第一話 目覚め
冷たい。
最初に感じたのは、それだった。
石のように硬い床。
肌にまとわりつく湿った空気。
鼻をつく土と埃の匂い。
肺へ流れ込む冷たい空気。
「……っ」
息を吸った瞬間、胸が苦しくなる。
まるで何年も閉ざされた地下空間にいるようだった。
意識がゆっくりと浮上する。
重たい瞼を開く。
視界に映ったのは薄暗い石造りの天井だった。
ところどころ崩れ、ひび割れている。
隙間から差し込む微かな光だけが周囲を照らしていた。
「……なんだ、ここ」
掠れた声が漏れる。
俺は上半身を起こそうとして違和感に気付いた。
身体が重い。
長時間眠っていたような感覚。
関節が軋む。
筋肉が鈍い痛みを訴える。
最後の記憶を探る。
覚えている。
はっきりと。
《終焉の王》との決戦。
世界崩壊イベント。
そしてサービス終了。
眩い光に包まれたところまでは覚えている。
だが、その後がない。
反射的にメニューを開こうとする。
いつものように視界の端へ意識を向ける。
しかし何も表示されなかった。
ログアウトボタンも。
システムウィンドウも。
マップも。
ステータス画面も。
何一つ表示されなかった。
「……は?」
もう一度試す。
何も出ない。
三度試す。
結果は同じだった。
嫌な汗が滲む。
そんな馬鹿な。
サービス終了後だからか?
いや、違う。
そんな単純な話ではない。
そもそも感覚そのものがおかしかった。
《エターナル・フロンティア》はフルダイブ型VRMMOだった。
現実と見分けがつかないほど精巧だったが、それでもゲームはゲームだ。
どこか作り物めいた感覚が残っていた。
だが今は違う。
肌に触れる冷気。
鼻を刺す埃の匂い。
肺へ流れ込む空気。
胸の鼓動。
全てが生々しい。
まるで本当に現実へ放り込まれたようだった。
俺は床へ手をつく。
冷たい石の感触が指先から伝わる。
試しに拳を握る。
関節が軋む感覚まではっきり分かった。
こんなものはゲームでは再現できない。
少なくとも俺の知る技術では。
「……なんなんだよ」
思わず呟く。
運営の隠しイベントか。
サービス終了後のバグか。
それとも夢か。
どれも違う気がした。
答えは出ない。
だが一つだけ確かなことがある。
ここは俺の知っている《エターナル・フロンティア》によく似ている。
だが、俺の知っているゲーム世界とは決定的に何かが違っていた。
その時だった。
遠くから悲鳴が聞こえた。
「きゃああああっ!!」
若い女性の声。
続いて獣の唸り声。
ガルルルルルッ!!
本能が反応した。
考えるより先に身体が動く。
俺は立ち上がった。
足元には砕けた石片が散らばっている。
周囲を見回す。
石壁。
崩れた柱。
見覚えのない紋章。
どこかの遺跡らしい。
だが俺の記憶にはない場所だった。
悲鳴が再び響く。
俺は暗い通路を駆け出した。
不思議なことに身体はよく動く。
むしろ以前より軽いくらいだった。
長い通路を抜ける。
そして広い石室へ飛び込んだ。
そこには一人の少女がいた。
革鎧を身につけた冒険者風の少女。
年齢は十六、七歳ほどだろうか。
栗色の髪を肩まで伸ばしている。
大きな琥珀色の瞳。
まだ幼さの残る顔立ちだった。
だが今はその顔が恐怖で青ざめている。
剣を構えているものの、その手は震えていた。
足を怪我しているらしい。
逃げることもできないのだろう。
そして彼女の前には魔物がいた。
灰色の毛並み。
鋭い牙。
赤く光る瞳。
その姿を見た瞬間、俺は思わず声を漏らす。
「……ロックウルフ?」
見間違えるはずがない。
初心者向けダンジョンに出現する雑魚モンスター。
レベル10程度。
駆け出しプレイヤーが最初に戦う相手だ。
だが違和感があった。
ロックウルフはこんな場所に出ない。
もっと初心者向けの平原や森が生息地だったはずだ。
なぜ遺跡の奥にいる?
