第十話 近接観測
2027年3月10日(水) 09:42
大阪府上空。
「観測開始!」
機長の声を合図に、P-1哨戒機の機内で各員が一斉に動き始めた。
「可視光、記録開始。」
「赤外線、記録開始。」
「各センサー、正常。」
機体の窓越しに、巨大な紋様が浮かんでいる。
地上から見上げていたものとは、まるで印象が違った。
空を覆う円ではない。
どこまでも平らな、巨大な図形だった。
複雑に絡み合う線と、規則性の分からない記号。そのすべてが半透明の光を帯び、雲ひとつない空に静止している。
全景の記録を終えたP-1は、対象の下方へ回り込んでいた。
「予定どおり接近。対象高度を推定する。」
P-1は対象へ向けて静かに接近を開始した。
同時に、高度を少しずつ上げていく。
「高度6,500フィート。」
「対象、視認。」
機体は上昇を続ける。
「高度7,500フィート。」
「対象、視認。」
窓の外に広がる紋様は、次第に細くなっていった。
「高度8,200フィート。」
観測員が目を凝らす。
そこにあるはずの巨大な紋様が、突然視界から消えた。
「対象、視認不能。」
機内にわずかな緊張が走る。
◇
首相官邸 官邸対策室。
大型モニターでも、それまで映っていた紋様が消える。
「見失ったのか。」
誰かが思わず声を漏らす。
◇
「上昇を継続。」
P-1はさらに高度を上げる。
「高度9,000フィート。」
「対象、再視認。機体下方。」
紋様は再び現れていた。
今度は、機体の下に広がっている。
観測員は映像と飛行記録を照合した。
「対象高度、およそ8,200フィートと推定。」
「対象に、視認可能な厚みは確認できません。」
◇
首相官邸 官邸対策室。
報告が届く。
大型モニターには、真横から見た瞬間だけ消えた紋様の映像が繰り返し再生されている。
存在はしている。
だが、厚みがない。
少なくとも、目にはそう見えた。
◇
「こちらP-1。対象高度の推定を完了。これより予定どおり最接近距離まで接近する。」
『こちら航空集団司令部。予定どおり観測を継続せよ。』
「了解。」
P-1は高度を維持したまま対象へ接近した。
「最接近距離。」
「この距離を維持。」
P-1は機体をゆっくりと傾け、対象の外周に沿って旋回を始めた。
「周回観測を開始。」
「レーダー。」
「反応なし。」
「EO。」
「捕捉中。」
「IR。」
「温度差なし。」
「ESM。」
「電波放射なし。」
「MAD。」
「磁気異常なし。」
「放射線測定器。」
「異常なし。」
「各観測機器、変化なし。」
報告だけが淡々と積み重なっていく。
紋様は確かに存在している。
しかし、各種センサーは何も捉えない。
熱もない。
電磁波もない。
物体としての反応もない。
◇
首相官邸 官邸対策室。
映像だけが現実を示し、計器はすべて、そこには何もないと告げている。
異常なのは、空に浮かぶ巨大な紋様だけだった。
誰も口を開かない。
◇
「1周目の観測を完了。」
P-1はそのまま2周目へ入った。
高度と角度をわずかに変えながら、同じ観測を繰り返す。
「変化なし。」
「異常なし。」
「変化なし。」
「異常なし。」
時間だけが過ぎていく。
機内にも、官邸対策室にも、焦りだけが静かに積み重なっていた。
これだけ接近している。
これだけの装備を投入している。
それでも、新たな情報は何一つ得られない。
「3時方向! 小型飛翔体!」
観測員の鋭い声が機内に響いた。
全員が一斉に右舷へ視線を向ける。
「何だ。」
双眼鏡をのぞいた観測員が答えた。
「……鳥です。」
張り詰めていた空気がわずかに緩む。しかし、観測員の表情はすぐに変わった。
「待ってください。」
「対象と同高度。進路は交差します。」
鳥の群れは進路を変えることなく、巨大な紋様へ向かって飛び続けている。
「全カメラ、鳥を追え。」
「追尾開始。」
◇
首相官邸 官邸対策室。
全員が大型モニターへ視線を集中させた。
◇
全員が見つめる中、鳥の群れが紋様へ近づいていく。
そして――。
一羽。
また一羽。
鳥たちは何のためらいもなく紋様へ入り、そのまま反対側へ抜けていく。
光は乱れない。
鳥の姿も消えない。
羽ばたきも、飛行速度も変わらなかった。
「対象、通過!」
「異常ありません!」
「追尾継続!」
鳥の群れは、そのまま何事もなかったかのように飛び続ける。
進路に変化はない。
高度も変わらない。
紋様から十分に離れても、異常は確認されなかった。
機内が静まり返る。
◇
首相官邸 官邸対策室。
誰も言葉を発しなかった。
「……実体は、ないのか。」
誰かが思わずつぶやく。
海上幕僚長は静かに首を横へ振った。
「断定はできません。」
「確認できたのは、鳥が通過したという事実だけです。」
防衛大臣は海上幕僚長へ視線を向けた。
「航空機も通過できる可能性は。」
「否定はできません。しかし、安全を示す根拠にもなりません。」
鳥が無事だったからといって、人間も同じとは限らない。
機体や電子機器に影響がない保証もない。
そして、一度進入すれば、戻れる保証もなかった。
海上幕僚長は通信担当者へ指示を出した。
「進入は認めない。予定どおり観測を終了させろ。」
◇
『こちら航空集団司令部。対象内部への進入は認めない。観測を終了し、帰投せよ。』
「了解。」
P-1は旋回を終え、巨大な紋様からゆっくりと離れていく。
機内のカメラは、最後まで対象を捉え続けた。
高度、およそ8,200フィート(約2,500m)
直径、およそ20km。
視認可能な厚みは確認できない。
鳥は何事もなく通過した。
それでも、正体は何一つ分からなかった。
人類初の近接観測は、答えを得られないまま幕を閉じた。




