3-5『奈落への帰還』
◇◆◇◇◆◇
ノムの足元が破裂して、地面から銀色の巨大な何かが突き出してきた。それが掠奪蟻の顎だと理解するまでの、僅かな隙をつかれて、両腕の上から身体を顎に挟み込まれてしまう。
「っな!」
足元に大きな穴が空いて、そこからさらに一匹の掠奪蟻が姿を現した。
グルームだった男と、その肩に担がれた女が、掠奪蟻の大きな背中に飛び乗った。
逃げられる? ふざけるな!
ノムは右腕を蟻の顎から引き抜き、逃げようとする二人に向ける。
「──エガさん! アイツ! こっちを狙って──」
「逃がすかぁぁ」
黒い触手を全速で打ち出す。
男の背中に当たり、そのままの勢いで腹を貫いた。
致命傷だ。
ニヤリと笑みが溢れる。
「いやあ! エガさん!」
女の叫び声が響きわたる。
男が力無く体勢を崩して、蟻の背中から落下した。女も男の肩から転がるように落ちたが、すぐに起き上がり、男を抱き抱えるように支えた。
じわじわとなぶるつもりだったが、仕方ない。苛立ちを晴らすのは女の方で我慢するか……。そう思っていたノムの思考が、信じがたい光景を見て止まる。
「ンな! なんだそれは!?」
女に起こされた男の腹には、しっかり穴が空いていた。穴の奥に向こう側が見えたのだから間違いなく致命傷だった。
しかし、次の瞬間、その穴の周りの肉が盛り上がり、瞬く間に塞がっていった。
同時に、傷が回復する際に男の体から発せられた、恐ろしいほどの魔力の気配は、ノムの身体を戦慄させるほど巨大なものだった。
掠奪蟻が男と女を咥えて走り出す。
しかし、ノムは動けなかった。
蟻の姿が夜の闇に消えていくまで、呆然と見送るしかなかった。
「……いつまで挟んでんだよ! この害虫が!」
ノムは自失状態から立ち直ると、全身から黒いもやを発生させた。
もやに触れた蟻の顎がグズグズと音を立てて腐っていく。そして、ノムの背中から高く伸びた触手が振り下ろされると、熟れた果実のようにグシャリと潰れた。
「……ふふふ」
ノムは男が放っていた魔力の大きさを思い出し、畏怖と憧憬の念を抱いて、笑う。
「なんだアレ? いや、もしかして。いや、もしかしなくても、アレはアレだよね? 大魔霊だ!」
ノムは笑いながら歩き出す。
「あの役立たずめ! 報告じゃあ、奈落から蟻が溢れたってだけだったのに! もっと面白いものが飛び出してきてるじゃないか! バカが。見逃しやがって……」
つまり、オリビアが勝って、大魔霊を新しい人形にしたのか? いや、違う。それならアレが自由に出歩いているはずがない。
ロアもオリビアも聖騎士も共倒れして、アレが自由になった? それも違う。そうなるためには協力者が足りない……。
……まあ、良い。
今朝届いた大司教の手紙によれば、新たな聖騎士が派遣されてくるはず。
今度は僕自ら聖騎士どもを率いて奈落に赴こうじゃないか。
どこに逃げても、お前は僕が必ず手に入れる。
「ぜったいに逃がさないからな」
◇◆◇
あっけない最期だった。
知らない世界で目覚めて、ロアとオリビアに狙われて、シアと出会って、ミアを眠らせて、ワッツを助けて、ノムに襲われて、これでお終いか。
なんと慌ただしく、ドタバタした時間だっただろう。もう少し、この世界を知りたかったし、見て回りたいと思ったばかりなのに……。
ノムの放った何かで、腹に大きな穴が空いてしまった。これは助からない。自分の体だから分かる。シアには申し訳ない気持ちがあるが、俺はここまでだ。
シアのことを思うと、目の前にその姿が浮かぶようだ。赤黒い肌に艶のある黒髪。細い筆で描いたような眉と長いまつ毛が美しい。特徴的な鋭い碧眼が、強い意志を感じさせる。いや、不甲斐なくやられてしまった俺に怒りを覚えているのかもしれない。
「……あぁ、シア、すまない」
「……謝る気があるなら、さっさと起きなさい!」
ガツンと横腹を蹴られた衝撃が全身を巡り、ゴロゴロ転がってから、覚醒する。
「──イテェ!って、あれ? シア!」
腕を組み、こちらを見下ろすシアがそこにいた。
シアから俺を庇うように、両手を広げているワッツもいる。
「ワッツ! 無事だったのか?」
「エエ、エガ、エガさん、こそ、よ、よよよかった。目ががさめ、覚めて!」
ワッツは子犬のように小刻みに震えている。
なにをそんなに震えているんだ?
