第五十三話 初上陸
2027年3月23日(火) 10:12
島まで、およそ100m。
小型艇がゆっくりと島へ近づいていく。
これまでの検査と接触チームの健康観察で異常は確認されておらず、医療班からは、短時間の直接接触を認める判断が出ていた。
「セオさん、人間でしたね」
神谷が島を眺めながら言った。
「あんな可愛い子、人間以外あり得ないよ!」
「まぁ、そうですけど……」
ひよりは楽しそうに島へ目を向けた。
やがて、小型艇がいつもの位置で停止する。
神谷が呼びかけようとした、その時だった。
島の奥から人影が現れた。
「あ」
ひよりが身を乗り出す。
「待ってた?」
「たまたまでしょう」
「そうですかねぇ」
神谷は拡声器を手に取った。
「こんにちは〜。近寄りますね」
返事はない。
小型艇が再び動き出し、ゆっくりと島へ近づいていく。
およそ50m。
そこで再び停止した。
ひよりが大きく手を振る。
「セオ!」
セオの顔がほころんだ。
「ひより!」
ひよりを指差す。
「そう、ひより!」
今度は神谷へ指を向けた。
「……」
「かみや」
神谷が自分を指差しながら答える。
セオは少し考えるような顔をしたあと、思い出したように頷いた。
「かみや!」
「はい、神谷です」
神谷が笑う。
「覚えててくれましたね」
「今、忘れてましたよ」
「思い出してくれたんだからいいでしょう」
簡単な言葉と身振りを交わす。
だが、しばらくすると神谷が首を傾げた。
「……なんでしょう」
「どうしました?」
「いや、セオさん。何か迷ってません?」
ひよりもセオを見る。
確かに、前回と少し様子が違う。
何かを言おうとしてはやめるように、ひよりを見ている。
やがてセオは意を決したように、懐へ手を入れた。
取り出したのは、小さな何かだった。
「ひより、――――」
セオが何かを話している。
もちろん、まだ意味は分からない。
「セオ、それは何?」
するとセオは、その手をひよりへ向かって突き出した。
「……?」
そして、手にした物とひよりを交互に指差す。
ひよりはセオが持つ物を指差す。
次に、自分を指差した。
「もしかして……私に?」
セオの顔がぱっと明るくなった。
うん、うん、うん。
大きく3回頷く。
「えっ、本当に!?」
ひよりの顔にも笑みが広がった。
だが、距離はまだ50mある。
セオはひよりを指差した。
そして、自分の足元を指差す。
もう一度、ひより。
もう一度、足元。
神谷とひよりが顔を見合わせた。
「あれって……こっちへ来いってことですよね」
「行きます!」
即答だった。
「では、私も――」
「私1人で行きます!」
神谷の言葉を遮るように、ひよりが言った。
「いや、それは――」
神谷が止めようとした、その時だった。
船内から職員の声が飛んだ。
「神谷さん、官邸からです!」
神谷が振り返る。
「セオ氏から明確な意思表示が確認されたため、水城ひより単独での上陸を許可する、とのことです」
「……分かりました」
ひよりは嬉しそうにセオへ向き直った。
「セオ、今から行くね!」
言葉の意味は分からなくても、ひよりがこちらへ来ようとしていることは伝わったのだろう。
セオが笑顔で頷く。
「水城さん、通信機とGPSは?」
「持ってます」
「防刃ジャケットも着ていますね?」
「はい、大丈夫です」
「何かあったら、すぐ連絡してください」
「大丈夫ですって」
ひよりは身支度を整えると、船首へ移動した。
神谷は船尾まで下がる。
小型艇がゆっくりと島へ向かって進み始めた。
40m。
30m。
20m。
セオはその場を動かず、近づいてくるひよりを見つめている。
やがて船は浅瀬へたどり着いた。
ひよりは船首に立ち、目の前の岸を見る。
