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第三十六話 虚無の本体

終末の門の向こう。

黒より深い闇が蠢いていた。

いや。

闇ではない。

あれそのものが生きている。

そう理解した瞬間、シモンは背筋に冷たいものを感じた。

今まで見えていたのは腕だけだった。

ほんの一部。

氷山の一角。

それだけだった。

ゴゴゴゴゴゴゴ……

世界が震える。

黒霧城が軋む。

空が割れる。

大地が悲鳴を上げる。

終末の門が限界まで広がった。

そして。

姿が見えた。

リリアが息を呑む。

誰も言葉を発せない。

巨大。

そんな言葉では足りない。

大陸。

山脈。

海。

そういう尺度で語るべき存在だった。

黒い球体。

いや。

肉塊。

無数の瞳。

無数の口。

無数の腕。

無数の翼。

ありとあらゆる生物の特徴が混ざり合い、歪み、融合した異形。

見ているだけで頭が痛くなる。

存在してはいけないもの。

それが形になったような姿だった。

『虚無喰らい……』

アーサーが呟く。

その声は震えていた。

百年前。

誰も到達できなかった最終シナリオ。

その最深部にだけ記されていた名前。

だが。

実際の姿を見た者はいない。

見た者は残らなかった。

だから。

誰も知らなかった。

これほどまでに絶望的な存在だったとは。

『最後の種』

無数の口が同時に開く。

世界中から声が響いてくる。

老人。

子供。

男。

女。

魔物。

竜。

聞いたこともない種族。

全ての声が重なっている。

『渡せ』

『渡せ』

『渡せ』

『渡せ』

王座の間の空気が震える。

リリアが耳を押さえた。

「やめて……」

頭が痛い。

気持ち悪い。

涙が滲む。

フェンが一歩前へ出る。

巨大化した銀狼の身体から風が吹き荒れる。

『主に近付くな』

青い瞳が鋭く光る。

百年間。

守り続けた。

待ち続けた。

そしてようやく再会できた主だ。

絶対に渡さない。

虚無喰らいの瞳がフェンを見る。

『守護者』

『懐かしい』

その瞬間だった。

黒い触手が数百本。

一斉に伸びる。

速い。

あまりにも速い。

だが。

フェンも速かった。

『疾風天狼』

銀色の身体が消える。

暴風。

嵐。

王座の間を埋め尽くす風刃。

触手を切断する。

砕く。

吹き飛ばす。

だが。

次の瞬間。

切断された部分から新たな触手が生まれる。

再生ではない。

増殖だった。

『厄介ですね』

ノアが前へ出る。

蒼い海が広がる。

王座の間が海へ変わる。

巨大な波。

津波。

海嘯。

全てを飲み込む水の奔流。

『沈みなさい』

海が虚無喰らいへ襲い掛かる。

だが。

黒い肉塊が口を開く。

海が消える。

飲み込まれる。

存在ごと。

ノアの表情が僅かに曇る。

『本当に何でも食べるのですね』

イグニスが豪快に笑う。

『だったら腹壊すまで食わせりゃいい!』

紅蓮の炎が爆発する。

太陽。

いや。

恒星そのもののような熱量。

炎王の全力。

それが虚無喰らいへ叩き込まれた。

世界が白く染まる。

爆発。

衝撃。

轟音。

黒霧城の上層が吹き飛ぶ。

それでも。

虚無喰らいは笑っていた。

『美味い』

炎が消える。

喰われた。

存在ごと。

イグニスの笑顔が消えた。

『なるほど』

黄金の瞳が細くなる。

『本当に面倒だな』

その時だった。

終焉の王が立ち上がる。

砕けた黒翼。

傷だらけの身体。

それでも。

立ち上がる。

黒い霧が王座の間を覆う。

『下がれ』

低い声だった。

シモンが目を向ける。

終焉の王は虚無喰らいを見ていた。

『あれは貴様らでは止められぬ』

『お前はどうなんだ』

シモンが聞く。

終焉の王は答えない。

代わりに。

黒い剣を構えた。

百年前。

誰も見たことのない武器。

終焉そのものを形にしたような剣。

『本来なら』

終焉の王が言う。

『我が処理する存在だった』

黒い霧が膨れ上がる。

世界が震える。

レオンが目を見開く。

アーサーが息を呑む。

世界柱が黄金の瞳を細める。

誰も見たことがない。

終焉の王の本気。

その力が解放されようとしていた。

だが。

シモンは違うものを見ていた。

世界樹だった。

胸の奥。

暖かい光。

世界樹の加護。

その力が叫んでいる。

戦えと。

倒せと。

そうではない。

もっと別の何かを。

救えと。

シモンは終焉の王を見る。

そして。

初めて気付いた。

黒い霧の奥。

その中心。

ほんの僅かだが。

苦しそうな感情がある。

怒りではない。

憎しみでもない。

諦めだった。

百年間。

壊れ続ける世界を見てきた存在の。

深い絶望だった。

シモンはゆっくりと蒼雷を握る。

そして。

呟いた。

「なあ」

終焉の王が振り向く。

「お前」

「本当は世界を終わらせたいんじゃないだろ」

王座の間が静まり返った。

虚無喰らいですら動きを止めたように見えた。

終焉の王の黒い瞳が。

初めて大きく揺れた。

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