考える暇はなかった。
ロックウルフが飛びかかる。
少女が目を閉じた。
「っ!」
その瞬間。
俺は地面を蹴っていた。
一歩。
二歩。
景色が流れる。
身体が勝手に最適解を選んでいた。
気付けばロックウルフの懐へ入り込んでいる。
「悪いな」
右拳を振るう。
鈍い衝撃が腕へ伝わった。
ロックウルフの身体が宙を舞う。
石壁へ激突。
轟音。
そしてそのまま動かなくなった。
静寂が訪れる。
少女が呆然とこちらを見上げていた。
ぽかんと口を開けている。
完全に状況が理解できていないらしい。
「え……?」
俺も首を傾げる。
「え?」
しばらく見つめ合う。
妙な沈黙だった。
先に我に返ったのは少女だった。
「あ、あの!」
慌てて頭を下げる。
「た、助けていただいてありがとうございます!」
勢いが良すぎてふらつく。
怪我した足に体重が乗ったらしい。
「いたっ」
「大丈夫か?」
「だ、大丈夫です!」
全然大丈夫そうではなかった。
少女を一旦腰掛けさせ、俺は安全を確認しつつ、周囲を見回した。
崩れた石壁。
風化した彫刻。
見たことのない紋章。
何十年、いや何百年も放置されたような遺跡。
胸の奥で嫌な予感が膨らむ。
「一つ聞いていいか?」
「は、はい」
少女は少し緊張した様子で頷いた。
だが助けてもらった安心感からか、先ほどより表情は柔らかい。
「何でしょう?」
素直な声だった。
俺はゆっくりと尋ねる。
「今って……何年だ?」
少女はきょとんとした。
まるで「そんなことも知らないんですか?」と言いたげな顔だった。
そして不思議そうに答える。
「聖暦四百二十八年ですけど?」
その瞬間。
頭の中が真っ白になった。
「……は?」
思わず聞き返す。
だが少女は同じ答えを繰り返した。
「聖暦四百二十八年です」
聞き間違いではない。
聞いたこともない年号だった。
俺は無意識に後ずさる。
聖暦。
そんな暦は知らない。
少なくとも《エターナル・フロンティア》には存在しなかった。
王国歴でもない。
建国年でもない。
イベント年表でもない。
俺の知るどの記録にも存在しない。
「待て……」
思考が追いつかない。
俺は周囲を見回した。
崩れた石壁。
風化した彫刻。
見覚えのない紋章。
遺跡の天井に走る無数の亀裂。
長い年月を感じさせる苔と土埃。
今まで意識しないようにしていた違和感が、一気に押し寄せてくる。
ここはどこだ。
俺はなぜここにいる。
そもそも本当に《エターナル・フロンティア》なのか。
答えられる人間は誰もいない。
少女も不安そうにこちらを見ている。
だが俺の方が混乱していた。
ログアウトできない。
システムも出ない。
マップもない。
現在地すら分からない。
俺はプレイヤーなのか。
それとも別の何かなのか。
自分自身の立場すら曖昧だった。
胸の奥がざわつく。
嫌な予感が膨らんでいく。
今までレイドボスを相手にしても感じなかった種類の恐怖だった。
未知への恐怖。
理解できないものへの恐怖。
「ここは……どこなんだよ」
思わず漏れた声は、自分でも驚くほど弱々しかった。
少女は答えられない。
当然だ。
俺が知りたいのは遺跡の名前じゃない。
もっと根本的なことだ。
ここはどこなのか。
今はいつなのか。
俺に何が起きたのか。
何一つ分からない。
ただ一つだけ。
確かなことがある。
俺はもう、元いた場所には戻れない。
そんな予感だけが、胸の奥へ重く沈んでいた。