「ワッツ、彼女はシア。俺を助けてくれている。味方だから安心して……」
「な、に、が、安心してなのよ!」
シアは俺の太ももあたりをゲシゲシと蹴ってくる。
いたっ! 痛い。かなり痛いです。ごめんなさい。
「油断して死にかけるなんて!」
「や、やめて、エガさん、まだ起きたばり、だから!」
なおも蹴り続けるシアと俺の間に、ワッツが体を割り込ませて庇ってくれた。
シアは腕を組んだまま、大きくため息を吐く。
俺も起き上がって、周りを見渡す。見覚えのある鍾乳石やゴツゴツとした硬い地面。洞窟らしいひんやりとした湿気。時折り響く地鳴りのような音。どうやら奈落に戻ってきたようだ。
「エガ。あなた、いつから記憶があるの? 現状は理解できてる?」
「現状って……。ノムから逃げようとしてたら掠奪蟻が現れて、乗って逃げようとしたら、ノムが何かして、俺の腹を……って、傷がない?」
自分の腹部をさする。そこに開いたはずの穴はなく、傷跡も残っていない。
「シアが治してくれたのか?」
「……いいえ。私の方にも大きな衝撃が伝わってきたから、かなりの深傷を負ったようなのはわかったんだけど、返事もなかったし。ここに戻ってきた時には、もう傷はなかったわ」
深傷どころか致命傷だったのは言わない方が良いだろうか?
「詳しく聞きたかったけど、そちらのお嬢さんは、私のことを怖がっているのか、話にならないみたい」
シアがワッツに目線を向けると、ヒッと短い悲鳴をあげる。小さな体がより小さく見える。何をそんなに怖がっているのだろう。いや、確かに怖いが……。
「ワッツ、大丈夫だから。俺が気を失っている間に何が起きたのか、教えてくれないか?」
ワッツは首を振る。
「あ、あたしもよくわからなくて。あの聖騎士の人が、腕から黒い何かを発射させて、エガさんのお腹が貫かれて……」
貫かれたという言葉に、シアがピクッと反応する。
あっ、バレた。怒られそう。
「そしたら、エガさんの身体がすごく、熱くなって、どんどん穴が塞がっていって……」
うん、何が起こったのかぜんぜんわからないが、二人とも助かってよかった。
『よくないわよ』
すみません、と心の中で謝っておく。
でも本当に何が起こったんだろう?
「身体強化が強過ぎて、自己再生能力まで進化しちゃったとか?」
「……わからないわ。わかったのは、やっぱりあなたは運が良い、ということだけね。でも、もしかしたら聖細剣の……」
シアはくるりと背を向けて、何か呟いている。
俺もなんで掠奪蟻が助けてくれたのかとか、いろいろ聞きたいことはあるのだが……。
「エガさん、私も聞きたいことがあるのですが……」
ワッツが真剣な顔で俺を見つめている。
そうだな。ここまで巻き込んでしまって、話さないわけにはいけないだろう。
チラリとシアに目線を向けても、彼女はまだ何か考え事をしている。きっとフォローしてはくれないだろうな。誤魔化す気はないが、うまく説明できるだろうか。
気づいたら異世界にいたこと。邪教に操られて、シアの故郷を壊滅させた元凶が俺であること。ワッツが掠奪蟻に襲われたのは、奈落の脱出の為に蟻の巣を刺激してしまった俺たちの所為であること。今の体は、もともと違う人間のものだったこと。
どう罵倒されようと、甘んじて受け入れないといけない。今、責められるべきは彼女を騙していた俺だ。
「ワッツ、実は……」
「──あの女性がエガさんの一番なんですか⁈」




