第十話 風狼の咆哮
その夜、俺はほとんど眠れなかった。
古戦場を吹き抜ける風の音を聞きながら、天井を見つめ続けていた。
バルドから聞いた話が頭から離れない。
レオン。
終焉の王。
そしてフェン。
百年前に終わったはずの物語が、今もどこかで続いている。
それだけでも十分に衝撃だった。
だが、それ以上に引っかかっていたのは――侵されている、という言葉だった。
フェンに何が起きたのか。
レオンに何が起きたのか。
黒霧城で何が起きているのか。
考えれば考えるほど、胸の奥に重たい不安が積もっていく。
暖炉の火は消えている。
隣ではリリアが毛布に包まって眠っていた。
小さな寝息。
時折ぴくりと身体が動く。
何か夢を見ているのかもしれない。
少しだけ口元が緩んでいた。
だが、それもすぐ消える。
俺は窓の外を見る。
東の空。
見えないはずの黒霧城が、そこにある気がした。
翌朝。
古戦場には薄い霧が立ち込めていた。
無数の墓標が朝日に照らされ、静かに輝いている。
俺たちは出発の準備を整えた。
バルドは小屋の前で腕を組みながら待っていた。
「本当に行くんだな」
「ああ」
「止めても無駄か」
「無駄だな」
バルドは苦笑した。
諦めたような顔だった。
「ならせめて、こいつを持っていけ」
そう言って差し出されたのは一本の剣だった。
《蒼雷》。
昨日、古戦場で見つけた槍使いの遺品。
一晩で磨き上げられていた。
刃の欠けは残っている。
柄の革も古い。
だが鈍く青く光る刀身には、確かな力が宿っていた。
「一晩でここまで直したのか」
「暇だからな」
バルドは笑った。
だが、その笑顔は少し寂しそうだった。
「いいのか」
「どうせ持ち主は文句を言わん」
その言葉に込められた意味は分かる。
俺は黙って剣を受け取った。
「借りる」
「返さなくていい」
朝風が吹いた。
百年前の仲間たちは、もう戻らない。
その事実だけが妙に重く胸へ残った。
「シモンさん」
隣から声がする。
振り返ると、リリアが不安そうな顔で立っていた。
「行きましょう」
少しだけ笑っている。
無理しているのが分かった。
怖いのだろう。
それでも付いて来る。
本当に変な奴だ。
「怖いなら今のうちに帰れ」
「帰りません」
即答だった。
「まだ言うか」
「だって帰ったら負けた気がするじゃないですか」
頬を膨らませる。
少しだけ拗ねた顔。
それを見てバルドが吹き出した。
「お前さんも苦労するな」
「本当にそう思う」
「ひどい!」
リリアが抗議する。
その姿が妙に可笑しくて、俺も少し笑ってしまった。
古戦場を抜ける。
東へ。
黒霧城へ。
進めば進むほど景色が変わっていった。
木々は枯れ、葉は黒く変色している。
草花はほとんど見当たらない。
空気そのものが重い。
息を吸うたびに胸の奥がざらつく。
まるで世界そのものが腐り始めているようだった。
「うぅ……」
後ろから小さな声が聞こえる。
振り返ると、リリアが顔をしかめていた。
「気持ち悪いです……」
唇の色も少し悪い。
無理もない。
普通の冒険者なら近付くだけで体調を崩しそうな場所だ。
「休むか」
「だ、大丈夫です」
ふらつきながら答える。
全然大丈夫そうじゃなかった。
「強がるな」
「強がってません」
「足元見ろ」
「え?」
下を見る。
木の根に躓く。
「きゃっ!?」
前へ倒れた。
反射的に腕を掴む。
危うく顔面から地面へ突っ込むところだった。
「ほら」
「……ありがとうございます」
耳まで赤くなっていた。
恥ずかしいらしい。
本当に見ていて飽きない。
その時だった。
空気が変わる。
俺は足を止めた。
気配。
複数。
しかも近い。
「シモンさん?」
「下がれ」
声を低くする。
リリアの表情が引き締まった。
気配は十三。
人型。
だが生者ではない。
木々の奥から何かが現れる。
ガシャリ。
金属音。
次々と姿を見せたのは黒い甲冑の兵士たちだった。
全身を漆黒の鎧で覆っている。
顔は見えない。
目の部分だけが赤く光っていた。
まるで死人が鎧を着て歩いているようだった。
「な、何ですかあれ……」
リリアの声が震える。
兵士たちは答えない。
無言。
ただ剣を抜く。
そして一斉に襲いかかってきた。
速い。
普通の冒険者なら反応できない。
だが俺には見える。
蒼雷を抜く。
青い軌跡。
先頭の兵士を斬り伏せる。
二体目。
三体目。
流れるように斬り裂く。
だが、違和感があった。
倒れない。
確かに致命傷を与えた。
それなのに立ち上がる。
傷口から黒い霧が溢れ出し、肉体を再生していた。
「面倒だな」
思わず呟く。
その瞬間。
後方から怒鳴り声が飛んだ。
「核を壊せ!!」
振り返る。
バルドだった。
全力疾走している。
「何してる」
「心配になった!」
なるほど。
百年前からそういう男だった。
「胸だ!」
「黒い核がある!」
俺は兵士の胸元を見る。
確かに見えた。
鎧の奥。
心臓の位置。
黒い結晶。
俺は踏み込む。
蒼雷が唸る。
一閃。
結晶が砕け散った。
兵士が崩れる。
今度は再生しない。
「なるほど」
弱点はそこか。
数分後。
最後の兵士が崩れ落ちた。
静寂が戻る。
リリアがへなへなと座り込む。
「お、終わったぁ……」
安堵したように胸を押さえる。
だが、次の瞬間。
全員の動きが止まった。
俺も。
バルドも。
リリアも。
感じた。
圧倒的な存在感。
森の向こう。
丘の上。
そこに一頭の狼が立っていた。
巨大だった。
銀色の毛並み。
風を纏う神獣のような姿。
そして青い瞳。
忘れるはずがない。
「フェン……」
思わず声が漏れる。
百年ぶりの再会だった。
フェンもこちらを見ている。
確かにフェンだ。
だが、俺はすぐ異変に気付いた。
右目だけが黒く染まっている。
闇そのものが侵食しているようだった。
フェンの身体が震える。
苦しそうに。
悲しそうに。
そして、頭の中へ声が響いた。
『主……』
懐かしい声。
百年間、忘れたことのない声。
『来てはいけません』
俺は目を見開く。
『お願いです……』
『黒霧城へは……』
声が途切れる。
フェンが苦しそうに頭を振った。
黒い霧が全身を這い回る。
まるで何かと戦っているようだった。
『逃げてください!!』
叫びだった。
悲鳴だった。
『王が目覚めます!!』
その瞬間、大地が震えた。
遠く。
黒霧城の方角。
空そのものが揺らぐ。
世界が軋む。
そして――
グォォォォォォォォォォォォッ!!
巨大な咆哮が響いた。
忘れるはずがない。
百年前、数万人のプレイヤーが挑み、敗北した怪物。
世界崩壊イベントのラスボス。
終焉の王。
その咆哮だった。
俺は東を見る。
黒霧城。
ついに来た。
百年前に終われなかった戦いが。
今、再び始まろうとしていた。




