三話 ありがとう
近所のスーパーのお菓子売り場で、しゃがんで小さい飴を持つ。味はグレープ。透明な袋に梱包されている紫色の砂糖の塊のような粒は、天井の蛍光灯によって輝いている。その時、奥から見知った顔が歩いてきた。勇心だ。勇心は私に気づいて、一瞬目を見開いたが、すぐにしゃがんで目の前のお菓子に目線を戻した。夕方のスーパーには主婦らしき人たちがたくさん買い物をしているが、お菓子売り場には私たちしかいなかった。
私は何か話そうとした。勉強進んでる?とか、今日から夏休みだね。予定は何かあるの?とか。そういうどうでも良いことしか思い浮かばなかった。言葉が口から発せられそうになった時、勇心は立ち上がり甘く、体に悪そうなスナック菓子を2つ手にとり、「じゃあな」と言い残し去っていった。その場には私以外いなくなった。私はグループ味の飴だけ買った。
時刻が、7時になった時、2階にある自分の部屋からリビングへと降りた。母が、机のうえで静かに麻婆豆腐を食べている。私の分の麻婆豆腐も、母が座っている反対側に置いてある。冷凍ご飯を冷凍庫から取り出しレンジでチンする。
温め終わったご飯を電子レンジから取り出し、椅子に座る。そのまま箸を使って麻婆豆腐を食べ始める。麻婆豆腐に入っている木綿豆腐を口に運んだ。その時に母が口を開いた。少し怒り気味の、子から見たら怖い顔をしている。
「いただきますは?命を粗末にしてるの?」
私は口の中に入っている豆腐を飲み込んだあと、箸を机の上に置き手を合わせた。「いただきます」と、私が小さな声で言う。母はそれに満足したのか、先ほどよりも表情が和らいだ。
気まずい空気の中、私は口を開いた。
「お母さん、迷惑をかけてごめんなさい」
母は突然のことに少し驚いていた。しかしすぐに小さく微笑んだ。「なぁに言ってるの。他の家の子も迷惑をかけているの。私だって昔は両親に迷惑をかけたわ。気にすることはないのよ」
そうなんだ、と言葉を返した後、数秒間静寂が訪れた。私の腕が、足が、体が少し震えている。緊張している。これは恐怖か?それとも別の何かか?
「ねぇ、お母さん。お母さんはこの家好き?ねぇ。僕は大嫌いだよ。ぬくもりもないし、生きにくい。でもね、産んでくれたことには感謝してるし、そもそもこの家がなければ僕は生き残れなかった。生き残っただけ、マシかもしれないけどさ。何が言いたいかって言うとね、ええっと……、被害者面してごめんねってこと。お母さんこそ休むべきなのに。僕は今日から夏休みだよ。もっとお母さんみたいに頑張っている人に休みをたくさん与えるべきだと思うんだ。僕だけ楽してごめんね。お母さんのことは大嫌いだし、この家の雰囲気からも今すぐ逃げ出したい。それでもここまで育ててくれてありがとう。僕は生きててよかったって、ちょっとだけ思ってるよ。ありがとう」
母は何か言おうとしたらしいが、思うように言葉が出てこなかった。母が言葉をまとめているうちに麻婆豆腐とお米を食べ終わり、食器をシンクにおいて部屋に戻った。
時計を見ると、7時半だった。ベッドにダイブし、ゲーム機を開く。お気に入りのRPGゲームを始める。楽しい。
私はゲームがそこまで得意ではない。クラスメイトに比べたら初心者だ。しかし、私はクラスメイトの中でも一番、と言ってもいいくらいゲームが好きだ。受験生なのに、ゲームばっかりしている。
このRPGゲームは一度全クリしたことがある。今は2周目。レベル上げをしたあと、中ボスを倒しに行く。約15分間の死闘の末、勝利した。ゲームをやるときだけは、心が楽になる。一生、この楽な心を持って、生きられたらどれほど楽なのだろうか。
ゲーム機を閉じ、部屋の小さなロッカーから肩掛けバッグを取り出す。中に、財布、キャラクター柄の安っぽい腕時計を入れる。キッチンへ降りると、母はいなかった。代わりに、廊下の突き当たりの、母の部屋の電気がついていた。自分の部屋でゴロゴロしているらしい。
学校に持っていってる750mlサイズの水筒に水道水をたっぷり入れ、冷凍庫から取り出した氷を4粒入れた。
廊下を歩き、私は外に出る。バッグから腕時計を取り出し確認すると、今は8時半。
私の体は、夜風に当たる。心地よい温度で、とっさに私は欠伸をしそうになったが、噛み殺した。ゆっくりと、確実に、この家から離れていく。
自転車に乗れれば、移動も楽なはずなのに、私は自転車を持っていない。自分の足で大地を踏み進める。
私を縛るものはなくなったのだ。




