2-1『ホセリエル司教の憂鬱』
◇◆◇◇◆◇
紅茶にはティースプーン四杯の砂糖をいれて飲む。それがホセリエル司教の唯一の楽しみだ。
ふうっと息を吐き、緊張をほぐす。口内に広がる香りと甘さを最大限楽しむように、ゆっくりと飲み込む。
無害な好々爺。
それが周囲の彼に対する評価だった。不正を進んで行ったことはなく、政敵に対しても真摯に対応してきた彼を慕うものは多い。陰口を叩く輩もいないではないが、笑顔で手を振り、争いからは距離をとっている。
同期たちはお互いを牽制し、蹴落としあい、いつの間にか姿を消していった。仲の良かった者も、嫌な奴も、この地区にはもう残っていない。だから、これからも平穏無事に、時が過ぎれば良い。礼拝の時間には、いつもそう願っている。
──ああ、それなのに。
ガシャガシャと金属音を響かせながら、慌ただしく足音が近づいてくるのを聞いて、ホセリエルは平穏なティータイムが終わることを悟った。
ノックもなくドアが開かれて、飛び込むように一人の若い聖騎士見習いが入ってきた。
「ホセリエル様! 大変です! 報告がありまして! あっ、失礼します!」
「落ち着きなさい、ノムくん。いつも言ってますが、部屋にはまずノックをして許可を得てから入っておいで」
自身の言い方のなかでは強めにたしなめているつもりなのだが、彼が改めることはないだろうとも理解している。彼の生来の気質や特性といったものなのだから、気にしなければ、困ることなど当面の間はないのだから。
そもそも、彼が執務室に入ろうとした時に、制止できなかった者を叱責すべきなのだろう。今はいないのだから、彼だけを責めるのも違うだろう。
ホセリエルは溜息を吐くと、薄くなった自分の頭をひと撫でしてから、脇に置いておいた赤色の帽子を被る。
ノムはこの教会に残された数少ない戦闘職である。本来ならここにいるはずの聖騎士の多くは王国から来たというあの妖しげな女、オリビアと名乗る巫女について行ってしまった。
あろうことか、聖女の職に就くコーデリアまでも。
もともと、ホセリエルの元には見習いの彼を含めて二十人ほどしか聖騎士がいなかったが、今や数名しか残っていないのだ。無防備となったこの街は、いつ何時、魔獣の災禍に見舞われるか分かったものではない。
そうなった時、彼には悪いが、その身を盾として捧げてもらわねば。
だから、些事について口喧しく言うのは控えよう、などと考えていた。しかし、最近はどのように言っても変わらない彼には、どのように言っても良いのかもしれないと、思い直すようになっている。
「それで、何があったのですか? 聖騎士の皆さんが戻ってきてくれたのですか?」
おそらく聖騎士たちは、あの女の魅了の魔力に取り込まれたのだろう。さもなければ、この聖教会と街の守護を担う聖騎士たちが、邪教と大魔霊の討伐などについて行くはずがない。
オリビアと話した聖騎士の一人が他の仲間を扇動し、地下に保管されていた桜花の聖細剣まで持ち出していってしまった。
この街に聖騎士以上の戦力がない以上、彼女らを止められる者はおらず、立ち去るのをただ見送ることしかできなかった。
あれから間も無く一週間。彼女たちの行方はどことも知れない。街のものたちには近隣に出現した危険な魔獣の討伐に向かわせていると伝えているが、疑念は広まっている。
「えっと、そちらではないのですが……。もう一つの方の返答が届きましたよ」
そう言ってノムは金属の筒を差し出してきた。うっすらと桃色の金属光沢を放つ筒には、桜の花と蕾が装飾されている。
なるほど。宝剣が持ち出された時に、すぐに聖教会本部に援軍を要請する手紙を送っていたのだが、その返答がやっと届いたのだろう。
思っていたよりも時間がかかったが、これほどの大事だ。本部も慎重に動いたと思おう。
「おお、届いたか。どれ、すぐに確認しなければ……」
受け取る手が止まる。
筒の装飾は人によって少しずつ異なる。桜の花と蕾は聖教会のシンボルだが、高い地位にある者たちは、そこに自身を表す装飾を加える。例えばホセリエルは焔が舞う装飾を使っている。
届いた筒には荒ぶる波が刻まれていた。
ホセリエルが手紙を送ったはずの友人は装飾を使わない。その装飾を使う人物は、ホセリエルよりも上の地位、大司教だ。
慎重に筒の封を開けて、中の手紙を取り出す。
一読して、理解できず、再度読み直す。
書いてある内容は把握できたが、理性が理解するのを拒否しているようだ。
さらに、もう一度読み直した。しかし、何度読み直しても、どう好意的に解釈しても、理解はできない。
「……ホセリエル様? 手紙にはなんと?」
───
ホセリエル司教殿
此度の報せについて、憂慮している。
幾人もの忠実なる者が諫言に惑わされたとは、未だ信じ難きこと。なれど、かの魔女の所業なれば、彼らも意にそぐわぬ操り人として救いを待つ身である。
ゆえに、貴殿が桜花の導きを携えて奈落へ赴き、再び彼らを導くことこそ、その地に静穏を得ることになると、我らは信じている。
また、奈落に潜む者どもが、外なる神の怒りと共に災禍を振り撒いている。もし貴殿のその道を塞ぐとするなら、それらも取り除く必要があるだろう。もし外なる神の怒りを鎮めることができたなら、新たに神域へ勧請せよ。
闇を祓う宝剣とその使い手らを送る。
貴殿が司教として為すべきことを成し、未曾有の大禍を防ぐことを、我らは信じている。
剣に備えよ。
大司教ホリエル
───
これは、あれか? 出陣命令なのか?
