第十一話 墓守の告白
フェンが消えた後。
古戦場には静寂だけが残った。
風が吹く。
無数の墓標が揺れる。
だが誰も言葉を発しなかった。
リリアは完全に固まっていた。
巨大な狼。
頭の中へ直接響く声。
黒い侵食。
そして黒霧城の方角から聞こえた咆哮。
どれも理解の範疇を超えている。
「今のが……フェンなんですか……?」
ようやく絞り出した声は震えていた。
シモンは静かに頷く。
「ああ」
間違えるはずがない。
百年前、誰よりも長く共に戦った相棒だ。
何度も命を預けた。
何度も命を救われた。
だが最後に見たフェンとは違う。
あまりにも苦しそうだった。
その姿が胸に重く残る。
その日は予定を変更し、再びバルドの小屋へ戻ることになった。
夕暮れの古戦場。
赤く染まる墓標の海を歩きながら、誰も口を開かなかった。
小屋へ戻ると、バルドは珍しく酒を飲んでいた。
暖炉の前。
椅子へ深く腰掛けたまま、琥珀色の液体を見つめている。
顔色は悪い。
何かを決意した人間の顔だった。
「話すべきか……」
誰に言うでもなく呟く。
シモンは向かいへ腰を下ろした。
「何をだ」
バルドは答えない。
長い沈黙。
暖炉の薪が小さく爆ぜる音だけが響く。
やがて深く息を吐いた。
「黒霧城へ行くなら知っておけ」
空気が変わる。
リリアも自然と背筋を伸ばした。
「十年前」
バルドが口を開く。
「俺は黒霧城へ行った」
シモンの目が細くなる。
「レオンに会いにか」
「そうだ」
バルドは苦笑した。
「久しぶりに昔話でもしようと思ってな」
百年ぶりの再会。
それだけのつもりだった。
だが結果は違った。
「レオンは俺を覚えていた」
「普通に会話もした」
「レイドの話もした」
「お前の話もした」
少しだけ安心する。
少なくとも、その時点ではレオンだった。
だが。
「途中で変わった」
暖炉の炎が揺れる。
部屋の空気が重くなる。
「変わった?」
「別人になった」
沈黙。
「正確には違う」
バルドは酒を飲み干した。
「別の人格が出てきた」
シモンの眉が動く。
「人格?」
「ああ」
低い声だった。
「レオンの身体の中には二人いる」
リリアが息を呑む。
バルドは続けた。
「百年前のレオン」
「そして――黒霧城の王だ」
暖炉の火が揺れる。
誰も言葉を発しない。
馬鹿げた話だ。
だが今さら否定できる者もいなかった。
百年前のプレイヤーが生きている。
召喚獣が百年後も存在している。
終焉の王の咆哮が響いている。
ならば人格が混在していても不思議ではない。
「俺が見た限り」
バルドが言う。
「レオン本人はまだ残っている」
「だが徐々に食われている」
食われる。
嫌な表現だった。
「何にだ」
シモンが問う。
バルドは首を振る。
「分からん」
「ただ一つだけ確かなことがある」
真っ直ぐな視線。
そして。
「世界崩壊イベントの続きだ」
シモンの目が細くなる。
その言葉を待っていた。
世界崩壊イベント。
百年前。
最後のレイド。
《終焉の王》。
討伐失敗。
世界崩壊イベント開始。
そしてサービス終了。
そこから先を知る者はいない。
本来なら。
だが。
「レオンは知っている」
バルドが言った。
「何?」
「奴はこう言った」
バルドの顔色が悪くなる。
思い出したくない記憶らしい。
そしてゆっくりと口を開いた。
『俺たちは負けたんじゃない』
『まだ終わっていない』
『終焉の王は生きている』
部屋の空気が凍り付く。
リリアには意味が分からない。
だがシモンだけは理解していた。
その名前の重さを。
終焉の王。
数万人のプレイヤーが挑み、最後まで倒せなかった怪物。
世界崩壊イベントの中心。
本来ならゲーム終了と共に消えるはずだった存在。
それが今も生きている。
馬鹿げている。
だが百年後の世界が存在している時点で、今さら何が起きても不思議ではなかった。
「フェンの侵食も……」
シモンが呟く。
バルドは静かに頷いた。
「おそらく同じだ」
「黒霧城全体が汚染されている」
「レオンも」
「フェンも」
「城の魔物も」
「全部だ」
暖炉の火が揺れる。
長い沈黙が落ちた。
翌朝。
空は雲ひとつない快晴だった。
リリアは朝から慌ただしく荷物をまとめている。
「あれ?」
「え?」
「水筒どこいったっけ……」
荷物をひっくり返す。
「あった!」
数秒後に見つける。
そしてまた別の物を探し始める。
緊張しているのが丸分かりだった。
シモンは思わず苦笑する。
「落ち着け」
「む、無理です!」
顔を真っ赤にする。
「これから黒霧城なんですよ!?」
その姿にバルドが吹き出した。
「お前さんも苦労するな」
「本当にそう思う」
「ひどい!」
頬を膨らませて抗議するリリア。
少しだけ空気が軽くなった。
やがて出発の時が来る。
バルドは小屋の前で待っていた。
「本当に行くのか」
最後の確認だった。
シモンは笑う。
「行くさ」
「止めても無駄か」
「無駄だな」
フェンがいる。
レオンがいる。
なら行かない理由はない。
バルドは苦笑した。
百年前から変わらない。
そう思った。
そして腰から一本の剣を外す。
「持っていけ」
シモンが受け取る。
《蒼雷》。
古戦場で見つけた剣。
一晩で修復された百年前の遺産。
「俺にはもう必要ない」
シモンは静かに頷く。
「借りる」
「返さなくていい」
バルドは笑った。
「どうせ持ち主も怒らん」
その持ち主は百年前に死んでいるのだから。
そして、その日の夕方。
ついに見えた。
黒霧城。
山そのもののような巨大な城壁。
空を覆う黒い霧。
近付くだけで息苦しくなるほどの圧迫感。
リリアが息を呑む。
「これが……黒霧城……」
気付けばシモンの袖をそっと掴んでいた。
本人は気付いていない。
シモンも何も言わなかった。
ただ前を見る。
その時だった。
城の最上階。
黒い窓の奥に人影が見えた。
黒い鎧。
長剣。
微動だにしない。
だがシモンには分かった。
レオンだ。
向こうも気付いている。
百年ぶりに仲間が帰ってきたことに。
そして次の瞬間。
ゴゴゴゴゴゴ――
黒霧城全体が震えた。
まるで長い眠りから何かが目覚めたように。
黒い霧が空へ噴き上がる。
世界が軋む。
その異変を前に、シモンは静かに蒼雷を握り締めた。
百年前に終われなかった物語が。
ついに再び動き始めた。