「はっ!」
ひよりは岸へ向かって跳んだ。
両足が地面につく。
ひよりは顔を上げた。
目の前には、セオがいた。
これほど近くで見るのは初めてだった。
肩まで伸びた濃い茶色の髪。整った顔立ち。
そして、淡い茶色の瞳。
遠くから見ていた時よりも、ずっと若く見える。
――私より年下かもしれない。
細身ながらも均整の取れた体つき。
身につけている民族衣装のような服も、こうして見ると、丁寧な縫製の他に細かな刺繍まで施されている。
離れた船上から見ていた時とは、まるで違った。
瞬きをする。呼吸をする。そして、ひよりを見つめている。
――人間なんだ。
DNAの解析結果ではなく、ひよりは初めてそう実感した。
「……やっぱり可愛い」
「?」
セオが不思議そうに首を傾げる。
ひよりは小さく笑うと、改めてセオへ向き直った。
「はじめまして、セオ」
そう言って、右手を差し出す。
だが、セオはその手を見つめたあと、ゆっくりと首を横に振った。
「え?」
セオは左手を腰へ伸ばす。
そして刀を鞘ごと帯から抜くと、両手で持ち、ひよりの前へ差し出した。
ひよりは一瞬きょとんとしたが、すぐに気づく。
――おそらく、これが彼女たちの挨拶か礼式なんだ。
「あ、あ……私、刀持ってない!」
ひよりは慌てて自分の腰元を見る。
当然、あるはずもない。
「どうしよう……」
あたふたするひよりを見て、セオは大丈夫だとでも言うように微笑んだ。
そして刀を再び腰へ戻す。
「ご、ごめんね」
意味が伝わったかは分からない。
それでもセオは気にする様子もなく、先ほど取り出した物をもう一度ひよりに見せた。
細い紐の先に、小さな金属製の飾りが付いている。
「ペンダント……なのかな?」
ひよりは覗き込んだ。
トップの表面には、細かな模様が刻まれている。
「……これ」
どこかで見たことがある。
いや――見間違えるはずがない。
大阪上空に現れた、あの巨大な紋様。
細部こそ異なるものの、そこに刻まれた模様は、それとよく似ていた。
「これを、私に?」
ひよりはペンダントを指差し、次に自分を指差した。
セオが頷く。
「ありがとう! すごく嬉しい!」
満面の笑みを浮かべるひよりを見て、セオも微笑んだ。
ひよりはペンダントを見つめてから、ふと思いついたように顔を上げる。
「付けてもらっていい?」
そう言ってセオに背を向け、髪を持ち上げた。
セオはひよりの意図を理解したように近づいた。
細い紐が、ひよりの首に回される。
セオの指先が、そっと留め具を留めた。
「……できた?」
振り返ると、セオが小さく頷く。
ひよりは胸元のペンダントに触れた。
「ありがとう、セオ」
意味はまだ伝わらない。
それでも、セオは嬉しそうに微笑んでいた。
ひよりは胸元のペンダントを指差す。
「セオ、これは何て言うの?」
「――――」
「……――――」
ひよりが真似して発音する。
セオが頷いた。
「じゃあ、これは?」
今度は足元を指差す。
「――――」
「――――」
もう一度、セオが頷く。
ひよりの顔がぱっと明るくなった。
「じゃあこれは?」
自分の髪を指差す。
「――――」
「――――」
ひよりは少し考えてから、もう一度同じ音を口にする。
セオが笑顔で頷いた。
「なるほど……」
ひよりの目が輝く。
そして船の方を振り返った。
「神谷さーん! ちょっと時間くださーい!」
「分かりましたー!」
神谷は手を上げて答える。
楽しそうにセオへ向き直るひよりを見ながら、小さく呟いた。
「……大丈夫かな」
◇
3時間後。
神谷は船上から、島にいる2人を眺めていた。
ひよりとセオは向かい合い、身振りを交えながら夢中になって何かを話している。
時折ひよりが何かを指差し、セオが答える。