奈落とは北の地にある巨大な陥没穴のことか? 聖騎士たちがそこにいるのか? なぜ分かる?
外なる神とは邪教が操るという大魔霊のことか? それを勧請? この地に祀れというのだろうか?
疑問は雲霞の如く溢れてくる。手紙には改竄されたような様子はない。手紙の主はホセリエルのよく知る人物で、筆跡も間違いなく彼のものだ。
しかし、彼の言い回しとは思えない文章に違和感がある。印もわざと欠けたように押されている。いや、そもそも……。
「この手紙は、誰が持って来たのだ? 使者の方は?」
「え? えーっと、たぶん小妖精便だと思います。いつの間にか届いてましたので」
まさか! このような重要な手紙を小妖精に託すだと? いや、これが本物なら、複数の手段で送ったと考えられる。
手紙をテーブルに裏返して広げる。ティーカップを手に取り、紅茶を一口含み、残りを手紙の上に溢す。
「この文の主、何をか伝へむとする」
溢れた紅茶がゆるゆると紙の上を滑り、手紙を書いた者の真意を表す。
『シンテキハ ソバニイル ヨウジンセヨ』
ホセリエルはため息を吐く。
紅茶が意味のある文を成したのは一瞬で、すぐに崩れてしまった。
「あー、ホセリエル様、こぼさないでくださいよ。大切なお手紙ですよね」
ノムが手紙の上の紅茶を拭き取ってしまう。
「それで、我らは何を成せばよいのですか?」
ノムは紅茶を拭き取った手紙を差し出しながら笑顔で聞いてくる。すでに予想はしているのだろう。抜けているようで、なかなかに勘の働く男だ。
「……残っている聖騎士に万事備えるよう伝えてください。詳細は追って通達します」
ノムは踵を打ち鳴らし敬礼した。踵を返しドアを壊しさうなほど勢いよく開き、走って出て行った。
「あぁ、嫌だ嫌だ。争いなんて世界から消えてしまえばよいのに。なぜ自ら渦中に飛び込まねばならぬのか」
ホセリエルはため息をつき、帽子を脱いで頭を撫でた。
手紙の真意は分からないが、命じられれば動かなければならない。新たな戦力も派遣されるのであれば、大きな戦いになるだろう。
しかし、闇に潜む何かが動いていることに間違いはないだろう。備えなければ。
◇◆◇
ノム・ド・ゲールは長い回廊を足早に歩を進める。足取りは軽く、スキップでもしそうなほどご機嫌で。
「あぁ、はじまる! さぁ、戦争だ! そう、アレはボクのものだ!」
回廊には誰もいない。いたとしても、誰に気兼ねすることがあるだろうか。すでにこの街の聖騎士も住民も意のままだ。ホセリエルは無力を絵に描いたような老人だ。戦争が始まればすぐに消えてもらおう。悲しみの凶弾に!
「オリビアはうまくロアを無力化させてくれたようだね。隠れ家を教えた甲斐もあったってものさ!」
彼女が教会にやってきたとき、すぐに道化を演じ、やっかいな聖騎士をうまく誘導できた。
運良く大魔霊を召喚しただけで、偉そうに振る舞うロアのやつも、もういない! この地は間も無くボクのものになる!
教会にノムの笑い声が響く。




