第五十九話 虚無の王
誰も動かなかった。
ゼロ。
その名が響いた瞬間。
空気が変わった。
いや。
世界そのものが変わった。
先ほどまで感じていた虚無喰らいの圧力。
巨大な心臓。
無数の侵食。
終わりの見えない絶望。
その全てが霞むほどだった。
目の前の男は静かに立っている。
ただそれだけ。
それだけなのに。
世界樹が震えていた。
百年間。
世界を支え続けた存在が。
初めて恐怖を見せていた。
『契約者』
世界樹の声が掠れる。
『近付いてはいけません』
シモンは目を細めた。
ゼロを見る。
黒い外套。
黒い髪。
黄金の瞳。
特別な見た目ではない。
むしろ普通だ。
どこにでもいそうな青年。
だが。
違う。
違和感があった。
存在感がない。
いや。
存在感が強すぎて認識できない。
見ているはずなのに。
目が滑る。
記憶に残らない。
理解が追い付かない。
まるで。
「空白だな」
シモンが呟く。
ゼロが笑った。
『正解だ』
初めてだった。
虚無喰らい側で。
シモンの言葉を理解した存在は。
『私は空白』
『始まりの前』
『終わりの後』
『何も存在しない場所』
黄金の瞳が細まる。
『だからゼロだ』
沈黙。
その言葉だけで。
理解してしまった。
こいつは魔王ではない。
神でもない。
怪物でもない。
もっと根源的な何かだ。
アーサーが前へ出る。
世界樹の根が軋む。
百年間。
この存在と向き合ってきた男。
『久しぶりだな』
ゼロが言う。
アーサーは笑わない。
『百年ぶりか』
『百年程度だ』
ゼロは穏やかだった。
本当に。
友人と会話しているような口調だった。
『人間は短命だからな』
その瞬間。
カインの剣が抜かれる。
黄金の光が走る。
ヴァルクも大剣を構える。
エリオスも双剣を握る。
殺気が満ちる。
だが。
ゼロは気にも留めない。
まるで。
路傍の石を見るように。
『面白い』
黄金の瞳が攻略組を見る。
『百年前』
『お前達は何度も立ち上がった』
『何度も絶望した』
『何度も負けた』
『それでも諦めなかった』
静かな声だった。
だが。
どこか嬉しそうだった。
『だから観察していた』
その言葉に。
アーサーの顔色が変わる。
『貴様』
ゼロが微笑む。
『面白かったぞ』
空気が凍る。
観察。
つまり。
百年前から。
ずっと見ていた。
プレイヤー達を。
攻略組を。
全て。
『最終レイドも』
『世界崩壊イベントも』
『私が用意した』
シモンの表情が消える。
アーサーも。
カインも。
ヴァルクも。
全員が理解した。
運営ではなかった。
システムでもなかった。
最初から。
こいつだった。
『人は終わりを前にして何を選ぶのか』
『希望か』
『絶望か』
『諦めか』
『執着か』
ゼロは笑う。
本当に楽しそうに。
『実に興味深かった』
ヴァルクが踏み出した。
怒りだった。
百年間。
仲間達を苦しめた元凶。
許せるはずがない。
「ふざけんな」
大剣が唸る。
「面白いだと?」
「俺達の百年が?」
「レオンの百年が?」
「アーサーの百年が?」
大地が揺れる。
ヴァルクの魔力が爆発する。
百年間。
魂を削られながら耐えた怒り。
その全てが剣へ宿る。
「そんな理由で――」
だが。
ゼロは首を傾げた。
本当に不思議そうに。
『理由?』
その一言だった。
世界が静まり返る。
『理由が必要なのか?』
黄金の瞳が揺れる。
『嵐が吹く理由は?』
『星が生まれる理由は?』
『世界が滅ぶ理由は?』
誰も答えられない。
ゼロは続ける。
『私は現象だ』
『終わりという現象』
『だから世界を終わらせる』
そこに善も悪もない。
本当に。
何もない。
だからこそ恐ろしかった。
悪意なら理解できる。
憎しみなら戦える。
だが。
目の前の存在は違う。
ただ自然に。
当然のように。
世界を終わらせようとしている。
その時だった。
シモンが前へ出る。
アーサーが振り返る。
カインも。
ヴァルクも。
エリオスも。
全員がシモンを見る。
蒼雷が青く輝く。
世界樹が呼応する。
そして。
シモンは笑った。
百年前。
どんな絶望的なレイドでも浮かべていた笑み。
「なるほどな」
ゼロが目を細める。
「だったら簡単だ」
蒼雷が唸る。
雷光が走る。
「現象だろうが」
「終焉だろうが」
「そんなの関係ない」
シモンは剣を構える。
背後には攻略組。
世界樹。
守護者達。
百年越しに集まった仲間達。
そして。
百年間待ち続けた者達。
「レイドボスなら倒すだけだ」
沈黙。
次の瞬間。
ゼロが。
初めて。
心から笑った。
『そうだ』
黄金の瞳が輝く。
周囲の世界が崩壊する。
虚無の心臓が脈打つ。
終末の門が完全に開く。
『それを待っていた』
その瞬間。
ゼロの背後に。
無限とも思える虚無が広がった。
そして。
世界そのものを揺るがす最終決戦が。
ついに始まった。




