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第三十五話 虚無喰らい

《虚無喰らい》。

その名が響いた瞬間。

王座の間の空気が凍り付いた。

アーサーの顔色は真っ白だった。

百年前。

どんなレイドボスを前にしても余裕を崩さなかった男が。

今だけは違う。

レオンも息を呑んでいる。

フェンの耳は伏せられ。

ノアは険しい表情を浮かべ。

イグニスでさえ笑っていなかった。

それだけで十分だった。

シモンは理解する。

終焉の王より危険だ。

遥かに。

終末の門から伸びる黒い腕。

一本だけなのに。

巨大だった。

城壁より太い。

山脈のような長さ。

その表面には無数の瞳が埋め込まれていた。

赤い瞳。

青い瞳。

黄金の瞳。

人間のもの。

魔物のもの。

竜のもの。

見たこともない生物のもの。

ありとあらゆる瞳が腕の表面で蠢いている。

リリアが震えた。

「気持ち悪い……」

思わず漏れた言葉だった。

だが。

誰も否定できない。

生理的な嫌悪感。

本能的な恐怖。

存在そのものが拒絶されている。

そんな異形だった。

『最後の種』

再び声が響く。

世界全体から聞こえてくるような声。

耳ではない。

魂へ直接流し込まれている。

シモンの胸で世界樹の光が脈打つ。

ドクン。

ドクン。

ドクン。

まるで心臓だ。

呼応している。

虚無喰らいに。

『見つけた』

その瞬間。

黒い腕が伸びた。

速い。

巨大な質量からは考えられない速度。

一瞬でシモンへ迫る。

だが。

『させません』

ノアだった。

蒼い海が王座の間を埋め尽くす。

巨大な水流。

津波そのもの。

数百メートル級の水壁が黒い腕へ激突した。

轟音。

空間が震える。

城全体が揺れる。

しかし。

止まらない。

黒い腕は海を切り裂いた。

いや。

喰った。

触れた水が消えている。

蒸発ではない。

消滅だった。

ノアの表情が変わる。

『馬鹿な……』

次の瞬間。

イグニスが飛び出す。

『どけぇぇぇぇ!!』

紅蓮の拳。

太陽のような炎。

一撃で国家を焼き払えるほどの熱量。

炎王の本気。

それが黒い腕へ叩き込まれた。

爆発。

王座の間が白く染まる。

リリアは思わず目を閉じた。

熱風が吹き荒れる。

視界が戻った時。

そこには。

何も変わらない黒い腕があった。

『……食っただと』

イグニスが目を見開く。

炎が消えている。

喰われていた。

魔法でもない。

防御でもない。

存在そのものを。

喰われていた。

その時。

終焉の王が動いた。

黒い霧が爆発する。

『下がれ』

低い声。

次の瞬間。

終焉の王の背後に巨大な黒い翼が現れた。

王座の間を覆うほどの翼。

百年間。

誰も見たことのない姿。

レオンが息を呑む。

「本気か……」

終焉の王は黒い腕へ向かって飛ぶ。

黒と黒。

二つの災厄が激突した。

空間が砕ける。

世界が軋む。

衝撃だけで黒霧城の塔が吹き飛んだ。

リリアは悲鳴を上げる。

「きゃああっ!」

身体が浮く。

吹き飛ばされる。

だが。

シモンが腕を掴んだ。

「離れるな」

短い言葉。

リリアは必死に頷く。

怖かった。

本当に怖かった。

それでも。

不思議と少し安心した。

シモンがいる。

それだけで。

その時だった。

世界柱が苦しそうに顔を上げる。

『契約者』

黄金の瞳がシモンを見る。

『聞け』

声が弱い。

だが切迫していた。

『虚無喰らいは世界を喰う』

『生命も』

『魂も』

『歴史も』

『記憶も』

王座の間が静まり返る。

『奴に喰われたものは存在しなかったことになる』

シモンの顔が険しくなる。

それは死ではない。

もっと酷い。

存在そのものの否定。

『終焉ですら恐れる理由だ』

世界柱の視線が終焉の王へ向く。

黒い翼。

黒い霧。

全力で戦っている。

世界を終わらせようとしていた存在が。

今は世界を守ろうとしていた。

『本来なら』

世界柱が言う。

『終焉は最後の防壁だった』

シモンは理解する。

終焉の王は敵だった。

だが。

もっと大きな敵が現れた。

世界そのものの敵が。

その瞬間。

終焉の王が吹き飛ばされた。

轟音。

黒い翼が砕ける。

王座の間の壁へ叩き付けられる。

初めてだった。

終焉の王が圧倒された。

虚無喰らいの腕が再び伸びる。

狙いはシモン。

正確には。

世界樹の加護。

最後の種。

『渡せ』

黒い声が響く。

『それを喰えば終わる』

世界樹の光が激しく脈打つ。

ドクン。

ドクン。

ドクン。

まるで危険を知らせるように。

その時。

フェンが前へ出た。

銀狼の身体が巨大化する。

さらに。

さらに。

王座の間を埋め尽くすほどに。

『主』

青い瞳がシモンを見る。

『ここから先は』

風が吹く。

暴風が荒れ狂う。

銀色の毛並みが光を纏う。

『百年間』

『ずっと待っていた時間です』

ノアが並ぶ。

イグニスが笑う。

レオンが剣を構える。

アーサーが前へ出る。

そして。

リリアも震える足で立ち上がった。

「わ、私もいます!」

声は震えていた。

でも逃げない。

百年前の英雄たち。

世界を支える守護者たち。

その中で一番弱い自分。

それでも。

ここにいる意味があると信じたかった。

フェンが牙を剥く。

『主』

『世界樹を』

『咲かせてください』

その言葉と同時。

終末の門の向こうで。

虚無喰らいの本体が。

ゆっくりと姿を現し始めた。

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