひよりは目を見開いた。
すぐには、言葉が出てこなかった。
やがて、胸元のペンダントをそっと握る。
『うん。私、友達』
『ひよりも勉強好きなんだろ? セオ姉も勉強好きだから、気が合うって言ってた』
リツが笑う。
『私、勉強、好き』
ひよりも笑った。
『そういえば、セオ姉、何か用意してたな……』
リツは少し考える。
『ひより、ちょっと待ってて!』
そう言うと、こちらの返事も聞かず走り出し、森の中へ消えていった。
「水城さん、どうしました?」
船上から神谷が声をかける。
「ちょっと待っててと言われました」
「分かりました」
◇
それから、1時間ほどが過ぎた。
海岸近くの茂みが揺れる。
ひよりが顔を上げた。
木々の間から、リツが姿を現す。
その手には、何かが抱えられていた。
リツはひよりの前まで来ると、それを差し出した。
『これ、セオ姉がひよりのために用意していた』
『私?』
差し出されたのは、本のようなものだった。
数冊ある。
ひよりはそれを受け取り、そのうちの1冊を開いた。
「こ、これは……」
島の幼児向けの教本だろうか。
島の文字とともに、物や動作を示す細かな絵が描かれていた。
基本的な単語を、順を追って学べるように作られている。
もう一冊、開いてみる。
こちらは単語だけではない。
短い文章や言い回しが、場面を示す挿絵とともに整理されている。
所々には赤い線が引かれ、その傍らに島の文字で書き込みがあった。
セオが書き加えたものだろうか。
ひよりの指が、その文字に触れる。
『セオ姉、ひよりともっと話をしたいと言っていた』
『ひよりも、もっと話をしたいと思ってた?』
『うん……うん……』
涙が溢れてくる。
拭っても、止まらない。
リツはそんなひよりを見つめていた。
『私も……』
『私も、ひよりともっと話がしたい』
ひよりが顔を上げる。
『だから、これで勉強してほしい』
ひよりは袖で涙を拭った。
『3日!』
リツが目を丸くする。
『3日、全部覚える! 待ってて!!』
リツは一瞬、ひよりを見つめる。
『分かった!』
笑顔で答えた。
◇
宿泊所。
ひよりは数冊の本を抱えたまま、自分の部屋の前まで来た。
「神谷さん」
「はい?」
「しばらく邪魔しないで下さい!」
「え?」
バン!
扉が閉まった。
「……頑張ってください」
神谷は、閉ざされた扉に向けて呟いた。




