第三十八話 それぞれの朝
2027年3月17日(水) 07:08
大阪府庁、危機管理室。
「高城くん」
「はい」
「大阪府の指揮機能を、市外へ移してください」
高城が藤堂を見る。
「……総理は?」
「……」
「それなら私も――」
「それは駄目です」
藤堂は静かに言った。
「今日、何が起きるか分かりません」
「もし大阪市で何かが起きた時、国と大阪府、両方の指揮機能を同時に失うわけにはいきません」
高城は何も言わなかった。
「大阪府には、大阪府の役割があります」
「……分かりました」
「高槻市危機管理センターを使います。すでに高槻市と調整し、先遣の職員を向かわせています」
「お願いします」
◇
「高槻への移動ですが、陸路は断念します」
高城が顔を上げた。
「主要道路の混雑が解消していません。府警からも、所要時間を保証できないとの連絡が入っています」
「緊急車両の経路は」
「確保を進めています。ただ、高槻までとなると……」
高城は少し考え、頷いた。
「分かりました」
「空路に切り替えます。府警航空隊のヘリを使用します」
「どこから?」
「府警本部のヘリポートは、現在ほかの任務で使用中です。大阪城公園に臨時の離着陸地点を設定します」
「高槻側は?」
「萩谷総合公園に降ります。高槻市と府警が、危機管理センターまでの経路を確保しています」
「分かりました。その予定で進めて下さい」
「はい」
職員が席へ戻る。
高城は壁面のモニターへ目を向けた。
大阪上空。
そこには、今日も変わらず紋様が浮かんでいる。
その一角に並ぶ記号は、今も一定の間隔で変化を続けていた。
今日、その数字は0になる。
◇
高城は時計を見る。
「そろそろ時間ですね」
藤堂の声に、高城が顔を上げる。
「はい」
2人の間に、短い沈黙が落ちる。
「高城くん」
「はい」
「これは避難ではありません」
高城は黙って藤堂を見る。
「大阪市で何が起きても、大阪府は動き続けなければならない」
「……はい」
「大阪をお願いします」
高城は頷いた。
「分かりました」
そして、藤堂を見る。
「総理」
「はい」
「また飲みましょう」
藤堂の表情が、わずかに緩んだ。
「分かりました」
高城は一礼し、歩き出した。
藤堂は、その背中を見送った。
◇
大阪城公園。
広場の一角では、府警航空隊のヘリがローターを回していた。
高城を乗せた車が到着する。
待機していた警察官に促され、高城はそのままヘリへ乗り込んだ。
ドアが閉まり、ローターの音が大きくなる。
やがて機体が、ゆっくりと地面を離れた。
窓の外に大阪城が見える。
高度が上がるにつれ、その周囲に広がる街並みが視界へ入ってきた。
朝の光を受けたビルの間を道路が走り、その先まで住宅が続いている。
昨日、あれほどの混乱に包まれていた街だった。
それでも上空から見る大阪は、いつもの朝と何も変わらないように見えた。
その街を覆うように、巨大な紋様が浮かんでいる。
高城は、窓の外を見つめたまま動かなかった。
ヘリは旋回し、北へ機首を向ける。
大阪城が少しずつ遠ざかっていく。
やがてビル群も、その向こうへ広がる街も、ゆっくりと後方へ流れていった。
その上空に浮かぶ紋様だけが、いつまでも大きく見えていた。
◇
2027年3月17日(水) 08:21
大阪市内。
幹線道路には、朝早くから長い車列ができていた。
クラクションが鳴る。
少し離れた場所でも、また鳴った。
「間に合わない……」
運転席の男が、何度目か分からない時計を見る。
車列は、ほとんど動いていない。
どこまで行けば安全なのか。
そもそも、大阪を離れれば安全なのか。
誰にも分からない。
それでも人々は、大阪から離れようとしていた。
◇
駅の改札前には、大勢の人が集まっていた。
「押さないでください!」
「順番にお願いします!」
駅員の声が響く。
運行状況を知らせる電光掲示板を、何人もの人が見上げている。
「次、いつ来るんですか?」
「現在確認しています!」
「確認って、もうずっと待ってるんですけど!」
その横を、小さな子どもの手を引いた母親が通っていく。
「ママ」
「なに?」
「どこ行くの?」
「じいじの所」
「ポテはお家においていくの?」
「うん……じいじのところには、連れていけないから」
「ちゃんとお留守番してるかな」
「……そうだね」
母親は、その手を強く握った。
◇
マンションの一室。
テレビには大阪上空の紋様が映っている。
ソファに座った老夫婦が、それを眺めていた。
「行かなくてよかったの?」
妻が聞いた。
「どこへ?」
「息子のところ」
「東京までか?」
「うん」
夫はしばらくテレビを見ていた。
「もういいよ」
「……そう」
「ここが家だから」
妻は何も言わなかった。
やがて夫の隣へ座る。
「コーヒー飲むか?」
「うん」
夫が立ち上がる。
「いつもの?」
「いつもの」
テレビの中では、紋様が変わらず大阪の空に浮かんでいた。
◇
淀川の河川敷。
空を見上げる人々の姿があった。
三脚にカメラを据える者。
土手に腰を下ろし、缶コーヒーを飲む者。
数人で集まり、話をしている若者たち。
少し離れた場所では、1人の男が寝転んで空を見ていた。
「まだ結構あるんだよな?」
「ある」
「何時だっけ」
「12時59分40秒」
「……そっか」
「逃げなくていいの?」
「どこに?」
「……それもそうか」
2人が空を見る。
風が、河川敷の草を揺らしていた。
その上には、巨大な紋様が浮かんでいる。
◇
地下から地上へ続く階段を、大勢の人が上っていく。
その端で、1人の女性が大きなキャリーケースを持ち上げようとしていた。
人の流れが、その横を通り過ぎていく。
「貸して」
若い男が、キャリーケースの取っ手をつかんだ。
「え?」
「上ですよね」
「あ……はい」
2人で階段を上る。
「すみません」
「大丈夫です」
階段を上りきる。
「ありがとう」
「いえ」
男はキャリーケースから手を離すと、人混みの中へ急いでいった。
女性はその背中へ、もう一度頭を下げた。
◇
シャッターの下りた店が並ぶ商店街。
その中に、1軒だけ開いているコンビニがあった。
棚には空いた場所が目立つ。
水。
パン。
カップ麺。
電池。
いつもなら商品が並んでいる場所に、白い棚板が見えていた。
レジに、パンとペットボトルの水、それに菓子が置かれる。
ピッ。
ピッ。
店員の手が止まった。
一瞬、何かを迷うように客を見る。
「……不安はありますか?」
客は少し戸惑う。
「……少し」
「私もです」
店員が、ふっと笑う。
客も、つられるように笑った。
◇
大阪の空には、そんな人々を見下ろすように、巨大な紋様が浮かんでいる。
逃げる者がいた。
残る者がいた。
怒る者がいた。
諦めた者もいた。
それでも街は動いていた。
その下で、人々はそれぞれの朝を過ごしていた。




