第五十五話 言葉
第五十五話 言葉
2027年3月24日(水) 13:06
小型艇の上で、ひよりは胸元のペンダントを手に取り、ニコニコと眺めていた。
昨日、セオが自分の首にかけてくれたものだ。
やがて船は、いつものように島から100mほどの地点で停止する。
「あっ」
今日は、岸辺にセオの姿があった。
「セオー!」
ひよりが大きく手を振る。
「ひより!」
セオもすぐに手を振り返した。
そして、隣にいる神谷を見る。
「……」
神谷が自分を指差しながら答える。
「かみや」
「かみや!」
神谷はひよりへ顔を向けた。
「……本当に天才なんですか?」
「魚はすぐ覚えましたよ」
「私は魚以下ですか……」
ひよりは笑いながら、セオへ向き直った。
「――」
「――」
短いやり取りを交わす。
「神谷さん、このまま岸まで行ってください」
「分かりました。今日も長くなりますか?」
「ちょっとだけ」
船がゆっくりと岸へ向かって進み始めた。
◇
ひよりを岸へ降ろすと、小型艇は再び岸から距離を取った。
セオがすぐに近寄ってくる。
「ひより」
「うん」
セオの視線が、ひよりの胸元へ向く。
ペンダントだった。
ひよりはそれに気づき、ペンダントトップを持ち上げて見せる。
「ちゃんとつけてるよ」
言葉の意味までは分からないはずだ。
それでもセオは嬉しそうに笑った。
ひよりもつられて笑う。
「じゃあ、昨日の続きしよっか」
ひよりは地面に腰を下ろし、近くに落ちていた小石を拾った。
「いし」
「いし」
「そう」
今度はその石を手のひらに載せる。
「石を、持つ」
「いしを……もつ」
「そうそう!」
ひよりが何度も頷く。
セオは少し考えるように石を見つめると、今度は自分から、近くに落ちていた貝殻を指差した。
「ひより。これ、なに?」
「……」
ひよりの動きが止まった。
「ひより?」
「ちょっと待って」
セオが不思議そうに首を傾げる。
「今、自分で文章作った?」
「……?」
「これ、なに?」
ひよりが真似をする。
セオは笑顔で頷いた。
「すごっ……」
昨日教えた単語を並べただけではない。
使い方を理解し、自分から問いかけている。
「じゃあ、これは?」
ひよりは別の物を指差した。
セオが答える。
「――」
「――?」
ひよりが同じように発音した瞬間、セオが首を振った。
「違う?」
「――」
セオがもう一度、今度はゆっくり発音する。
ひよりも口元を見ながら繰り返した。
「――」
また首を振られる。
「えー、同じじゃん」
セオが笑う。
「絶対同じだって」
もう一度発音する。
「――」
セオは少し考えてから、また首を振った。
「なんでよー!」
今度は2人で笑った。
少し離れた船上から、その様子を神谷が眺めていた。
昨日より明らかに言葉が増えている。
身振りだけで意味を探っていた2人が、今日は言葉そのものを使って意味を確かめ合っていた。
「ほんとに覚えるの早いな……」
神谷が呟く。
◇
2027年3月24日(水) 14:52
「ちょっと休憩しよっか」
ひよりが大きく伸びをした。
セオが首を傾げる。
「きゅうけい?」
「そう。休憩」
ひよりは持ってきたバッグを引き寄せた。
「今日はこれ持ってきたよ」
中から小さなガラスの容器を取り出す。
それを見た瞬間、セオの表情が変わった。
「プリン!」
「覚えてるんだ」
ひよりが笑いながら差し出す。
セオはプリンを受け取ると、その場に正座した。
そして、いつものように胸の前で両手を合わせる。
ひよりも隣に座り、両手を合わせた。
「いただきます」
「いただきます」
ひよりがセオを見る。
セオは何事もなかったようにプリンへ手を伸ばしていた。
「……ほんとに覚えるの早いなぁ」
セオはプリンを一口食べる。
「おいしい!」
「だよねー」
ひよりも自分のプリンを一口食べた。
「やっぱりこれ美味しいよね。50万円だけど」
「……?」
「知らない方がいいよ」
セオは不思議そうに首を傾げながら、もう一口プリンを食べた。
ひよりも笑ってスプーンを口へ運ぶ。
少し離れた船の上では、神谷がそんな2人を眺めていた。
「……いいなぁ」
誰にも聞こえない声で呟いた。
◇
休憩を終えると、2人はまた言葉を交わし始めた。
物の名前だけではない。数や否定、人の動きを表す簡単な言葉も、身振りを交えながら確かめ合っていった。
さっきまでのように、ひよりが一方的に教えるだけではない。
セオが尋ね、ひよりが答える。
今度はひよりが尋ね、セオが自分の言葉で答える。
通じなければ、身振りを使う。
それでも駄目なら、2人で笑った。
いつの間にか、陽は大きく傾いていた。
「水城さーん! もう帰りましょう!」
船から神谷の声が飛ぶ。
ひよりが振り返り、大きく手を振った。
「はーい!」
それからセオへ向き直る。
「またね、セオ!」
「またね、ひより!」
船へ乗り込んだひよりに、セオは岸から手を振り続けていた。
そして、神谷を見る。
「またね、かみや!」
神谷が一瞬、目を丸くする。
「……またね、セオさん」
船がゆっくりと岸を離れていく。
ひよりは隣にいる神谷の顔を覗き込んだ。
「神谷さん、顔にやけてますよ」
「ほっといてください」
◇
2027年3月24日(水) 19:48
航海灯を消した小型艇が、海面を低速で進んでいる。
島周辺を巡回する巡視艇の動きは、数日前から調べられていた。
監視の薄くなる時間と海域も、すでに把握している。
暗い船内に、数人の男たちが集まっていた。
交わされている言葉は、英語だった。
1人の男が、全員を見渡す。
「もう一度確認する。任務は、島周辺の調査だ。データを取って帰る。それだけの簡単な仕事だ」
「島には近づくのか?」
「可能な範囲でな。ただし上陸はしない」
男は短く言った。
「余計なことはするな。日本側に見つかる前に終わらせる」
何人かが頷く。
「よし、行くぞ」
◇
暗闇の向こうに、島の海岸線が見えていた。
男の1人が機材を確認する。
「こんなもんか」
「ああ。もうそろそろ帰るぞ」
「待て」
別の男が島を指差した。
「おい、あそこ見ろ」
視線が集まる。
「……上陸できそうだな」
「やめとけ。仕事はここまでだ」
「日本政府も、まだ上陸してないって話だろ?」
「だからなんだ」
「島の内部のデータまで持って帰ったら、たんまりボーナス貰えるんじゃないか?」
「上陸しろなんて言われてないぞ」
「今回のクライアント以外にも、欲しがる相手はいくらでもいる」
「……」
男たちは島を見る。
しばらくして、1人が立ち上がった。
「少しだけだ」
「おい」
「入って、データを取って、すぐ戻る」
別の男も立ち上がる。
「……行くか」
◇
森の中を、男たちが走っていた。
「早く走れ!」
荒い息が重なる。
「逃げるぞ!」
「なんなんだ、あいつら!」
男が振り返る。
「……おい」
後ろを走っていたはずの仲間がいない。
「くそっ!」
乾いた銃声が響く。
男は走りながら、何度も引き金を引いた。
やがて――
「くそ!」
弾倉を交換しようとした手が、震えてうまく動かない。
そのまま走り出そうとして、足が止まった。
目の前に、影が立っていた。
「……」
男の顔が引きつる。
「う、うわああああああ!!」




