第三十二話 知られた時間 ――残り1日
2027年3月16日(火) 07:00
大阪市北区、梅田。
未明に雨は上がり、上空を覆う雲には所々に切れ間が見えていた。
街のあちこちで、人が立ち止まっている。
見ている先は、皆同じだった。
空。
双眼鏡を手にした者。
望遠レンズを取り付けたカメラを構える者。
歩道の脇には、三脚に載せられた天体望遠鏡まである。
スマートフォンを手に、空と画面を交互に見ている者もいた。
その画面には、ネット上で予測された「現在の紋様」が表示されている。
だが、紋様はまだ見えない。
雲はゆっくりと流れている。
その切れ間が、少しずつ紋様のある方角へ近づいていた。
「……来る」
誰かが言った。
周囲にいた人々が、一斉に空を見上げる。
スマートフォンが空へ向けられる。
カメラを構える者がいる。
双眼鏡を覗く者がいる。
雲が流れる。
切れ間が重なった。
白い雲の向こうから、紋様の一部が姿を現す。
「…………」
誰も声を上げなかった。
一人の男がスマートフォンへ目を落とす。
画面を見る。
空を見る。
もう一度、画面を見る。
「……同じだ」
「え?」
「同じ……」
近くにいた別の男もスマートフォンを見る。
「これ、今の予測だよな」
「……マジかよ」
ざわめきが広がる。
「同じだって」
「本当だったの?」
「カウントダウン……」
「じゃあ明日じゃん」
男がスマートフォンを耳に当てた。
「もしもし? 今見えた」
「――」
「ああ」
もう一度、空を見る。
「……同じだった」
◇
「カウントダウン、本当だったって!」
駅へ向かっていた男が足を止めた。
すれ違った人の声だった。
男は振り返る。
すぐにスマートフォンを取り出した。
画面を開く。
『一致した』
『予測通り』
『大阪で確認』
『カウントダウン説、本当だった』
次々と新しい投稿が流れていく。
「……マジか」
男は駅を見る。
しばらく動かなかった。
やがて電話をかける。
「もしもし、すみません」
駅へ向かう人の流れから外れる。
「今日、会社行けそうにないです」
男は来た道を戻り始めた。
◇
コンビニのレジ横。
積まれた朝刊の一面に、大きな見出しが躍っていた。
『政府、早期にカウントダウン把握 公表せず』
その横で、客がスマートフォンを見ながら商品をレジへ置く。
「カウントダウン、本当だったみたいですよ」
「え?」
「新聞にも載ってるし、さっき雲が切れて、予測されてた紋様と一致したって」
客が店を出ていく。
店員はレジの横に置いていたスマートフォンを手に取った。
画面を開く。
指を動かす。
止まった。
「……マジかよ」
店員は奥にいる店長へ顔を向けた。
「店長」
「ん?」
「すみません。俺、帰ります!」
「え?」
店員はエプロンを脱ぎ捨てた。
◇
「新大阪までお願いします」
後部座席に乗り込んだ男が言った。
運転手がバックミラーを見る。
「新大阪ですね」
「はい」
男はスマートフォンを握ったまま、続けた。
「……大阪、出ます」
運転手がもう一度バックミラーを見る。
「何かあったんですか?」
「カウントダウン、本当だったらしいですよ」
「え?」
信号が赤に変わる。
車が止まった。
運転手はダッシュボードに置いたスマートフォンへ目をやった。
◇
玄関の外では、男が車に荷物を積み込んでいた。
「母さん、早く!」
返事はない。
男が家の中へ戻る。
「母さん?」
仏間。
老婆は、仏壇の前に座っていた。
手を合わせている。
「母さん、早く車乗って」
「はいはい」
老婆はもう一度だけ、仏壇に手を合わせた。
◇
「ママ?」
『――』
「うん。本当みたい」
『――』
「分からない。分からないけど……」
女は部屋の中を見る。
床には開いた旅行鞄が置かれていた。
「とりあえず、そっち行くから」
◇
「今日どうする?」
「どうするって?」
「大阪出た方がいいんじゃない?」
「どこまで?」
「……分かんない」
若い男女が顔を見合わせる。
どちらも答えを出せない。
その横を、キャリーケースを引いた男が足早に通り過ぎていった。
◇
7時を少し回った。
道路には、まだ車が流れている。
電車も動いている。
店も開いている。
大阪は、まだ動いていた。
ただ――。
街のあちこちで、人々がそれぞれの方向へ動き始めていた。
◇
2027年3月16日(火) 09:24
大阪市内。
道路を埋める車の列は、ほとんど動かなくなっていた。
信号が青に変わる。
前の車が数メートル進む。
止まる。
後ろからクラクションが鳴った。
さらに、その後ろからも鳴る。
「早く行けよ!」
「行けないんだよ!」
怒鳴り声が飛ぶ。
交差点では、信号が変わるまでに抜けきれなかった車が残り、横から来た車の進路を塞いでいた。