かと思えば、今度はセオが何かを指差し、ひよりが答える。
最初は単語を教え合っているだけだったはずだ。
だが今では、遠目に見ているだけでは何をしているのか分からないほど、2人のやり取りは続いている。
神谷はおもむろに腕時計へ目を落とした。
「……ちょっとどころじゃないですよ」
官邸からは、安全が確保されている限り、ひよりの判断を尊重して交流を続けさせるよう指示が出ていた。
神谷はもう一度2人を見る。
どうやら、まだ終わる気配はない。
「……長くなりそうですね」
そう呟いて、缶コーヒーを開けた。
◇
午後の陽を受け、海面がきらきらと輝いていた。
神谷は腕時計を見ると、島へ向かって声を張った。
「水城さーん! そろそろ戻りましょう!」
ひよりが振り返る。
「はーい!」
そしてセオへ向き直った。
「セオ、――――」
「――――」
覚えたばかりの言葉を交わす。
小型艇がゆっくりと岸へ近づいた。
ひよりが乗り込むと、すぐに振り返った。
「セオ、――――!」
大きく手を振る。
セオも手を振り返した。
「さ、よ、う、な、ら」
一音ずつ確かめるような日本語だった。
ひよりの顔がぱっと明るくなる。
「さようならー!」
船がゆっくりと島を離れていく。
2人は互いの姿が遠ざかっても、しばらく手を振り続けていた。
◇
戻りの船上。
「神谷さん、聞いてください! あの子、天才ですよ!」
「私に言わせれば、あなたもですが」
「私が教えた言葉、簡単に覚えるんです!」
神谷の言葉など聞いていない。
「しかも、めちゃくちゃいい子で、めちゃくちゃ可愛い!」
「……それより水城さんは、あちらの言葉を覚えたんですか?」
「……」
ひよりは少し黙った。
「まだ断定できませんけど、基本的な語順は日本語とかなり似てるみたいです」
「ただ、音が複雑で――あれだけ音を操る言語は初めてです」
「どんな感じなんですか?」
「例えば――」
ひよりが短く発音する。
「――――」
続けて、ほとんど同じ音を口にした。
「――――」
「違い、分かります?」
「……同じに聞こえます」
「普通は同じに聞こえますよね。でも、明確に違うんです」
「はぁ……」
神谷は少し考えたあと、頷いた。
「まぁ、頑張ってください」
「なんですか、その反応!」
しばらくして、神谷がひよりの胸元へ目を向けた。
「水城さん、貰ったペンダントってどんなのですか?」
神谷は言葉を続ける。
「この船の簡易検査では放射線などはなかったということでしたが」
「はい、これなんですが」
ひよりは胸元のペンダントを持ち上げ、神谷に見せた。
神谷が顔を近づける。
「……あの紋様と同じような模様がありますね」
「はい。とても綺麗です」
ひよりは嬉しそうにペンダントを見つめた。
「それと、軽いんです」
「軽い?」
「はい、持ってみてください」
ひよりはペンダントトップを神谷の手のひらに載せた。
神谷はその重さを確かめる。
「……ほんとですね。中が空洞なんでしょうか?」
「どうなんでしょう」
◇
2027年3月23日(火) 15:13
宿泊所。
神谷は自室に戻り、椅子に腰を掛けた。
今日の出来事を思い返していた。
「会話が成り立つなら、なんとかなりそうだな……」
わずか数時間。
それだけの時間で、セオはひよりから教えられた日本語を次々と覚えていった。
「しかし、あの学習力……セオさん個人の資質なのか、それとも――」
あちらの人間に共通するものなのか。
神谷が考え込んでいると、廊下が騒がしいことに気づいた。
「……ん?」
何人かが話す声が聞こえる。
神谷は立ち上がり、ドアを開けた。
廊下へ顔を出した、その瞬間――
「だったら辞めます!!」
ひよりの怒鳴り声が響いた。