青になっても進めない。
赤になっても車が残る。
クラクションだけが増えていく。
『阪神高速は現在、多くの入口が閉鎖されています』
カーラジオの声が、車内に流れていた。
車列は、動かない。
その横を、キャリーケースを引いた人々が歩いていた。
「もう無理だ、歩こう」
「新大阪まで?」
「行くしかないだろ」
後ろで、またクラクションが鳴った。
◇
新大阪駅。
「押さないでください! ゆっくり進んでください!」
駅員の声が響いていた。
改札前を、人が埋め尽くしている。
子供の手を引く母親。
乳児を抱いた父親。
スーツ姿の会社員。
大きな鞄を抱えた若い男女。
「東京まで行きたいんです!」
「指定席じゃなくていいです!」
「次はいつ乗れますか!」
「子供がいるんです! 先に行かせてもらえませんか!」
いくつもの声が同時に飛ぶ。
「順番にご案内します! 押さないでください!」
その間にも、駅に人が入ってくる。
「最後尾どこ?」
「分からない」
「これ、全部並んでるの?」
ホームへ続く階段の前では、別の駅員が両腕を広げていた。
「ただいまホームへの入場を制限しています!」
「電車は動いてるんでしょ!」
「切符あるんだけど!」
「危険ですので、押さないでください!」
人の声に、構内放送が重なる。
その上から、また駅員の声が響く。
◇
地下鉄。
到着した電車の扉が開く。
降りる人。
乗ろうとする人。
その双方がぶつかった。
「降ります! 先に降ろしてください!」
「押さないで!」
ホームには次の電車を待つ人が何列にも並んでいる。
旅行鞄を持った人。
キャリーケースを引いた人。
通勤鞄だけを持った人。
スマートフォンを見つめたまま動かない人。
「新大阪行くんですか?」
「はい」
「やっぱり?」
「とりあえず大阪から出ます」
発車を知らせる音が鳴る。
扉が閉まらない。
「扉から離れてください!」
◇
スーパー。
「お一人様、一点でお願いします!」
店員が声を張り上げる。
「水、もうないんですか?」
「現在、売り切れです!」
「米は?」
「申し訳ございません」
レジから伸びた列は、売り場の奥まで続いていた。
棚には空いた場所が目立つ。
水。
米。
カップ麺。
パン。
缶詰。
トイレットペーパー。
店員が段ボールを積んだ台車を押してくる。
「通ります! すみません、通してください!」
段ボールが開けられる。
中からペットボトルの水が見えた。
「あ、水!」
周囲にいた客が一斉に振り向く。
何人かが同時に動いた。
「押さないでください!」
◇
ガソリンスタンド。
給油待ちの車が、敷地の外まで続いていた。
「最後尾はあちらです!」
店員が道路の先を指さす。
「どれくらい待ちます?」
「分かりません」
「ガソリンなくならないよね?」
「……分かりません」
また一台、列の最後尾につく。
またその後ろにも車が止まった。
◇
大阪府警察本部、通信指令室。
「はい、110番です。事件ですか、事故ですか」
『――』
「落ち着いてください。場所はどちらですか」
別の指令台。
「はい、110番です」
『――』
「けが人はいますか?」
さらに別の指令台。
「はい、110番です」
『――』
「もう一度お願いします。場所はどちらですか」
交通事故。
車同士のトラブル。
店舗での揉め事。
駅での混乱。
路上での喧嘩。
通報は途切れない。
「北区、交通事故! けが人あり!」
「近い車両は!」
「ありません!」
「隣接署は!」
「そっちも出払ってます!」
別の声が飛ぶ。
「中央区、店舗内で客同士のトラブル!」
「対応できる車両は?」
「ありません!」
「110番、入電待ち増加!」
「何件だ!」
「現在も増え続けています!」
指令台では、まだ通話が続いている。
「警察官はすぐには向かえません! その場を離れて、安全な場所へ避難してください!」
「また事故! 淀川区!」
「回せる車両がない!」
「東淀川は!」
「対応中です!」
声が重なる。
一件を処理している間にも、新しい通報が入る。
その間にも、繋がらない110番通報が増え続けていた。
◇
大阪市内。
救急車が車列の間を進もうとしていた。
「緊急車両が通ります! 道を空けてください!」
車が左右へ寄る。
だが、寄れる幅はわずかしかない。
救急車がゆっくりと前へ出る。
数メートル進む。
再び動けなくなる。
歩道では、人々がキャリーケースを引いて歩いている。
駅へ向かう者。
家へ戻る者。
店へ向かう者。
大阪を離れようとする者。
誰もが、それぞれの目的地へ向かっていた。
そのすべてが、一つの街の中で重なっていた。
◇
東京、首相官邸 総理執務室。
2人の人物が向かい合っている。
「……総理」
「……分かっている」




